ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

ぱわーすぽっと

2018-08-06 | 日記
思ったより早く復帰することができました。再開するにあたり、前の自分のブログを数日分読みましたが、別人が書いたようで結構面白いです。しょうもないことも書いてありますが、ふ~ん、私ってこんなこと書いていたのかとちょっと、他人事のように読めます。
もちろん同一人物ですよ。人間の細胞は数年ですべて入れ替わるとか、肌は28日でと聞いたことがありますが、ちょっとは何かが入れ替わったのかもしれないと思いました。少しずつですが、考え方も変わってきました。

昨日はパワースポットについて、面白い記事を読みました。高橋秀実さんが書かれたエッセイで、簡単に要約すれば「パワースポットというところを巡ってみたが、自分にはまったくパワーは感じられなかった。そこで物理学で言うパワーなるものは何かということについて、本を読んでみた。すると、物理学にはいろいろな決め事があって、うん?ここわからない、と疑問を覚えてもわかったふりをして読み進むしかないことがわかった。(ここで、物理学についてのパワーそのものについては何も言及されていないのが残念!)最終的に、アインシュタインも言っているように物理学とは人間の創作、つまり自然現象に対して、様々な決め事を作って、首尾一貫して説明する努力ということになる。最後にパワースポットで「パワーを感じます」と答えた女性に理由と問うと、「だってパワースポットですから」と言った。そこに高橋さんは物理学の芽を感じた」という話でした。

私はみんなが「パワースポット」と言っているところにパワースポットだからといって積極的に行くことはありませんが、たまたま歴史的興味と俳句的素材を探して行ったところがいわゆるパワースポットだったことはよくあります。たとえば日光東照宮、世界遺産になる直前の九州の宗像大社や沖の島とか。しかし、きれい過ぎて俳句が作れないこともよく経験しています。俳句とか詩は、あまりきれいなところより、日常のさりげない風景から生まれることの方が多いと思い始め、いわゆるパワースポットに行く時は、そこの名物の饅頭とか、地元の魚料理とかを存分に楽しむことにしています。観光と享楽重視ですね。

宗像大社のパワースポットの中でも最高のパワーを出しているという「高宮祭場」というな~んもない森の中の一角があって、地面に石でぐるっと周りを囲んであって神しでで括ってあるだけのところがあります。朝早い時間だったので人影もなく、早春の光の中で、小鳥がさえずっており、ここで何か願い事を言うとかなうらしいのですが、すっかり忘れて「ああ、いい気持ちだなあ」と思って帰ってきました。ごてごてした建物とか、権威を象徴する飾り物とかが何もなくて、ここで古代の人がいろいろ決め事をして、人知の及ばぬ事柄について、一生懸命祈ったんだろうなということだけは感じました。
私のパワースポットとは、人間の力が何にもないところ、人間が自分の限界を悟って祈るところ、と言う結論になりました。