涙と笑いのHIV奮闘記

自分とは無関係と思っていた病気と思いがけなく向かい合い、闘病を続けるオヤジの日記。
仕事に趣味に彼氏との生活に奮闘中。

大阪医療センターと大阪歴史博物館:採血に手間取り

2012年08月24日 | 病院

今日も涼しい朝となりました。
日の出直前の春日山。ふもとに霧が出ています。



若草山、春日山・御蓋山、そして高円山。



そしてその向こうは大阪である、生駒山。



いつもなら、大阪難波、あるいは三宮行きの快速急行で生駒まで行き、
そこからコスモスクエア行きの近鉄けいはんな線→大阪市営地下鉄中央線で谷町四丁目まで行くのですが、
これだと乗り換えは生駒で一度だけですが、ずっと立ちっぱなし。
しかし、今日は夏休みのせいか学生さんがほとんど乗っておらず、
運よく座れたので、鶴橋まで。
そこから大阪市営地下鉄千日前線→谷町線で谷町四丁目まで。
乗り換えは二度ですけれども・・・。


予想外に早く着き、着いたのは7時50分。
かといって、受付機が稼動するのは8時からなので、機械の前で10分ほど待ちました。


診察は9時からなので、することもなくブラブラ回りを散歩。


中央大通りに、「大虎運輸」とかかれたトラックが停まっていました。さすが、大阪。



病院の玄関前には今年もヒマワリ。
去年より丈は低いですが。


 
 


診察は無事すみました。
前回の採血結果は、CD4=401、ウイルス量:検出せず。
B型肝炎に関しては、まだHB-s抗原は陽性で、抗体は陰性。
なかなかセロコンバージョンはしてくれませんが、抗原量は徐々に減少してきております。
そして総ビリルビンはついに4を突破。
「そういう目で見ると、眼球結膜は軽く黄色いような気がします」
ということで。


次回の診察は11月となりました。
その日にMRIを撮る予定だったのですが、予約が一杯で、
二週間前にMRIを撮影することに。


今回は内服薬が90日処方となりました。
薬局で払ったのは134190円。病院の支払いと合わせて143020円・・・。


はっ、もしかして高額医療費の還付の申請をしないといけない?


面倒・・・


例によって道を隔てて北側にある大阪歴史博物館へ。


今は特別展はやっていないのですが、
通常展の中の特別展示上で、特別企画展として、「大阪を襲った地震と津波」展をやっています。




歴史を振り返ってみると、大阪は地震のみならず津波の被害とも決して無縁ではありませんでした。しかも現在の大阪は高度に地下街が発達し、広範に海抜ゼロメートル地帯を抱えており、津波によって相当規模の被害を受ける可能性が高いことから、津波に対する啓発活動や防災意識の向上が大きな課題といえます。
 本展では、古文書などが残されていない縄文時代にまでさかのぼって、大阪を襲った地震・津波とその被害の実態について紹介します。そのため今回は、他機関とも連携・協力をはかり、地質学・考古学・歴史学など様々な学問分野による最新の研究成果を交えた総合的な展示を実施します。また、関西を中心に防災や震災復興に向けて活動している様々な機関・団体・個人の取り組みも紹介します。
 本展が、多くの方々の防災意識の向上の一助になれば幸いです。(パンフレットより)


今大阪歴史博物館は「家族でお出かけ節電キャンペーン(※)」参加施設として、7月1日(日)~8月31日(金)までの期間、
常設展示観覧料を割引きしています
家族でお出かけ節電キャンペーンとは、夏の昼間に公共施設や民間施設等へ家族全員の外出を促し、
ふれあいを高めながら、家庭での電力消費削減をはかる企画です。


奈良市の入江泰吉記念奈良市写真美術館でも同じようなキャンペーンをやっています。
確か午後が入館料が無料だったかな?


大阪歴史博物館(右)。左はNHK大阪放送局です。



大阪歴史博物館の前には、法円坂遺跡から出土した高床式の倉庫が復元されていて、
その模型も一緒に展示されています。



そこから向かいに大阪医療センターが見えます。
あ、あの部屋に入院していたんです・・・


あれ?雲行きが怪しくなってきた・・・



放送局の前にはいろいろな雑草が花を咲かせていました。
しじみちょうも花に止まっています。


 


大阪って何度も地震に襲われ、そして津波の被害にあっているんですね。



もともと今の大阪のほとんどは海であって、
ちょうどこの歴史博物館や大阪医療センターのある上町台地以外は海のそこだったらしいのです。
それがだんだん堆積によってあるいは埋め立てによって大阪平野が形成されたそうなのです。


一旦津波が発生すると、水の都大阪は、その川を津波が逆流して大きな被害が発生するらしいです。
宝永地震の折、道頓堀を津波が遅い、多くの船がそこで重なって沈没し、多くの死傷者が発生したとか。
地震が発生して船に多くの人が避難したため、余計に死傷者が増えたらしいです。


その教訓が生かせず、147年後の安政南海地震においても多くの人々が溺死。
それで、その教訓をいかそうと作られたのが「大地震両川口津浪記碑」。


以前訪れた時に撮影した画像ですが、


   


博物館内にもパンフレットが置かれていました。



 


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