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Tシャツとサンダルの候

赤穂義士遺髪塔とおびんずる様


菊池渓谷で涼を取った後。


道の駅などをブラブラしながら、田舎道をのんびりと車を走らせて帰る。

混雑する山鹿市内は迂回し、もう直ぐ3号線という辺りで、


「ほら、あそこ。赤穂義士遺髪塔って書いちゃるよ。」(家内)

「ほんなこて(本当だ)。ちょっと寄ってくか。」(私)


通りから少し山手に入ると、程なく寺の山門が見えてきた。


日輪寺。

山鹿市のHPから一部抜粋、

日輪寺(にちりんじ)は、平安時代に天台宗の寺として開山され、鎌倉時代に曹洞宗に改められました。菊池武時、加藤清正、細川忠利ら歴代の領主より手厚く庇護された名刹です・・・云々 。

との事。


山門に吊るされている梵鐘は、室町時代に鋳造された物と書いてある。




さて問題の、赤穂義士遺髪塔はというと、



山門を入ってすぐの左手にあった。

想像以上に立派である。


吉良邸討ち入りの後、御処分が下されるひと月半程の間、首魁の大石内蔵助以下17名を預かったのが細川藩だったとの事。

彼らの遺言により、義士達は浅野家墓所の泉岳寺に葬られたが、伝右衛門はせめて遺髪なりともと願い出て、許されるとそれを国に持ち帰り、この日輪寺境内に供養塔を建立した。(由来から抜粋)



よもや大石内蔵助の遺髪が、遠く離れたこんな片田舎に収められていようとは。

山鹿の古刹に埋もれた歴史の四方山話に、少し感動したりする。


羅漢薪。

鎌倉時代、国主の菊池武時が植えたと伝えられる。

樹齢690年。


おびんずる様?

折角だ。

行ってみるか。


本堂横の池を回り込むと、



高台へと続く石段が現れる。

よっこらせと登って行くと、


どひゃー!!


これか、おびんずる様って。


高さ30mもの大仏、というかオブジェが聳え立っていた。

ところで、おびんずる様っって・・・一体誰?

例によって、説明板を読む。


御釈迦様の御弟子で、名前を賓度羅跋羅堕闍(ひんとらばらだしゃ)と申され・・・云々。
 

ふーん。



インドアーリア人たるおびんずる様が、このいかにも日本人的な容姿と法衣である事に、疑問などは持ってはいけない。


直ぐ近くの小屋には、撫で仏となったおびんずる様が横たわっていた。

自分の患部と同じ個所を撫でると、あーら不思議!

たちどころに治ってしまうと言う、有難い仏様なのだ。

但し、この小屋に置いている蝋燭と線香を購う必要があるらしい。






赤穂義士遺髪塔と、この落差は一体・・・


コメント一覧

minou_yamatai
貴ブログ、大変興味深く拝見いたしました。
義士切腹の庭が今も残されているんですね。
貴重な情報有難うございました。
今度、東京に行った時には、是非立ち寄りたいですね。
hidebach
細川家の江戸上屋敷の義士切腹の庭は現在も残されています。

下記4URLをご覧ください。(白金高輪に残る肥後 熊本藩細川家下屋敷跡(忠臣蔵を歩く 最終章)(https://blog.goo.ne.jp/hidebach/e/d3ee63842cd0160e81ab3f100675d4ae
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