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芹沢光治良と道院

2022-01-14 13:14:00 | 日記

(炁楽仙女さんが道院の秘経である鎮心経の解読本を出された頃の日記の転載です。読み返してみてあれからもう七年過ぎたとは信じられない気持ちがします。)

鬼雷さんの鎮心経の話に触発されてWeb探索しましたが、さすがに何の情報も出てきません。

その途中で笹目秀和さんのことについて書いてあるブログに行き当たり、見ていると作家の芹沢光治良さんに会った話があるのに気付きました。

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http://blog.livedoor.jp/lrf6662/archives/39540002.html

「気マガジン」という気功雑誌編集長と副編。

小生と井上球二先生の四人で芹沢光治良翁と対談いたしました。

その時、突然、芹沢翁がせき込んだ。

そして翁は私に「あなたのセキをうけました」と申されました。

そして、「神様があなたのノドを治したよ」とおっしゃいました。

私は何を先生がおっしゃっているのか、一瞬判断に躊躇しました。

私はその頃、郭良気功大師の元に外気治療を受けに、静岡より東京に通っていた。

私は芹沢翁も少しボケたのかなと思った。

手の平療治にしろ、気功治療にしろ、手の平より気を発して治療をするのに、手も使わず、

ただひとこと「神様があなたのノドを治しましたよ」のひとことであった。

そのひとことで、積年の私のへんとうせんは治っていたのである!!

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芹沢光治良は『神の微笑』で知り、これに続く神シリーズが発刊されるたびに夢中になって読んだものでした。高齢になって天理教の教祖と対話したり、庭木と会話する小説を出したので、昔からのファンの人は大変驚いたことであろうと思います。

http://tenmax.sakura.ne.jp/cid21772/2013/03/09/神と話した作家「芹沢光治良」-3-うそと言う名の/

ここに泰山木との対話の始まりの件がありますが、いま読み返しても涙が零れそうになります。

芹沢光治良の名前を見て、彼が道院と繋がっていたことを思い出しました。自伝的小説『人間の運命』に道名を授かった経緯が記されていたのです。どこにあったか調べてみると第十二巻「暗い日々」でした。芹沢光治良は森次郎の名前で登場します。以下引用して見ます。

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 次郎がこの紅卍字会の運動を知ったのは、一郎と北京へ行った時だった。

 或る日、日本大使館の林一等書記官が一郎と次郎に会いたいという、同盟の記者に言伝があって、一等書記官を大使館に訪ねると、北京の紅卍字会が一週間も前から二人を探していたとのことであった。道院のフウチに「森一郎こと真一と森次郎こと映光が、北京に到着するが、この日本の兄弟は、天帝から真一、映光という道名を授けられたとおり、道士であるばかりでなく、平和の使者であるから、歓待し、あらゆる便宜をはかるように」というようなことが出たが、北京の紅卍字会のなかには、森兄弟を知る人がないからとて、林書記官に連絡があったとのことだった。

(中略 翌日道院訪問の場面に移ります)

 これがフウチかと、次郎は好奇心で全身をこわばらせながら、注意を集中した。しばらくして、二人の道士の持った棒が突然そのリズミカルな動揺をとめた。すると、卓子の漢字を書きとどめていた道士の横にかけた道士が、それまで書かれた漢字を文章にして、これまた朗々と読み上げた。しかし、次郎は意味がわからなかった。林書記官が低い声で通訳した。

「天帝老祖はみなが真一、映光をここに歓迎したことを嘉する。真一、映光の道友は天帝老祖が地上に送った平和の使者にして、この二道友が東方日本国より来たるは、この地に和平の来たる証として、みなも喜び祝すべし――と、まあこんな意味です」

「天帝老祖というのは、天帝と老祖ということですか」

「いいえ、機嫌のいい時は天帝老祖と自ら名のるらしいですよ」

 そう話しているうちに、砂の上に赤い毛氈がしかれて、その上に白紙がのべられた。そして、二人の道士が両方から持った棒の中央に、棒の代りに太い毛筆をつないで、たっぷり墨汁をふくませてから、二人の道士はフウチの場合のとおりに、棒の両方のはしを持って、目を閉じた。壁にそって立った数人の道士が、再び音楽的な斉唱をはじめたが、二分もたたないで、棒はするすると左右に動き出して、棒の中央にさがった毛筆が、白紙の上に一気に黒々と達筆に書きあげた。とたんに斉唱はたえたが、全道士が等しく歓声をあげた。

「天帝の書です。めったに天帝の書は授からないので、みな歓喜しているのですよ」

 そう林書記官が次郎たちに話した。道士たちが三人の日本人に感謝の言葉を浴びせている間に、天帝の書が壁にはられた。余りにみごとで、達筆の余り、次郎は読めなかった。

「遥かなる東方より陽光そそぎ、雪霜徐々にとけて、春光地にみつれば、万邦善隣の喜びを寿ぐべし――とでも読むのでしょうか」と林書記官が代って読んで聞かせた。

 次郎はその意味よりも、その書が、壁にはられた他の書と、その筆蹟、運筆の妙等、すべて同一で同一人によって書かれたようなのに注意を惹かれたが、林書記官は、他の道院で書かれた天帝の書もみな同一筆蹟であるから、天帝が唯一の創造神であることが信じられると、話した。

 次郎たちは院長や道士たちに送られて講堂を出たが、広い庭で、道士たちは幾度も次郎たちに握手して、再会を約束させては、別れをおしんだ。今日のフウチと書は、直ちに本部に通知するから、次郎たちが支那旅行中、何れの都市の道院も道士も、兄弟として迎えるので、遠慮なくわが家のように訪ねるようにと、最後に念を押して、門まで送って来た。

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そういえば私も昔炁胞牌(漢字が合っているか分かりません)というのを求めて、そのとき申し込んだ人は笹目仙人が天帝に報告の祈祷?をしてくれるということだったのですが、ひょっとして本当に通じていたのかしらと思う今日この頃です。







芹沢光治良の死について

2022-01-14 10:25:00 | 日記

2014.7.5の日記です。

芹沢光治良の『神の微笑』初版本が届きました。

実はこの本わたしは既に2冊持っているのですが、初版本にある秘密が隠されているという話を聞いたので、自分の目で確認するため、探して求めたものです。

この話は東京大学宗教学年報.別冊. XII , 1995.3.31,pp. 4-5に掲載されたエッセイ、松本「ある不思議な事 : 芹沢光治良氏の死をめぐって. 」に記されていました。

芹沢光治良の死の日付の予言が彼の小説『神の微笑』の中に絶対間違うはずのないところを間違えて隠してあるという天使のメッセージを受け取った方がいたということです。





143頁を見ると、場面は小平教授(仮名)が存命の親様(中山みき)の言葉を伝えるという伊藤幸長(のちの大徳寺照輝)を伴って芹沢を訪ねてきたところ。芹沢の書いた『教祖様』に足らないところを指摘して、新しい教祖伝を書くようにとのメッセージを受け取るところです。

確か松本滋さんが小平教授のモデルではなかったでしょうか?

手に入れた初版本を見ると確かにその間違いがありました。


初版本 昭和61年7月15日印刷、昭和61年7月20日発行

平成5年9月15日 26刷 修正済みです。

松本さんのエッセイでは他に、芹沢光治良が「庭の泰山木との対話」が事実であったと言っていたことなども記されています。

松本滋さんのエッセイはこちらで、ダウンロードできます。

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=30307&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1


エスタニスラウ神父と押田成人

2022-01-10 01:01:00 | 日記
エスタニスラウ神父が日本に向かうきっかけの一つに押田成人神父との出会いがありました。1974年春ベツレヘムの光の御心の洞窟(la Cova del Cor de Llum)でのことでした。
押田成人神父というとヨハネ福音書の特異な翻訳を残されたことしか知りませんでしたが、気になって『押田成人著作選集1』を取り寄せました。
最初の方は彼が出逢った人々との回想を綴った文章が続くのですが、それがどれも非常に印象的で詩のように美しいお話なのです。
その中に師の出隆と三人くらいの弟子で友だちの別荘に籠もって対話したことの回想がありました。
出隆というと私は岩波文庫のアリストテレス『形而上学』の翻訳ぐらいしかイメージが湧きませんが、初めて彼の人柄を知り心打たれました。

「山中暦日無しという感じで、もう、今日が何日で今が何時だっていうことなしに話し合いました。そして、その時に、僕は自分の世界っていうものをグサッと見せられたんです。それは、出先生が『押田、自殺はなぜしちゃいけないんだ?』と言われたんです。で、その頃の僕は、まだ教義とか神学なんていうことにアタマがいろいろ行っていたときだったので、自殺についての神学論を始めちゃったんだなァ。そしたら、先生はパッと立って、ご自身の部屋にひきこもってしまわれた。その時、僕は本当にもう短刀で胸を突かれたような気がしました。先生の言葉のうしろにある痛みの世界を受け取らないで、ただ観念の次元で対話した自分の悲しさを、そういう事件を通じて感じさせられましたね。」(28頁)

パラパラと見ていくと、途中に押田成人と出逢った人のコラムが所々に挿入されています。その中に宮本久雄「押田神父とキリシタン」があり、そこにエスタニスラウ神父のエピソードがありました。

「隠れの人々との出会いと共に私とスペインの隠者エスタニスラウ神父の出会いにもふれなければなりますまい。神父はスペインの観想修道院モンセラートで修道に沈潜した後、押田神父の紹介により小値賀の近くの野崎島で隠修生活を始めた方です。私がどうしてはるばる異郷・隠れキリシタンの土地に骨を埋めようとされるのかと聞きますと、次のように応えられました。彼はまず『イエスの御名の祈り』を口にしました。この祈りは東方キリスト教の祈りの伝承で、イエスの御名をいわば念仏のように唱える射禱(しゃとう)です。神父によると、イエスの御名に潜心してゆくと、宇宙全世界を包むイエスの御心に跳入します。その御心の中でこそ、多くの苦しむ貧しい人々との円(まど)いに出会うことができます。神父はその御心の中で受難したキリシタンと出会い共に祈るという召命を受けたので、今旧キリシタン集落跡で彼らの霊と共に祈っているのだというのです。神父はその後野崎島を出て死ぬまで他の土地で祈り続けられました。」(109-110頁)

エスタニスラウ神父の伝記を書いたMarcel Capellades Ràfols も初めて神父様に出逢った時の回想で「イエスの御名の祈り」についてふれています。

「私の注意は全て隠者に向けられていました。特に彼の手にある物、よく整った結び目のある黒いウールで出来た紐に。彼はそれを会話の間もロザリオを繰るように操っていました。
あなたの手にしているものは何ですかと問いました。
『これはイエスの御名の祈りのためのロザリオです』
『イエスの御名の祈りとは何ですか?』と問うと、
『[自分で]調べなさい』とドライに応えられました。」

翌日彼はある人に「イエスの御名の祈り」を問うて『あるロシア巡礼者の物語』を勧められます。
この書は『無名の順礼者』として翻訳出版されています。旧版のローテル訳と後半部を増補したローテル・斎田靖子訳がありますが、いずれも絶版で古書も手が出しにくい価格になっています。

エスタニスラウ神父伝記拾い読み5

2022-01-09 18:05:00 | 日記
修道院でのエスタニスラウ神父の生活のリズムは非常に厳格なものでした。腎不全のために重病になるまで彼の健康は悪化しました。医者は完全に萎縮した腎臓を取り除くために手術することに決めました。しかし、執刀医はエスタニスラウ神父がその手術に耐えられないと確信し、彼に知らせました。彼の死の時が来ました。それにもかかわらず、手術することが決定されました。修道院長エスカレと何人かの修道士は別れを告げるためにバルセロナの病院に行きました。 
「さようならエスタニスラウ神父。天国へ!」修道院長は言いました。 
「いいえ、師父なる修道院長、私はまず隠遁者にならなければなりません」と彼は答えました。 
修道士の死に備えて祈りが捧げられ、エスタニスラウ神父は全く寛いでいました。さて、看護師が担架で彼を運ぶために来たとき、エスタニスラウ神父が自分で身を起こしたので、彼が手術を受けるのに最も深刻な状態の患者であるとは信じられませんでした。担架の上でさえもそうだったのです。 看護師は患者を間違っていないか確認しなければなりませんでした。 
彼は手術室に入り、麻酔科医は彼に次のように説明しました。
「少し注射します。すると、口の中が苦くなり、ピンク色になり、手術から目覚めるまで何も感じなくなります。では、私にあなたの腕をください。」
 「どうぞ、それはあなたのものです」とエスタニスラウ神父は答えました。 
「麻酔科医が言ったようにすべてが進みました」とエスタニスラウ神父は私に説明しました。「しかし、ピンク色は白くなりました。それからトンネルに入ると、電車の警笛が鋭くなりました。トンネルの終わりに、私は自分が底なしの深淵に突っ込んでいるのを感じました、そして私は無限のめまいを感じました。しかし、それから大きな沈黙があり、私は無限の平和を経験しました。白光が黄金になりました。私は純粋に幸せでした。」 
この意識状態は、手術中持続しました。彼らはエスタニスラウ神父を彼の部屋に戻し、神父は目覚めたとき、彼らが自分にこう言うのを聞きました。
「エスタニスラウ神父、動かないでください、それは非常に危険です!」
それは彼が現実に戻るために、できる限り動いたためでした。
「そうしなかったら、私はその状態から抜け出せなかったでしょう。できる限りの努力をしたので、それは私のパジャマが汗浸しになるほど、負担がかかりました。」 
これは死でしょうか?死とは何でしょうか?エスタニスラウ神父は本当に死んだのでしょうか?現実は彼がモンセラートに戻ったということです。腎臓が取り除かれました。これから、彼は残りの人生を一つの腎臓で生きます。彼は45歳でした。一旦回復すると、彼は徐々に通常の修道院生活を再開しました。 1961年4月のある日、修道院長エスカレはエスタニスラウ神父の部屋に入りました。彼はタイプライターの前にいて、修道士の博士論文をレビューしていました。 
「エスタニスラウ神父」と修道院長は言いました、「少し休息したい場合は、聖なる洞窟[Santa Cova]に行ってしばらく休むことを許可します。 エスタニスラウ神父は黙っていました。彼はすぐにすべてを残して洞窟に行きました。夕方、修道院長はこれを修道士たちに伝え、「心配しないように。3日後には耐えられず、またここに来るでしょう」と言いました。しかし、エスタニスラウ神父は戻って来ませんでした。それは1961年5月1日、モンセラートでの彼の隠修生活の始まりでした。 

Pare Estanislau Maria Llopart 
El monjo, l’ermità 
MARCEL CAPELLADES RÀFOLS 
Publicacions de l’Abadia de Montserrat 

"第8章 死の扉で" より

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エスタニスラウ神父と共に来日されたミリアムさんによると、最初に隠修生活を修道院長に申し出たとき断られたそうですが、神父様は修道院長に「あなたの方から私に隠修生活をするようにお願いするときが来るでしょう」と言い、それを聞いた修道院長は笑って「それはないよ」と言ったそうです。(記憶に基づいて書いているので若干違うかもしれません) 
ミリアムさんの作成した略歴によると腎臓の手術は1961年2月7日、隠遁生活の許可を得たのはここでは「1961年4月のある日」とありますが、略歴に1961年4月27日と記されています。 

エスタニスラウ神父伝記拾い読み4

2022-01-09 17:43:35 | 日記
Cant al Crist Llum
光なるキリストに捧げる歌

Desvetlla't, tu que dorms,
aixeca't d'entre els morts,
i sobre tu el Crist resplendirà,
i tu tocaràs el Crist i el Crist et tocarà.
目覚めよ、眠れる者よ。
死者のなかから、立ち上がれ。
そしてキリストが汝を照し、
汝はキリストに触れ、キリストは汝に触れるだろう。

Ell, aquest Sol de la Resurrecció, 
engendrat abans de l’aurora
i que ha donat la vida amb els seus raigs, 
Ell, el Crist, t’il·luminarà.
彼こそ、復活の太陽、
黎明に先立って生まれた者、
その光条で命を与えた、
彼こそ、キリスト、汝を照らさん。

OM! L’Esplendor del Pare,
l’objecte suprem dels nostres desigs! 
Meditem el seu misteri diví,
que ell inspiri tots els nostres pensaments!
オーン! 御父の輝きよ。
我らの望む至高のもの!
彼の神聖なる神秘を瞑想せよ。
彼は我らの思い全てに霊を吹き込むだろう。

Llum del matí que veiem, 
fruit de la Llum primordial
que brilla més enllà del firmament, 
que penetra la tenebra!
我らが見た夜明けの光、
そは至高の光から生まれた者、
天空を超えて輝きわたり、
闇を貫く。

Tot contemplant aquesta Llum Altíssima, 
aconsegueix la Llum suprema!
Endut pel seu Esperit, guaita-la Yuhashiro, 
que nosaltres ja la contemplem!
この最も高き光を見て、至高の光を得よ。
彼の霊に奪われて[我を忘却して?]、この光を見なさい、ユハシロー、
我らはすでにそれを見た。

OM! Crist-Sol, escampa els teus raigs, 
aplega’ls damunt els teus servents,
que vegem de Tu la forma més bella! 
Tu que ens el reveles, Imatge del Pare, 
El Veritable!
オーン! キリストなる太陽よ、汝の光をふり注ぎ、
汝の僕[しもべ]達の上にその光を集め給え、
汝の姿をより美しく見られるように。
我らに啓示したもうた汝こそ、御父の似像、真理なり!

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五島列島で出会った隠れキリシタンの青年?に請われて洗礼を授けた時に唱えた詩、祈りです。Yuhashiroはその方の名前だと思います。ユウジロウがなまったのでしょうか?キリスト教の枠組みにとらわれない、普遍的な信仰がうかがえる美しい祈りです。エペソ人への手紙5,14、アレクサンドリアのクレメンス、リグ・ヴェーダ3 62, 10(ガーヤットリー・マントラの部分)、サーマ・ヴェーダ、イーシャ・ウパニシャッドに基づいています。