〘 ■質疑応答:ロシアのウクライナ侵攻に関する〈政治と芸術〉の関わりについて
オペラ、バレエ、演劇の三部門の芸術監督の説明の後、合同での質疑応答の時間があった。いくつかの内容を要約してお伝えする。大野監督には、2月末から起きているロシアのウクライナ侵攻について、指揮者ヴァレリー・ゲルギエフの例をあげ、ヨーロッパやアメリカで起きているロシア人芸術家に対する政治的なスタンスの表明への要求をどう思うか、芸術と社会のあり方への思いを聞く質問があった。
大野監督は「まずはこの劇場の理事の方からもお話を受けて、新国立劇場では現状で、政治的に起きていることと芸術分野の出来事というのは分離して考える」と明言。ゲルギエフ氏は現大統領と特別に近い関係ということで難しい立場にあるのだろうと思うが、他のロシアのアーティスト達までが活動停止に追い込まれていいわけがない。「芸術家というのは、心の自由を人々に与えるために、才能を磨くという使命を受けた人たちの集団なので、当然のことながら国というような政治的な区割りをはるかに超えたところに存在している。だからこうしたインターナショナルな、言葉を介さなくてもいいコミュニケーションが出来るのであって、それが芸術家なのだから、絶対にそこは弁えなければいけない」と語った。
この説明会の前日に大野監督は、自身が音楽監督を務める東京都交響楽団の定期演奏会でショスタコーヴィチの交響曲第10番を指揮したが、この状況を受けて楽団員達が、演奏するのに心が重いと言っていたという。しかし、ショスタコーヴィチの音楽は、当時のソビエト連邦の状況に対する抵抗の意識や、人生の重みを背負った考えが膨れ上がって作品の中で爆発し、諧謔的な内容を持ちながら、終楽章ではギャロップでそれらを笑い飛ばす。「彼が背負ってきた現実での葛藤が音楽の中に昇華されて、爆発的なエネルギーとなって飛んでいく。しかも最後に、彼自身の語法でギャロップになって笑い飛ばすという、その音楽の内容が最終的に理解できた段階で、ああ今やってよかった、というように変わった。芸術家の世界とはそういうものだと考えているので、いわゆる現実的な何かの枠組みの中で論じられるべきではない、というのが私の考えだ」と述べた。… 〙
以上までが、この記事の文章(の抜粋)であり、以下からが、私の文章です。
私は、文章があまり上手ではありませんし、自分の思いを正確に表現できているとは思っていません。
そもそも、自分の思いも、自身で正確に把握できているのかと問われれば、あやしいところもあると思っています。
ですので、以前のブログと整合性がないと思われるかもしれませんが、それはシンプルに、私の文章表現力が至らないからです。
上記の太字の部分は(大変おそれ多いのですが)私の意見(考え・思い)と、ほとんど全く同じです。
整合性がないところについて、もう一つ、言い訳をさせていただきますと…
私のブログのスタンス(といえるほど、たいそうなものではないのですが)は、日々起こる時事ニュースをネタに音楽を取り上げる…というスタイルをとっています。
理由(といえるほどのものではないのですが)は、何もネタがなく、一からブログを書くというのは難しく、時事ネタというのが、一番とっつきやすく、それがきっかけで閲覧してもらえるからで、
(これも、大変おそれ多いのですが)時事ニュースをネタにしたバラエティー番組ワ●ド●ショーに近い感覚です。
ショスタコーヴィチを、20世紀に入っても交響曲をたくさんかいた作曲家として(イギリスのヴォーン・ウィリアムズに近い感覚で、このブログで)取り上げていますし(旧ソ連の恐怖感も入っていますが)
(ショスタコーヴィチは)弦楽四重奏曲もたくさんかいていますので(おそらく)いつか取り上げる…と思います…暇があれば…
そもそも、作曲家・音楽家だって、一人の人間として生活しているのだから、そのときの世の中・社会から影響を受けないはずがありません。
音楽をはじめとする芸術を敬愛していますが、
(当然のことながら)芸術の力にも限界があります…残念ながら…
その一つの例として、ベートーヴェンが第九で理想を高らかに歌い上げた後の人類の歴史(起こった出来事)をみてください…
やりきれないです…
それでも、少しずつですが、人類は進歩して、より良い社会になっているのではないでしょうか…!?
しかし、今現在、再び危機がおとずれています…
現実の世の中・社会は、なかなか理想が実現できず、それを扱う(それに取り組む)のが政治だと思っていて、ある意味、芸術の対極にあるものだと思っています。
芸術には、感覚にうったえるところも少なくないので、政治からは一定の距離を置いた方が良いと思っています。