《 …続いてはハリウッド西部劇映画の代表作の一つ、エルマー・バーンスタイン作曲によります《荒野の七人》の音楽です。通常開拓史の敵役とされるのは先住民、いわゆる インディアン なのですが、この映画ではスペイン系であるため、ちょっとラテン音楽の香りが入っているところがミソです。今回は映画音楽の断片を組み合わせたアレンジをエリック・カンゼル指揮シンシナティ・ポップス管弦楽団の演奏でお聴きいただきます。
[ここで音源] 荒野の七人/エルマー・バーンスタイン指揮/エリック・カンゼル指揮シンシナティ・ポップス管弦楽団/使用CD=米Telarc CD-80141(アルバム『Round-Up』)/演奏時間=5分29秒
… 》
《 ネイティブ・アメリカンに関して理解を深めたい場合、映画はもっとも有効な方法の一つです。
それはハリウッド映画といった映画産業はネイティブ・アメリカンのステレオタイプの生産に深く関わっており、映画を通してアメリカ社会における彼らの位置づけを知ることができるからです。
そのため、この記事ではネイティブ・アメリカンに関する代表的な映画をジャンル・時代別に紹介します。
大まかに、ネイティブ・アメリカンは、
西部劇…白人ヒーローの敵役として暴力的、攻撃的なインディアン(野蛮なインディアン)
ロマンスの対象…自然と共生したインディアン(高貴な野蛮人)や勇敢な戦士としてのインディアン
として描かれてきました。
まずは西部劇における「野蛮なインディアン」、次に「ロマンスの対象としてのインディアン」を紹介します。
加えて、侵略されたアメリカ国家に貢献することの苦悩が垣間見える映画や、ネイティブ・アメリカンが自ら制作した画期的な映画なども紹介していきます。…
…「インディアン」という呼称はコロンブスの勘違いから広まった言葉であり、本来使うべきではありません。そのため、アメリカに住む先住民を指す場合は、「ネイティブ・アメリカン」という総称を使います。
しかし、通称として定着してる「野蛮なインディアン」や「インディアン映画」といった言葉はそのまま使用します。
1章:ネイティブ・アメリカンのおすすめ映画:西部劇
ネイティブ・アメリカンと映画の関係で不可欠なのは「西部劇」です。上で説明したように、西部劇においてネイティブ・アメリカンは獰猛なイメージで描かれています。…
》
《 …白人とインディアン ― “善悪の構図”はどう変わってきたのか
映画の世界で「白人=善、インディアン=悪」の図式が崩れ去ったのは1960年代。かつて『駅馬車』(1939年)などでインディアンを単純な悪役として扱っていた西部劇の巨匠ジョン・フォードが、『馬上の二人』(1961年)でインディアンを同情的に描き、『シャイアン』(1964年)では強制移住させられるシャイアン族の悲劇を正面から描いた。
「昔はさんざんインディアンを殺したからね」とジョークで答えつつ、反人種差別&ヒューマニズムにあふれた大作を作り上げた(興行的には大失敗)フォードは偉かったとはいえ、いささかセンチメンタルすぎたかもしれない。
世界西部劇映画史に強烈な斧の一撃をくわえたのが、セルジオ・コルブッチ監督によるマカロニ・ウエスタン『さすらいのガンマン』(1966年)だ。インディアンを殺し、頭の皮を剥いで集める白人集団が冒頭に登場する(奴らと対決する主人公のインディアンを演じたのは、まだブレイク前のバート・レイノルズ)。
そもそも頭の皮を剥いで戦利品として集める風習は、白人がアメリカへ持ち込んだものだった。新大陸へやってきて先住民を殺戮する白人たちの残虐行為を、インディアンが対抗して行うようになったのが真相なのだが、いつのまにか“頭の皮剥ぎ”は“野蛮なインディアン”の象徴とされてしまった。… 》
〘 … 忠臣蔵の悪役たちも言いたいことがある!?悪役の真の姿とは?まとめ
吉良上野介も千坂兵部も徳川綱吉も柳沢吉保も、それぞれに事情がありました。
忠臣蔵で勝手に悪役にされて迷惑していることでしょう。
魅力的な悪役がいることは、ヒット作品の条件でもあります。
忠臣蔵の作者は赤穂藩士47名以上に、悪役の設定を重要と考えていたのです。
しかし、忠臣蔵で本当に書きたかった悪役は違うところにあります。
本当の悪役は、一般の民衆です。
登場人物の考えも知らずに、勝手に悪役にしてしまう民衆。
赤穂藩士たちを可哀そうな人たちと決めつけ、ヒーローにしてしまう民衆。
どちらも自分勝手で流されやすい民衆の心理によって、いい人にも悪い人にもされてしまうことを書いているのです。
一番悪いヤツは、一般人の心の中ということなのでしょう。〙
《 …歴史談義やことの善悪を論じるつもりは毛頭ありませんが、2012年ごろに、両家に関係ある人々が、お互いに和解して握手をされたという記事を読んで、感激しました。
人はいつまでも、憎しみ合ったり、罵り合っていては、決して前に進めません。どこかで妥協点を探して、お互いに認め合い、共存する道を探す必要があると思います。
私にとって、忠臣蔵は、そういう教訓を与えてくれた時代劇です(*^-^*)
》
《 …対立するモンタギュー、キャピュレットの両家。争いの絶えない両家に対し、ヴェローナの大公は再度争ったものを死刑にすると告げる。…
…2人の身を案じて墓にやってきたロレンスは、大公に全てのいきさつを打ち明ける。ロミオとジュリエットの愛を知ったモンタギュー、キャピュレット両家は2人の像を建てることを決め、和解する。》
〘 … なぜマリアの「死」は描かれないのか?
『ロミオとジュリエット』に影響を受けているのであれば、2人のすれ違い、それに伴う意図しない「死」、そして後を追うための自死という一連の流れは必須になるはずです。
『ロミオとジュリエット』が影響を受けたとされる『ピュラモスとティスベ』もそうですし、シェイクスピアが後に手掛けた『アントニーとクレオパトラ』でもこの展開は一貫しています。
これらの作品ではこの世界で結ばれることがなかった2人が「死」を経て、死後の世界で結ばれるといったコンテクストが内包されているのです。
とりわけロミオとジュリエットのクライマックスにおけるロミオの最期の言葉は「Thus with a kiss I die.」でした。
これは「こうしてキスをして、私は死ぬんだ。」という意味になり、この言葉にも愛と死の融合めいたものが垣間見えます。
だからこそ、ロミオとジュリエットの物語において、2人にとっての「死」は愛の完結であり、愛を未来永劫不滅のものにするための通過儀礼のような役割を果たしているのです。
また、『ロミオとジュリエット』においては2人の死をきっかけにして、キャピュレット家とモンタギュー家が和解するという展開が終盤に描かれています。
両家の大切な子どもたちが悲劇的な死を遂げたことで、彼らは自分たちの過ちに気がつき、悲劇を繰り返さないために自分たちの振る舞いを改めるのです。
しかし、この展開を描く上では、両家から等しく犠牲が出ているという状況が必要になってきますよね。
なぜなら、先ほども述べたように私たちの世界の根底には「目には目を歯には歯を」的な考え方があり、一方だけが喪失を余分に経験している状態は、憎しみを生み、次の悲劇の種でしかないからです。
当然『ロミオとジュリエット』においてロミオだけが死んでいるラストであれば、モンタギュー家がキャピュレット家に強い憎悪を抱き、この対立関係が硬直したままになっていたでしょう。
そう考えたときに、『ウエストサイドストーリー』においてマリアの「死」が描かれず、ジェット団側のトニーだけが命を落とすという顛末はバランスが悪いようにも見えます。
では、悲劇におけるある種の「黄金比」を崩してでも、『ウエストサイドストーリー』がマリアを生かした理由とは何だったのでしょうか。
悲劇を止めるのは誰なのか?
ミュージカルないし舞台芸術というものは、映画と違って、観客と役者が劇場という1つの空間を共有します。
そのため、観客もまた劇場という場を作る1つの重要な要素であり、舞台上で上演されている作品と切っても切り離せない関係にあると言えます。
そう考えたときに、『ウエストサイドストーリー』の物語の結末は、観客に多くを委ね、その先の選択や決断を促すようなものとして形作られたのではないかと思いました。
映画版でも、物語の序盤の舞台となった公園からキャラクターが1人また1人と去っていき、静かに幕を閉じます。
トニーの亡骸をジェット団のメンバーが運ぼうとしていた時に、シャーク団が手を貸し、ジェット団のメンバーが戸惑いながらもそれを受け入れるという一幕があり、ここに彼らの将来的な和解が示唆されていることは事実です。
先ほども述べたようにトニーの「死」をジェット団側の人間が余分に背負っているというシチュエーションは変わらず、それ故に憎悪の根っこが断ち切られたとは言い難い状態なのは間違いありません。
しかし、それ故にマリアというヒロインの生存への道が開けたと言っても過言ではないのかもしれません。
『ロミオとジュリエット』において、ロミオの不幸な死を受け止めたのはだれかと言えば、それは言うまでもなくジュリエットです。そして、彼女は最愛の人の死を自分の死でもって受け止め、愛を成就させました。
一方の『ウエストサイドストーリー』では、マリアが生存するが故に、トニーの「死」をマリアだけでなく、ジェット団とシャーク団のメンバー、引いてはそれを見ている観客にまで背負わせ、受け止めさせることに成功しています。
『ウエストサイドストーリー』は2つの死によって愛が成就するという古典的な悲恋の美学を打ち破り、「死」という事実の悲劇性を際立たせました。
ジェット団とシャーク団、ヨーロッパ系移民とプエルトリコ移民、そこから「生」と「死」という究極の境界に阻まれながら愛を誓うマリア。
彼女の変わらない愛を強調した一方で、誰にも背負うことができない、そして報われることのないどこまでも悲劇的な「死」としてトニーの死が印象づけられました。
その当時もそうでしたが、アメリカには今もなお人種や出自に伴う差別が蔓延していますし、アメリカとソ連の関係も冷戦が終わったとは言え、完全には解結されていません。
黒人男性ジョージ・フロイドさんの死を契機として、全米でBLM運動が巻き起こったように、この火種は1つのきっかけで炎上し、たくさんの人の「死」を誘発する可能性があります。
「死」は不可逆であり、どこまでも悲劇的であり、だからこそ『ウエストサイドストーリー』はマリアの「死」でもってトニーの「死」を美化しません。
彼の「死」はあくまでも残酷に訪れ、そしてそれが報われることもありませんし、愛の成就にもつながりません。
『ウエストサイドストーリー』の静かな幕切れとそれがもたらす余韻は、そんな「死」の重みと空しさをこれだけ強く観客に感じさせるものでした。
悲劇は、この物語の中では止まらないし、報われることもなく、何に活かされることもありません。
しかし、それを劇場という空間で共に共有した観客が何かを感じ、現実で行動を起こしたなら、トニーの「死」は報われるのではないでしょうか。
つまり、『ウエストサイドストーリー』はトニーの「死」を無駄にしないための主導権を観客に委ね、それにより考え、行動することを促しているのです。
このメッセージ性を持った作品が、冷戦の真っただ中にあったアメリカで作られ、そしてこの作品が上演された後も30年以上冷戦が続いたことに、ジェローム・ロビンスの底知れぬ先見性を感じさせられます。〙
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