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フィリピン再登録

フィリピン3年振り100回目

総武線のフィリピンパブ

2023-07-06 20:50:01 | 日記

現地PINAとの関係は、この3年間ですっかり精算された。フィリピンに行くたびに後ろ髪を引かれやすい自分は、ついつい寄りを戻したりして、ズルズルと関係が続くため上手くも行かなかったが、コロナのお陰でその関係も自然に淘汰されてある意味さっぱりしたのかもしれない。

方や日本では元々ショータが出来ない。正直言おう。日本に在住のPINAを信用出来てないのだ。もちろん人による事は判っている。が、説明難しい。

私とフィリピンとの接点は実は80年代にあった。最初の就職先が新規事業で取り組む特殊機器販売の部品の製造加工所の工程管理の為に初めての海外出張があった。それがフィリピンだった。その時の話はまた機会を改めるが、何故かフィリピンの縁のある私だった。

時は流れて90年代後半まだ都内にもタレントがフィリピンパブにも居た時代、私は初めてのフィリピンパブに足を踏み入れる事になる。

当時の私は離婚と別居で心も身体も疲れていた。ちなみに離婚は日本人の嫁。日本人パブの女性と付き合ったり別れたり、忙しい仕事と離婚の調停で心も身体もクタクタだった。総武線のとある駅、以前通った日本人のパブの横の歩道上にそれまで興味の無かった、フィリピンパブの呼び込みのお兄さんが私に声を掛けて来た。『フィリピンパブ、いかがですかぁ~』。

※見出し写真は2014年撮IN錦糸町プラザイレブンビル


ジャネットと何故終わった

2023-07-06 16:13:00 | 日記
ジャネットと何故終わったのか。それは私が悪い。彼女と出会った時はまだフィリピンでの仕事が始まったばかりで、対して成功もしてないのに気が大きくなって、彼女に多くの事を要求し過ぎていたのだ。後悔が有るとしたら愛している気持ちは本当だったのだから、直ぐに結婚とかのアクションを起こすべきだった。ただただ時間が過ぎていきすれ違いも始まった。しかしそれは私が勝手に疑心暗鬼になっていただけで、彼女は大きく傷ついて追い込んで大きな心の痛手も負わせてしまった。別れた後、何度か寄りを戻すタイミングも有ったが「覆水盆に返らず」。今だに自分が結婚に至らない原因は常に彼女と新しい出会いと比較しているからだろうか。彼女は今シンガポールに居る。

ディゴスの警察官

2023-07-05 11:03:17 | 日記

夜も更けて10時頃ディスコ市内のホテルに戻ろうと帰路の足の相談が始まった。何せトラックは壊れて道中に乗り捨ててある。その集落には他に自動車は無いのだ。しばらくすると壊れたトラックから集落まで送ってくれたバイクの2人の青年がモトクロスバイクで、トライスキルも頻繁に通る麓の国道沿いまで送ってくれることになった。光が差した。私とジャネットはそれぞれのバイクの後ろに乗ってスタートした。集落を出ると行きは気が付かなかったが未舗装で粘土質の路面は大量の雨水が流れた跡でとんでもなく大波を打っている。オフロードバイクじゃないと日常不便だろう。自動車でも車高の高いJeepとかしか役立たない。

さて運転の彼等はいつもの事で慣れていて上手いもんだ。安心して山道を降りて行きやっと舗装路に変わり更に快調だ。ところがライダーの青年が何やらぶつぶつ喋っている。怪しいぞ。そうするとプスプスとバイクのエンジンから異音が。そうするとスーッと止まったやないの。壊れたのだ

こんな事有る?行きも帰りも!

何やらバイクのメカをいじる彼ら。周りは民家の明かりの無いジャングルの様相。なんやら虫か鳥か獣かわかららい鳴声も聞こえて来た。もう一台に全員と考えたがバイクはモトクロス系なんで3人乗りは出来ない。ひとりはもう一度上の集落に戻って応援を呼ぶために向かってくれた。暗闇の道端で待っていると集落の方から降りてくるバイクのライトが近づいてくる、さっきの青年かと思いきや結構ごっついバイクの乗った警察官が搭乗。彼が国道沿いの交番まで連れて行ってくれる事になった。バイクも大きいので3人乗りで。

その後無事トライスキルを拾ってホテルの向かった。


私はダバオ空港にいた2

2023-07-01 10:54:46 | 日記

ダバオ郊外からディゴスにトラックは進む。荷台には大人に混じって3-4歳と思われる親戚の子達も乗っている。安全かどうか心配だ。でも地元でリラックスしているジャネットとの時間も何もにも変えず嬉しい時間だった。我々二人はディゴス市内のホテルに宿を取っていたのだが、お父さんとお兄さんの居る部落まで行こうと言うことになった。もちろんその後宿まで戻ろうという予定で。

ところで、この様に今の話をする途中で昔の事も思い出して、Blogに書ける機会も貴重かなと思う。既に記憶が薄くなっている当時の事を今書かないと、今後もっと薄まるなあと思う。

さてディゴスまで夜で渋滞も無くてすいすい進み、国道(たぶん)的な大きめの2車線の道を曲がり山道の細めの2車線道路に入る、古めのトラックは大きく揺れるがまだ舗装路だし安定して走る。この時点では私のみこの先どの様な道でどれくらい遠いかは判っていない状態。総勢10人ぐらいのトラックは快調に進むが、だんだん集落から離れて明かりも徐々に減って本気の山道に入る。20~30分進んだろうか段々路面の状況が変わって来た。舗装路が終わってただの泥道になるのだ。泥道と言っても既に乾いているから滑る様な事は無いが、過去にかけて雨が降って泥系の旧坂を大雨が下ったおかげで道路が恐ろしいほど波打って、時速5キロ程で走るトラックが大きく右へ左に揺れながら徐々に進んで行く。車内ではジャネットと私が会話を楽しんでいると、トラックが大きく右に傾いて止まった。トラックの前輪付近にドライバーと荷台の大人が集まって何か相談中。2~3分後事態が動かず私も車外に出てトラックの前輪を覗くと、片方の車軸とタイヤが完璧にトラックから外れてとても復旧する感じでは無いのだ。周りを見ると全く明かりの無い田舎の山道。既にダバオ空港でまな板の鯉で、まだどれくらい先に集落が有るのか判らない私は、どうにでもなれって感じ。多分この時点で9時ごろかな。

トラックの助手席でぼーっと待つこと20~30分、なんと上からオフロード系のバイクが2台現れて二人をバイクで上まで連れて行くってことになって、ありがたくバイクの後部座席に乗ってトラックも車輪が外れるほどのオフロードを上がって行く。上がりながら助かったとおもいつつ、あの荷台の幼い子供達はいったいどうなるのか心配だった。正直今だにどうなったか知らないのだ。

そらからバイクで更にとてもこの先に集落が有ると思えない道を10~20分程度すると真っ暗の田舎道に急にホンワカ明かりのついた家がちらほら見えて来た。

我々は信じられない程の山奥のお家の様なBAHAY KUBOに入って、どこからともなく軽い食事とサンミグを出してもらった。そしてそこに鎮座する巨大なカラオケセットで皆で歌い始めて私の番である。こんな山奥でカラオケってと思ったが、薄暗い電気の下でボン・ジョビを歌った。人里離れた山奥にIt's my lifeのイントロが山に響き渡った。

ちなみに昔の写真を探すが見つからない。うっかり出てきたら更新します。
※写真出て来たので再UP