昨日、「カズオ・イシグロを探して」という番組を見た。
今日、『遠い山なみの光』を読み終えたばかりである。これは、彼の処女作だということをテレビで知った。
読んでいる間、自分の20代後半の、社宅で子育てをしていた時の記憶や感情や会話が次々に蘇り、それは現在の私と連綿と繋がっているはずなのに、いつの間にか、自分はもう昔の自分ではなくなり、子供も、あの頃のような小さなこどもではなくなってしまったことに不思議な感慨を覚えた。
テレビで分子生物学者の福岡先生が言っていた「動的平衡」を保っている私は、一体何者なのだろうか。福岡先生によると、人間はじめ、生物とはその細胞がたえず変化している存在でありながら、ある種の平衡を保っている存在だと定義づけることができるそうだ。
生物学的には1年もすれば体のすべての細胞が総入れ替えになっているにもかかわらず、なぜ人間は、ひとりの同じ人間としての自分を保ちえるのか。
その答えとして頭の中の「記憶」という言葉を先生は言われていた。
「記憶」によって、その「動的平衡」が保たれているのではないかと。しかし、記憶というのは、絶対に一つだけこれが正しいというものはなく、自身の中で、デフォルメされたり、ベールがかかったり、ノスタルジックに変形したり、つかもうとしてもつかめるものではないらしい。
『遠い山なみの光』では、その辺りのことが、細やかに描かれている。同じ過去のシーンが、同じ主人公の頭の中でも、少しずつ色を変えて、何度か語られる。語っているうちに色はまたかわり、少しずつ形までもかえてしまう。そして今、自分に起こっていることについて、その記憶がゆるやかにつながる予感を暗示して話は終わる。
小説の主人公、悦子は、現在はイギリスに住んでいる。悦子の最初の結婚の地、長崎での日々が、当時の友人だった佐知子との会話を中心に話が進んでいく。
今の悦子は最初の結婚でもうけた長女、景子を自殺でなくした母だ。今は英国人の夫も他界し、たまたま帰省した二番目の娘、ニキに、過去の話を語るところから小説は始まる。
しかし、いったい、これは小説なのだろうか。筋を追って、それで満足する話ではない。感傷的になる話でもない。悲しみのベールに包まれているが、ただ悲しいというだけの話ではない。
この数年の間に亡くなった、義父や義母や父や猫や、友人とのことがしきりに思い出された。そのときかわした会話の隅々まで、思い出した。そして、今なら、あの時、あの人はこう言いたかったかったのではないかとわかったり、あの時の自分の感情が今、やっとつかめたり、また自分の中で「記憶」が新しく書き換えられる経験を、本を読みながら同時にしている。
そんな小説だ。
今日、『遠い山なみの光』を読み終えたばかりである。これは、彼の処女作だということをテレビで知った。
読んでいる間、自分の20代後半の、社宅で子育てをしていた時の記憶や感情や会話が次々に蘇り、それは現在の私と連綿と繋がっているはずなのに、いつの間にか、自分はもう昔の自分ではなくなり、子供も、あの頃のような小さなこどもではなくなってしまったことに不思議な感慨を覚えた。
テレビで分子生物学者の福岡先生が言っていた「動的平衡」を保っている私は、一体何者なのだろうか。福岡先生によると、人間はじめ、生物とはその細胞がたえず変化している存在でありながら、ある種の平衡を保っている存在だと定義づけることができるそうだ。
生物学的には1年もすれば体のすべての細胞が総入れ替えになっているにもかかわらず、なぜ人間は、ひとりの同じ人間としての自分を保ちえるのか。
その答えとして頭の中の「記憶」という言葉を先生は言われていた。
「記憶」によって、その「動的平衡」が保たれているのではないかと。しかし、記憶というのは、絶対に一つだけこれが正しいというものはなく、自身の中で、デフォルメされたり、ベールがかかったり、ノスタルジックに変形したり、つかもうとしてもつかめるものではないらしい。
『遠い山なみの光』では、その辺りのことが、細やかに描かれている。同じ過去のシーンが、同じ主人公の頭の中でも、少しずつ色を変えて、何度か語られる。語っているうちに色はまたかわり、少しずつ形までもかえてしまう。そして今、自分に起こっていることについて、その記憶がゆるやかにつながる予感を暗示して話は終わる。
小説の主人公、悦子は、現在はイギリスに住んでいる。悦子の最初の結婚の地、長崎での日々が、当時の友人だった佐知子との会話を中心に話が進んでいく。
今の悦子は最初の結婚でもうけた長女、景子を自殺でなくした母だ。今は英国人の夫も他界し、たまたま帰省した二番目の娘、ニキに、過去の話を語るところから小説は始まる。
しかし、いったい、これは小説なのだろうか。筋を追って、それで満足する話ではない。感傷的になる話でもない。悲しみのベールに包まれているが、ただ悲しいというだけの話ではない。
この数年の間に亡くなった、義父や義母や父や猫や、友人とのことがしきりに思い出された。そのときかわした会話の隅々まで、思い出した。そして、今なら、あの時、あの人はこう言いたかったかったのではないかとわかったり、あの時の自分の感情が今、やっとつかめたり、また自分の中で「記憶」が新しく書き換えられる経験を、本を読みながら同時にしている。
そんな小説だ。