ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

1時間だけの映画

2011-05-12 | 日記
「知ることは 感じることの半分も重要ではない」というフレーズに魅かれて観ました。
「レイチェル・カーソン 沈黙の森」

56歳でガンでなくなるカーソンが、自身の死が迫ったその年に、海辺の別荘で、また都会の自宅で自身の哲学を語ります。まるで、大学の教室でチャーミングな先生の講義を聞いているようでした。静かに、的確に語る言葉の合間合間に、好奇心一杯のくりくりした瞳が輝き、惹きこまれました。今年のヒット2本目です。            (1本目は『私を離さないで』)。
 
レイチェル・カーソンを紹介してくれたのは、高校の時の生物と化学の先生であった鈴木有朋先生。先生と大学に入ってからも、ときおり文通をしていました。理数系など、全然できなかった私ですが、先生のおかげで生物だけは嫌いになることがありませんでした。その先生が大学時代の私に、ぜひ読むようにと書き送ってくれたのが、有吉佐和子の『複合汚染』とレイチェル・カーソンの『沈黙の春』でした。
有吉佐和子の方は、当時の中国の農業汚染のルポで、読みやすく、すぐ読めましたが、レイチェルの方は読まずにきてしまいました。でも、ずっと心に引っかかっていた本です。

今回、映画を観て、やっと読んでみたい気持ちになりました。
それには、次のような言葉が映画の中で語られていたからです。(表現は違うかもしれませんが)

対象をよく見つめ、そこから感じ取ったそのままの真実を書き写せばいいのです。
対象となるものが、あなたに書かせます。私も自分が書きたくて書いたのではありません。
毎日、海の傍でくらして、海そのものが、その存在を私に書くように迫るのです。

これは俳句を作るときとまったく同じ心持なので、驚きました。

レイチェルは、また、蝶を観察して、次のようにも言っていました。
さなぎから蝶になって飛び立つというのは、死の始まりかもしれませんが、その飛び立ちを観察していて、本当に美しいと感じました。死ぬということは生物に備えられたものです。生物にとって死とは、さなぎが蝶になって飛び立つようなものです。