エスタニスラウ神父が日本に向かうきっかけの一つに押田成人神父との出会いがありました。1974年春ベツレヘムの光の御心の洞窟(la Cova del Cor de Llum)でのことでした。
押田成人神父というとヨハネ福音書の特異な翻訳を残されたことしか知りませんでしたが、気になって『押田成人著作選集1』を取り寄せました。
最初の方は彼が出逢った人々との回想を綴った文章が続くのですが、それがどれも非常に印象的で詩のように美しいお話なのです。
その中に師の出隆と三人くらいの弟子で友だちの別荘に籠もって対話したことの回想がありました。
出隆というと私は岩波文庫のアリストテレス『形而上学』の翻訳ぐらいしかイメージが湧きませんが、初めて彼の人柄を知り心打たれました。
「山中暦日無しという感じで、もう、今日が何日で今が何時だっていうことなしに話し合いました。そして、その時に、僕は自分の世界っていうものをグサッと見せられたんです。それは、出先生が『押田、自殺はなぜしちゃいけないんだ?』と言われたんです。で、その頃の僕は、まだ教義とか神学なんていうことにアタマがいろいろ行っていたときだったので、自殺についての神学論を始めちゃったんだなァ。そしたら、先生はパッと立って、ご自身の部屋にひきこもってしまわれた。その時、僕は本当にもう短刀で胸を突かれたような気がしました。先生の言葉のうしろにある痛みの世界を受け取らないで、ただ観念の次元で対話した自分の悲しさを、そういう事件を通じて感じさせられましたね。」(28頁)
パラパラと見ていくと、途中に押田成人と出逢った人のコラムが所々に挿入されています。その中に宮本久雄「押田神父とキリシタン」があり、そこにエスタニスラウ神父のエピソードがありました。
「隠れの人々との出会いと共に私とスペインの隠者エスタニスラウ神父の出会いにもふれなければなりますまい。神父はスペインの観想修道院モンセラートで修道に沈潜した後、押田神父の紹介により小値賀の近くの野崎島で隠修生活を始めた方です。私がどうしてはるばる異郷・隠れキリシタンの土地に骨を埋めようとされるのかと聞きますと、次のように応えられました。彼はまず『イエスの御名の祈り』を口にしました。この祈りは東方キリスト教の祈りの伝承で、イエスの御名をいわば念仏のように唱える射禱(しゃとう)です。神父によると、イエスの御名に潜心してゆくと、宇宙全世界を包むイエスの御心に跳入します。その御心の中でこそ、多くの苦しむ貧しい人々との円(まど)いに出会うことができます。神父はその御心の中で受難したキリシタンと出会い共に祈るという召命を受けたので、今旧キリシタン集落跡で彼らの霊と共に祈っているのだというのです。神父はその後野崎島を出て死ぬまで他の土地で祈り続けられました。」(109-110頁)
エスタニスラウ神父の伝記を書いたMarcel Capellades Ràfols も初めて神父様に出逢った時の回想で「イエスの御名の祈り」についてふれています。
「私の注意は全て隠者に向けられていました。特に彼の手にある物、よく整った結び目のある黒いウールで出来た紐に。彼はそれを会話の間もロザリオを繰るように操っていました。
あなたの手にしているものは何ですかと問いました。
『これはイエスの御名の祈りのためのロザリオです』
『イエスの御名の祈りとは何ですか?』と問うと、
『[自分で]調べなさい』とドライに応えられました。」
翌日彼はある人に「イエスの御名の祈り」を問うて『あるロシア巡礼者の物語』を勧められます。
この書は『無名の順礼者』として翻訳出版されています。旧版のローテル訳と後半部を増補したローテル・斎田靖子訳がありますが、いずれも絶版で古書も手が出しにくい価格になっています。