ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

「自己実現」から解放されて

2009-08-17 | 日記
信仰のことが話題になりますと、それまでフランクに話していた人たちが急に黙ってしまい、その場の空気が変わります。「もっとリラックス、ざっくばらんにいこうよ」。
一般にクリスチャンと呼ばれる人たちは、信仰心があつい人、だから堅い人だと思われているようです。しかし、これは単純な誤解から出ていますが、それだけに根深いものがあります。聖書が「信仰」といいます場合、信仰心が厚い、薄いということは関係ありません。私たちの側の信じる心が問題なのではないのです。
もし、信じる側の心が第一であれば、信仰心と言おうが、結局は「鰯の頭も信心から」と同じことだろうと思います。聖書の信仰は、信じて仰ぐ対象が重要です。なにを信じるのか、だれを信頼するのかが、私たちの信仰を決定します。信仰と信心とは違うことをしっていなければなりません。ただやっかいなことに、言葉の上で区別することは簡単なのですが、実際には見分けることが難しいのです。
 たとえば、私たちが誰かを信じるを申しますとき、その人を信じているのか、それともその人を信じている自分を信じているのか、その区別がつきにくいものです。
 この事情は愛も同じです。私たちが誰かを愛すると言うとき、誰かを愛していると思っていても、それはしばしば、その人に愛されている自分を愛しているにすぎないことが多いと思います。その人を愛している自分を愛しているのであって、その人そのものを愛しているのではありません。ですから、しばらくすると二人の関係はだめになり、すべてがご破算になります。ただ、それはもともと相手に対する愛などなかったことが、表面に現れただけのことなのですが。信仰と信心も一見して区別がつきにくいほど似ていますが、時がたてばそのちがいは明らかになります。主イエスが、木の良し悪しは、その実で見分けることができる、と言われたとおりです。 
 1994年8月21日 日本基督教団藤沢北教会主日礼拝説教 澤田隆『思い起こせキリストの真実を(下)』 教文館 P.84

これを読むと、愛とか信仰とかは、自分の外にあるものだなあとしみじみ実感。自分は空っぽでいいのだと安心する。

かつて「親業」というものを受けたとき、インストラクターの先生がマズローの5段階の欲求について語られ、一番上がたしか、「自己実現」の欲求だった。ちょうど、私自身が教会に通い始めたころで、「では、人間が神を求める信仰心はどの段階ですか」と、場違いの質問したのを思い出す。先生がなんと答えられたかは忘れてしまった。今、わかることは、人間の信仰心は5段階目の「自己実現」と結びつきやすいということ。それに対して、「信仰」は、5段階の枠の外にあるのだろう。マズローがもし生きていたら、ちょっと聞いてみたい。