紀伊半島を六ヶ月にわたって廻ってみる事にした。
半島とはどこでもそうであるように、冷や飯を食わされ、厄介者扱いにされてきたところでもある。理由は簡単である。そこがまさに半島である故。
紀伊半島の紀州を旅しながら、半島の意味を考えた。朝鮮、アジア、スペイン、何やら共通するものがある。アメリカ、ラテンアメリカしかり。それを半島的状況と言ってみる。大陸の下股、陸地や平地の恥部のようにある。いや征服することの出来ぬ自然、性のメタファとしてとらえてみた。いや、紀伊半島を旅しながら、半島が性のメタファではなく性という現実、事実である、と思った。たとえば、一等最初に降り立った土地、新宮。その土地で半島を旅する男、私が生まれ、十八歳まで育ったので、これまでも新宮と覚しき土地を舞台に小説を書いたが、そこを征服する事の出来ぬ自然、性の土地だと思った事はなかった。熊野川は女性の性器、膣のようにある。尾鷲の、借金に困った女が、あの上田秋成の『雨月物語』巻之四「蛇性の淫」の場所、浮島の遊郭に身売りされて来たからだけではない。
そして半島をまわる旅とは、当然、さまざまな自然とそれへの加工や反抗、折り合いを見聞きする旅である。観光用の名所旧蹟には一切、興味はない。私が知りたいのは、人が大声で語らないこと、人が他所者には口を閉ざすことである。
中上健次 『紀州』序章
新宮から始まって天王寺まで、紀伊半島を一周する旅行記として読み始めたのだが、なかなか進まない。これはいったい小説なのか、紀行なのか、ルポなのか、つぶやきなのか、よくわからない文章が続いている。一文一文は理解できるのだが、第一章「新宮」を読み終えて、もう躓いている。よくわからない。上の序章はわかりづらい字面の中でも、もっとも読みやすい箇所。しかしそのまま受け取っていいものか、何か隠されたメッセージがあるのではないかと心配になるのだが。
新宮は、山がそのまま海に落ち込んだような町だった。観光地図とナビを頼りに健次の墓を探す。墓のある霊園は、「ワクワクドッカーン」というリサイクルショップの角を曲がったところをあがればいいことがわかり、難なく到着。しかしまわりは墓だらけ。何かの処理場のようなところの横に車を止めて、中にいた男の方に健次の墓の在り処を聞くと、にこやかに教えてくれた。親切に、車の止め場所まで教えてくれた。
先祖代々の墓という感じではなく、大きな石に「中上健次」と書かれた、明るい、堂々とした、感じのよい墓だった。日本酒が供えてあった。「こんにちは」と墓石に挨拶して、あたりを見回すと、山の斜面にたくさんの墓、墓、墓。遠くに海。「さようなら」と別れをつげ、ホテルに帰って『紀州』を読み始めたが、いつの間にか眠ってしまった。何か夢をみたような気がするが、覚えていない。
朝、再び読み出すと、ああ、この文章は夢うつつのときに、夢と現実を行ったり来たりするあの感覚と同じ。よくわからないけれど、時々わかったりするあの感覚、と思いながら少し読み続けることができたが、すっかり目が覚めてしまうとまたわからなくなった。
半島とはどこでもそうであるように、冷や飯を食わされ、厄介者扱いにされてきたところでもある。理由は簡単である。そこがまさに半島である故。
紀伊半島の紀州を旅しながら、半島の意味を考えた。朝鮮、アジア、スペイン、何やら共通するものがある。アメリカ、ラテンアメリカしかり。それを半島的状況と言ってみる。大陸の下股、陸地や平地の恥部のようにある。いや征服することの出来ぬ自然、性のメタファとしてとらえてみた。いや、紀伊半島を旅しながら、半島が性のメタファではなく性という現実、事実である、と思った。たとえば、一等最初に降り立った土地、新宮。その土地で半島を旅する男、私が生まれ、十八歳まで育ったので、これまでも新宮と覚しき土地を舞台に小説を書いたが、そこを征服する事の出来ぬ自然、性の土地だと思った事はなかった。熊野川は女性の性器、膣のようにある。尾鷲の、借金に困った女が、あの上田秋成の『雨月物語』巻之四「蛇性の淫」の場所、浮島の遊郭に身売りされて来たからだけではない。
そして半島をまわる旅とは、当然、さまざまな自然とそれへの加工や反抗、折り合いを見聞きする旅である。観光用の名所旧蹟には一切、興味はない。私が知りたいのは、人が大声で語らないこと、人が他所者には口を閉ざすことである。
中上健次 『紀州』序章
新宮から始まって天王寺まで、紀伊半島を一周する旅行記として読み始めたのだが、なかなか進まない。これはいったい小説なのか、紀行なのか、ルポなのか、つぶやきなのか、よくわからない文章が続いている。一文一文は理解できるのだが、第一章「新宮」を読み終えて、もう躓いている。よくわからない。上の序章はわかりづらい字面の中でも、もっとも読みやすい箇所。しかしそのまま受け取っていいものか、何か隠されたメッセージがあるのではないかと心配になるのだが。
新宮は、山がそのまま海に落ち込んだような町だった。観光地図とナビを頼りに健次の墓を探す。墓のある霊園は、「ワクワクドッカーン」というリサイクルショップの角を曲がったところをあがればいいことがわかり、難なく到着。しかしまわりは墓だらけ。何かの処理場のようなところの横に車を止めて、中にいた男の方に健次の墓の在り処を聞くと、にこやかに教えてくれた。親切に、車の止め場所まで教えてくれた。
先祖代々の墓という感じではなく、大きな石に「中上健次」と書かれた、明るい、堂々とした、感じのよい墓だった。日本酒が供えてあった。「こんにちは」と墓石に挨拶して、あたりを見回すと、山の斜面にたくさんの墓、墓、墓。遠くに海。「さようなら」と別れをつげ、ホテルに帰って『紀州』を読み始めたが、いつの間にか眠ってしまった。何か夢をみたような気がするが、覚えていない。
朝、再び読み出すと、ああ、この文章は夢うつつのときに、夢と現実を行ったり来たりするあの感覚と同じ。よくわからないけれど、時々わかったりするあの感覚、と思いながら少し読み続けることができたが、すっかり目が覚めてしまうとまたわからなくなった。