今日は午前中休みだったのを忘れて、朝から弁当を作ってしまいまして。
もったいないのでそれを朝食にしました。
さて、薬も飲んだし、自転車に乗って外出です。
この記事を読んで、平城京羅城門跡へ行くことに。
三条通りから自転車道を右手に秋篠川を見ながら南下します。
しばらく行くと右手に薬師寺が見えています。
そろそろ東塔の解体のため、塔が覆われているのかと思っていましたが、
まだその全景は見えていました。
観光シーズンですもんね。
ちゃんと案内も出ています。
このまま秋篠川に沿って直進です。
道路にも案内。
秋篠川には鯉が泳いでおり、逆側の養殖池には金魚が養殖されています。
どんどん南下すると自転車道は「奈良口」の辺りで右に曲がって斑鳩へと向かうのですが、
そこを左折して東に流れを変えた秋篠川を右手に見ながら東へ向かうと、
JR大和路線の踏切を越えて、そのあたりで秋篠川と佐保川が合流。
合流前の佐保川を渡って、右折し、合流した佐保川沿いの道を佐保川を右手に見ながら南下。
しばらく行くと羅城門橋が見えてきます。
羅城門橋の中ほどには羅城門の説明の看板があります。
さて、期待していた大極殿の金色の鴟尾は見えるでしょうか・・・
ズームすると、大極殿と朱雀門の鴟尾が見えています!
でも、朱雀門の鴟尾の一つが見えない・・・
で、少し西側に移動してみます。
あ、ここなら。ズームしてみますと見えました~。
ほんま、大極殿、朱雀門そして自分の居るところが一直線。
ここから朱雀門まで約4km、幅約70メートルもの朱雀大路がまっすぐに続いていたというのは
今の大阪御堂筋の難波-梅田のようなものでしょうか。
やはり一眼レフタイプの望遠ズームレンズやと綺麗に撮れますね。
三脚ともっといい望遠レンズだともっと美しく撮れるんやろうけど、
200mm、手持ちだとこれが精一杯です。
果たして羅城門跡はどこなのでしょうか・・・
新聞によるとこの橋の30mほど南の堤防の下。
えっ、下、って地下のことなのか?
30m南の堤防にあったのは、こんな建物。
とりあえず目的は達したのですが、折角だから稗田環濠集落に行ってみることに。
国道24号線を通る時に「稗田環濠集落」の看板を見たときに、行ってみたいと常々思っていたのです。
さらに川沿いの堤防を南下。
すると左手に大きな樹が枝を伸ばしています。上:北から、下:南から。
実をつけていたので、良く見てみるとこれって平城宮跡で見たセンダン?
この樹の下には万葉歌碑がありました。
「佐保川の 清き河原に鳴く千鳥 河鹿と二つ 忘れかねつも」
これと同じ歌の歌碑が、自宅の近くの佐保川小学校の前にもありますね。
あと、こんな祠も。
農業の神様の農神(のがみ)さんの祠のようです。
さらに南下すると郡界橋があり、向こう岸に何やら祠が。
橋を渡ってみると、地蔵尊のようです。
祠の前にある案内板によると・・・
奈良時代、この付近は平城京朱雀門の出口(羅城門)を佐保川につなげ、
人や物資の流れに大和川の水運を利用していた時の船着場であった。
また、飛鳥から平城京に通じる、下つ道(官道)も通っていた。
(中略)
行基菩薩が道しるべとして地蔵尊を創設された。
周囲には外部からの災いを防ぐために、枳殻(からたち)の木が植えられていたことから
枳殻(きこく)地蔵と呼び、矢田寺地蔵尊の分身として「きこく地蔵尊」と呼んで
親しまれるようになった。
(中略)
時が流れ、昭和九年に佐保川の大改修工事が行われ、
竹やぶの旧堤防から多数のお地蔵さんが出土したので、
まとめてお祭りするため東高田自治会が地蔵尊を建立したのが旧の地蔵堂である。
周囲には以前と同じように枳殻の木を植えた。
この当時は戦時中であり、「きこく」を「帰国」と捩り、
戦場等に行かれている人の、無事な「帰国」を願いにかけて
お百度参りをされている姿もよく見かけた。
(以下略)
枳殻、どこにあるのかと地蔵堂の裏に回ると、有りました。
棘が痛そう。地面には枳殻の実が落ちています。
祠を格子の隙間から覗いてみると、石の地蔵さんがいっぱい。
船着場跡があるのかと付近を捜すもそれとわかるものは無く。
川では亀が甲羅干し。
鳥も中州をヨチヨチ歩いていたと思うと、突然飛び立ち、水に浮かんで泳ぎだしました。
稗田環濠集落に行くには今渡ってきた郡界橋を東のほうへ引き返し、
下つ道を南下すると書いてあったのですが、
この佐保川沿いの道があまりにも気持ちいいので、郡界橋を引き返し、佐保川沿いの道を南下。
次の橋で東に折れて、まっすぐ進むと稗田環濠集落です。
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