内田樹の研究室 2009/8.7の日記より抜粋
「情報」と「情報化」は違う、ということはこれまでも何度か書いた。
「情報」というのは「処理済み」のものであり、「情報化」というのは「生ものを情報単位にパッケージすること」である。
魚屋が市場から来た魚を三枚におろす作業が「情報化」である。パッケージされた切り身が「情報」である。
「高度情報化社会」というのは誤解している人が多いと思うが、「情報化」が進んだ社会のことではなく、「情報化」のプロセスが人目に触れなくなる社会のことである。
誰がどこでどんな魚を「三枚におろして」いるのか、誰も見ることができない社会のことである。
人々は情報を並べたり、入れ替えたり、交換したり、値札をつけたりする作業にのみ専念している。
それが高度情報化社会である。
切り身になる前の魚はいろいろな「使い道」がある。
ぶつ切りにしてもいいし、開いて干物にしてもいいし、塩に漬けて魚醤にしてもいいし、粕に漬け込んでもいいし、かちかちに日干しにして人の頭を殴ってもいいし、金肥にして畑に撒いても言い。
そういう無数の「解釈可能性」を「なまの魚」は蔵している。
「切り身のパッケージ」はそのありよう以外のすべてのありようを捨象した「残り」である。
「情報化」とは、「前-情報的素材」を「情報」に精製する過程で、無限の解釈可能性の中から適切なものを一つだけ選び、あとを捨てるということである。
だから、資源が有限の環境においては、与えられた「前-情報的素材」の蔵する無限の「使い道」のうち、「さしあたり私が生き延びる上でもっとも有用な使い道」をただちに見当てる能力が死活的に重要なものとなる。
だが、この能力は「高度情報化社会」では不要である(だって、すべての情報はもう誰かによって「加工済み」なんだから)。
不要であるという以上に、もうこのような能力が存在するということ自体を私たちは忘れた。
「前-情報的素材」の取り扱いについて、現代人はほとんど「無能」になってしまった。
そうして、現代人は「無限の解釈可能性に開かれたメッセージの最適解釈を発見する」能力を回復不能なまでに減退させてしまったのである。
人々はもう数値しか見ない。記号化されたものしか見ない。
医療の現場でも、教育の現場でもそうである。
何度も書いた話だが、シャーロック・ホームズのモデルはエジンバラ大学医学部時代にコナン・ドイルが師事したジョセフ・ベル博士である。
ベル博士は、診察室に患者が入ってくると、患者が口を開く前にその出身地や職業や既往症を言い当てたという。
おそらく、ベル博士は患者から発信される無数の「前-情報的」なノイズの中から有意なものを瞬時に選り分け、それを総合して診断をくだす高い能力を有していたのだと思う。
けれども、そういう能力は多少の濃淡はあるが、私たち全員に潜在的に備わっており、それを開発する体系的なメソッドもかつては存在したのである。
識閾下で無数の「ノイズ」を処理して、それを「シグナル」に変換する能力を高めるための訓練法である。
いろいろなかたちのエクササイズがあったが、もう、現代人は誰もやらない。
「ノイズ-シグナル変換」を高速処理できる人間は気配りが行き届き、共感能力が高く、ひとの気持ちや「してほしいこと」がよくわかる。
逆に、変換能力が低い人は鈍感で、場違いで、他人の気持ちがわからず、人を誤解し、また誤解され、実際によく人の足を踏んだりする。
私たちはこの能力の開発にほとんどリソースを割かなくなった。
それは「資源が豊か」なので、限られた資源がもつ潜在可能性を網羅的に吟味する必要がなくなったからである。
コミュニケーション不調がこれだけ起こるのは、ひとつには私たちの社会が「あまりにも豊かで安全」になったからである。
現代はコミュニケーション能力が病的に低くても生きていける社会、つまり「ひとりでも生きていける社会」である。
そこではコミュニケーション能力を開発するインセンティヴは損なわれる。
当然のことだ。
それが私たちの社会を耐え難く住みにくいものにしている。
というような話をする。
コーヒー片手にのりピーの逮捕事件をテレビで見ながら三枚卸の要領で要約。
情報とは魚の切り身であり、情報化とは切り身をパックにして詰めること、その作業を誰にも見られずにすればする程 高度情報化が進んでいる社会である。切り身から出た、切り身以外の贓物は、「豊かに」ものがあふれている状況下においては、ごみとして処分されるので、ひょっとしたらその中に自分が生き延びるための有益なものがあったとしても、もはやそれをかぎ分ける必要はない。人間と人間の関係も然り。全人格的に相手をとらえる感覚は、「切り身」としての情報化された一面を見ることに取って代わり、かくして現代人は、潜在的に備わっているはずである、無限の解釈可能性に開かれたメッセージの最適解釈を発見する能力を退化させていき、コミュニケーション不全が増大した。
のりピーさん、そうだったんですか。潜伏している理由は、体から覚せい剤反応を消せるだけの時間稼ぎだったんですね。あなたのことをのりピーとしての切り身としてしか、味わってこなかった私にはぜんぜん思いもつきませんでした。
中国語を習い始めた1995年、先生が「皆さん、今の中国で一番人気がある日本のタレントさんは誰ですか」と聞かれました。クラスの誰かが「山口百恵でしょう」と時代錯誤的発言をして、先生の失笑を買ったものです。私は密かにミポリンではないかと思っていましたが、先生は「ジュウジン ファーズ!です」(酒井法子)と高らかに発音され、併せて、「公関小姉」(公共機関の広報レディ)という新語も教えてくださいましたね。
「今の中国ではああいう顔の女の子が流行るのです」と言われたとき、そこはかとなく漂うのりピーのヤンキー臭に私はふたをしてしまったのです。いいえ、のりピーの左右対称笑顔がふたそのものでした。
私は商店街の一匹売りの魚や、カゴ盛りの果物を見るのが大好きです。生きる意欲がもりもり沸いてきます。一方、大型スーパーの冷凍魚の切り身をみるとげんなりします。生きる気力が少しだけ萎えます。その理由をずっと考えていたのですが、生VS冷凍、天然VS人工、食べ物VS工業製品 、といった断片的な印象しか思い当たりませんでした。個人の想像力にふたをする「情報の切り出し」が原因だったんですね。「情報の切り出し」は時には便利ではありますが、自由がありません。
のりピーもこれで、本来の法子にもどってヤンキー臭でもなんでも思いっきり発散して自由になれたのではないですか。今は囚われの身でありますが、これからこそが、自由に切り身ではない、素材として生きられる時が来たのです。
横浜橋商店街でプリプリした一匹魚としていつか、お会いしましょう。
「情報」と「情報化」は違う、ということはこれまでも何度か書いた。
「情報」というのは「処理済み」のものであり、「情報化」というのは「生ものを情報単位にパッケージすること」である。
魚屋が市場から来た魚を三枚におろす作業が「情報化」である。パッケージされた切り身が「情報」である。
「高度情報化社会」というのは誤解している人が多いと思うが、「情報化」が進んだ社会のことではなく、「情報化」のプロセスが人目に触れなくなる社会のことである。
誰がどこでどんな魚を「三枚におろして」いるのか、誰も見ることができない社会のことである。
人々は情報を並べたり、入れ替えたり、交換したり、値札をつけたりする作業にのみ専念している。
それが高度情報化社会である。
切り身になる前の魚はいろいろな「使い道」がある。
ぶつ切りにしてもいいし、開いて干物にしてもいいし、塩に漬けて魚醤にしてもいいし、粕に漬け込んでもいいし、かちかちに日干しにして人の頭を殴ってもいいし、金肥にして畑に撒いても言い。
そういう無数の「解釈可能性」を「なまの魚」は蔵している。
「切り身のパッケージ」はそのありよう以外のすべてのありようを捨象した「残り」である。
「情報化」とは、「前-情報的素材」を「情報」に精製する過程で、無限の解釈可能性の中から適切なものを一つだけ選び、あとを捨てるということである。
だから、資源が有限の環境においては、与えられた「前-情報的素材」の蔵する無限の「使い道」のうち、「さしあたり私が生き延びる上でもっとも有用な使い道」をただちに見当てる能力が死活的に重要なものとなる。
だが、この能力は「高度情報化社会」では不要である(だって、すべての情報はもう誰かによって「加工済み」なんだから)。
不要であるという以上に、もうこのような能力が存在するということ自体を私たちは忘れた。
「前-情報的素材」の取り扱いについて、現代人はほとんど「無能」になってしまった。
そうして、現代人は「無限の解釈可能性に開かれたメッセージの最適解釈を発見する」能力を回復不能なまでに減退させてしまったのである。
人々はもう数値しか見ない。記号化されたものしか見ない。
医療の現場でも、教育の現場でもそうである。
何度も書いた話だが、シャーロック・ホームズのモデルはエジンバラ大学医学部時代にコナン・ドイルが師事したジョセフ・ベル博士である。
ベル博士は、診察室に患者が入ってくると、患者が口を開く前にその出身地や職業や既往症を言い当てたという。
おそらく、ベル博士は患者から発信される無数の「前-情報的」なノイズの中から有意なものを瞬時に選り分け、それを総合して診断をくだす高い能力を有していたのだと思う。
けれども、そういう能力は多少の濃淡はあるが、私たち全員に潜在的に備わっており、それを開発する体系的なメソッドもかつては存在したのである。
識閾下で無数の「ノイズ」を処理して、それを「シグナル」に変換する能力を高めるための訓練法である。
いろいろなかたちのエクササイズがあったが、もう、現代人は誰もやらない。
「ノイズ-シグナル変換」を高速処理できる人間は気配りが行き届き、共感能力が高く、ひとの気持ちや「してほしいこと」がよくわかる。
逆に、変換能力が低い人は鈍感で、場違いで、他人の気持ちがわからず、人を誤解し、また誤解され、実際によく人の足を踏んだりする。
私たちはこの能力の開発にほとんどリソースを割かなくなった。
それは「資源が豊か」なので、限られた資源がもつ潜在可能性を網羅的に吟味する必要がなくなったからである。
コミュニケーション不調がこれだけ起こるのは、ひとつには私たちの社会が「あまりにも豊かで安全」になったからである。
現代はコミュニケーション能力が病的に低くても生きていける社会、つまり「ひとりでも生きていける社会」である。
そこではコミュニケーション能力を開発するインセンティヴは損なわれる。
当然のことだ。
それが私たちの社会を耐え難く住みにくいものにしている。
というような話をする。
コーヒー片手にのりピーの逮捕事件をテレビで見ながら三枚卸の要領で要約。
情報とは魚の切り身であり、情報化とは切り身をパックにして詰めること、その作業を誰にも見られずにすればする程 高度情報化が進んでいる社会である。切り身から出た、切り身以外の贓物は、「豊かに」ものがあふれている状況下においては、ごみとして処分されるので、ひょっとしたらその中に自分が生き延びるための有益なものがあったとしても、もはやそれをかぎ分ける必要はない。人間と人間の関係も然り。全人格的に相手をとらえる感覚は、「切り身」としての情報化された一面を見ることに取って代わり、かくして現代人は、潜在的に備わっているはずである、無限の解釈可能性に開かれたメッセージの最適解釈を発見する能力を退化させていき、コミュニケーション不全が増大した。
のりピーさん、そうだったんですか。潜伏している理由は、体から覚せい剤反応を消せるだけの時間稼ぎだったんですね。あなたのことをのりピーとしての切り身としてしか、味わってこなかった私にはぜんぜん思いもつきませんでした。
中国語を習い始めた1995年、先生が「皆さん、今の中国で一番人気がある日本のタレントさんは誰ですか」と聞かれました。クラスの誰かが「山口百恵でしょう」と時代錯誤的発言をして、先生の失笑を買ったものです。私は密かにミポリンではないかと思っていましたが、先生は「ジュウジン ファーズ!です」(酒井法子)と高らかに発音され、併せて、「公関小姉」(公共機関の広報レディ)という新語も教えてくださいましたね。
「今の中国ではああいう顔の女の子が流行るのです」と言われたとき、そこはかとなく漂うのりピーのヤンキー臭に私はふたをしてしまったのです。いいえ、のりピーの左右対称笑顔がふたそのものでした。
私は商店街の一匹売りの魚や、カゴ盛りの果物を見るのが大好きです。生きる意欲がもりもり沸いてきます。一方、大型スーパーの冷凍魚の切り身をみるとげんなりします。生きる気力が少しだけ萎えます。その理由をずっと考えていたのですが、生VS冷凍、天然VS人工、食べ物VS工業製品 、といった断片的な印象しか思い当たりませんでした。個人の想像力にふたをする「情報の切り出し」が原因だったんですね。「情報の切り出し」は時には便利ではありますが、自由がありません。
のりピーもこれで、本来の法子にもどってヤンキー臭でもなんでも思いっきり発散して自由になれたのではないですか。今は囚われの身でありますが、これからこそが、自由に切り身ではない、素材として生きられる時が来たのです。
横浜橋商店街でプリプリした一匹魚としていつか、お会いしましょう。
ご連絡ありがとうございます。
のりぴーにヤンキー臭ですか。
確かにそこはかとなく漂ってきますね。
今度お会いできるのを楽しみにしています。
1Q84,読まれていたらお話しましょう。
村上春樹、積読中です。途中でとまっていますがそのうちに・・・
また気楽にみてくださいね。
私には マグロは手に負えませんが、鯵とか、秋刀魚くらいならいけます。
ちょっと頑張れば、ブリとかタイくらいまでいけるかも・・・
でも普段は、じゃことか煮干しばかりですね・・・
つまり手に負えない魚には手を出さないということですか・・
このところ暑いので閉じこもりぎみですが、またどこかに行きたいね。