ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

あの世から

2010-01-31 | 日記
ラブリー・ボーンを観た。
もうずっと以前にアメリカの雑誌だったか地方紙だったか忘れたが、「この一年で誘拐された子供たち」の顔写真が一面に並んでいる記事を見たことがある。
こんなところでは子供は育てられない、と思った。私のアメリカ嫌いはそこから始まったのかもしれない。

主人公の少女は、近所のいかにもインテリ風で気弱な紳士、しかし実はとてつもない変質者に殺される。
最初から犯人がわかっていて、死んだ少女の視点で、この世を眺めている、という映画はあまり見たことがない。死んだ人が何を考えているのかを知りたくて、この映画を観に行ったのだが、よく考えれば死んだ人にせりふを言わせているのは生きている作家であって、劇中の「死者」の言葉は、あくまでその作家の創作でしかありえない。
それならば「イタコ」という霊媒に死者の言葉を語らせる方法の方が、まだ死者の言葉に近いのかもしれない・・・とある絶望を感じながら見ていた。死者と生者との間にある冷酷な断絶という絶望感。

この映画のテーマはそんなところにはないのだ。生きている家族のその後の物語なのだ。
少女の家族は、彼女が生きている時から、はっきりと言葉にはできない不穏な空気があった。特に母親と少女の間には、母親とその母親(少女のおばあさん)との関係をなぞるような、ギクシャクした違和感が漂っていた。犯行に会う日の朝、母親の編んだ手編みの帽子を嫌々そうにかぶる娘と、「なぜこの子は、こんなに私の言うことを聞かないのだろう」という母親の苛立ちが、画面に見え隠れし、この母娘はこの関係を超えるのに、後何年もかかるのだろうな、と思ったところで、いきなり事件に出会う。

もし事件にあわなければ、何年もかけて、母娘の関係を修復しながら、築き上げることができたかもしれないのに、突然ある男の犯行によって断たれてしまった。それから始まったばかりのボーイフレンドに対する想い。デートの約束の場所にいけなかったこと。そのすべての無念な思いを、作者が「死者」に語らせている。
死ぬということは、そこで死ぬ人のすべてがストップすることなのだと思う。
すべての思いが断念させられる、ということ。
私にわかった死者の思いはそれだけだ。

少女はケルト系の顔立ち、妹は肉食系のアングロサクソン、父親はアジア系のような顔立ち、そして天国の友人はインディアン、多民族国家アメリカらしい配役振りが面白かった。
映画で描かれる天国と地獄との間の煉獄のようなところは、なるほど、こんなところなのだろうか、と思わせるものがあるが、それはたいしたことはない。平凡な情景である。