カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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A年 復活第2主日 

2017年04月20日 | 神父様からメッセージ(A年)


 わたし達は毎日の福音書の朗読から、復活されたイエス様の姿、弟子達や婦人達が見たことなど、イエス様と弟子達の出会いを、豊かな花の香りのように味わっています。復活されたイエス様が、迷っている、恐れている婦人達に「おはよう」とおっしゃっています。つまり、「私は早くから来ていて、あなた達のことをまっていた」と知らせたかったのです。
「ヨハネの福音書 20・19-31」
 復活節第二主日の福音書の内容は、トマスがイエス様の復活、つまりイエス様が生きておられることを信じなかったので、イエス様が弟子達に現れた時、トマスにも自分の体、自分の傷跡を見せ、触れるように勧められました。それによってトマスは信じました、けれどもその時にイエス様が強調されたのは、自分が復活したことを見ないで信じた者は幸であると言う事でした、と同時に、わたし達が復活されたイエス様を信じる時に、本当に幸せ、永久に幸せ、いつまでも大きな喜びを味わっている者だと宣言されました。使徒たちの間に、イエス様が復活されてから、確かに不信感も広がった時がありました。使徒トマスのように仲間の使徒たちの言葉を信じないで、自分の経験によるイエス様との出会いを求めた人もいました。トマスはイエス様と出会った時に、自分の手を傷跡に当てさせていただいたことよりも、イエス様がもたらした平和にとらわれました。イエス様がもたらした「平和」はめでたき挨拶だけではなく、同時に希望と預言になり、実現された出来事でした。「平和があなた方にあるように」とは、あくまでもイエス様(神様)のみ言葉ですから、人間の為の贈り物であり、おっしゃることは実現されます。それを受け入れる人、その平和を受け入れる共同体は変わり、豊かになって、新しい理想の中で生きるようになります。イエス様の平和の中で生きるキリスト信者は、意味深い喜びで満ちた人生をおくります。当福音書の個所は三つの部分に分けられています。第一部はイエス様が聖霊を贈り物として与えます、第二部はイエス様と使徒トマスとの対話、第三部はヨハネ福音書のしめくくりです。
 第一部 イエス様の使命の中で、もっとも重要なところは人に聖霊を送ることです。その贈り物の中身、あるいはその心は罪の赦しです。それに従って、聖霊に支えられた使徒たちの使命は、罪の赦しを告げて、それによって神様の心を見せることです
 第二部 使徒トマスの不信仰は、当時の使徒たちの共同体の中で問題になってきた不信感を表しています。当時、ある人にとって、イエス様の復活を信じるために弟子たちの証言が足りなくなってきて、自分の経験によって信じる人も現れました。しかしその疑問について、イエス様自身がこたえるようになりました。弟子たちの証言によって(つまり、見ないで、自分の経験がなくても)信じる人は幸いです。
第三部 ヨハネ福音書のしめくくりは、福音書の目標を表しています。福音書はイエス様の人生を語る書物というだけではなく、イエス様は神の子であり、メシアであることを信じる為に、いくつかの「しるし」を集めてくださった書物です。だから福音書は歴史的な記録ではなく、記録を並べた資料でもなく、信じる為に、永遠の命を生きるために書かれた書物であり、皆の心が大きな喜びで満たされる良き知らせなのです。        モヨリ神父

復活祭

2017年04月15日 | お知らせ


 ご復活おめでとうございます‼ 
大自然と共にわたし達の心の命、わたし達の夢がイエス様と一緒に復活しています。大自然も春分の日とお彼岸を迎えた後、季節はすっかり春になり、新しい服に着替えたような気がします。春は花嫁のように綺麗で、さわやかな香りに包まれ、各家々の庭、野や畑、山に抱かれた森の中にも、春の入場を見る人の心を豊かな喜びで満たします。
「復活祭のヨハネの福音書 20・1-9」
 イエス様が復活されました。イエス様は人類の罪、人類の弱さや苦しみを背負い、それを神様だけが持つ普遍的な力、愛の力によって死の闇を乗り越え、わたし達に赦しの復活、喜びの復活、命の復活を教えてくださいました。言い換えれば、体と心、心身で命の尊さを諭されました。今日、復活祭の喜びを味わいながら、この神秘的な出来事を深めましょう。聖書によると、週の初めの日、婦人達が朝まだ暗い内にイエス様のお墓に着いた時、それは空っぽでした。そこに葬られたはずのイエス様のご遺体はなかったのです。婦人達がイエス様の姿を見ようとしても見当たらなかったのです。あの時の婦人達が感じたことは、誰でも理解し易いと思います。彼らはすでにイエス様のご受難によって、心を騒がせていました。その上お墓の石が転がされていて、イエス様のご遺体は見当たりません。彼らの心は大きな痛みで抱かれました。しかしその時、体の目は心の不思議な光に照らされて、天使たちの声を通してイエス様が復活されたと悟りました。聖書に書いてある通り、イエス様は、お墓で蘇えられ輝いた姿を現わされました。それに気づいた婦人達の心は大きな喜びで満たされて、走って行きその素晴らしい出来事を告げ広めました。わたし達の場合、神様の不思議な恵みによって洗礼を受けましたが、どのようにイエス様の復活の体験を日常的に言葉で語ることができるのでしょうか。まず、人間が自分の人生が暗い時、苦しい状況の中、死の恐怖の中で、神秘的な方法でイエス様と出会うことが出来ます。わたし達が苦しんでいる時にこそ、イエス様は特別にわたし達のすぐそばにおられます。その時わたし達の力でその姿を見ることは出来ませんが、神様が送ってくださった心の光によって、イエス様の輝いている姿を見ることが出来ます。自分が苦しんでいる時に、失望した時に、その場でわたし達の苦しみを分ち合ってくださるイエス様のことを思い出すようにすれば、イエス様が約束された通りに、その出会いを実現することが出来ます。その新たな出会いによって、わたし達は大きな喜びを味わい、死から命の素晴らしさを見出すことができます。罪を赦されたわたし達が、愛する愛される自由を覚えた人間になれるのです。又、イエス様が十字架上で送り出だされた息吹によって、イエス様と一緒に復活し、永遠に生きることになります。「今日私と一緒に楽園にいる」復活とはキリスト信者にとって欠かすことのできない人生の経験です。それは自分自身を深く生きることによって、イエス様がもたらした救いの意味を身近に理解することが出来るのです。                 
                                モヨリ神父

A年  枝の主日

2017年04月04日 | 神父様からメッセージ(A年)
  2017.4.9

 全世界のカトリック教会は、枝の主日を迎えることになりました。当日曜日によって、聖週間に入ることになりこの時、全世界のキリスト者はイエス様のエルサレムの入場と、イエス様が弟子達と共に行われた最後の晩餐、イエス様のむごいご受難と死、そしてイエス様のご復活を思い起こして記念します。
また洗礼を受ける方々にとっては、自分の信仰の歩みの中で、最も重要な頂点である時を迎えることになりました。なぜならこの時に受洗者は、イエス様と共に死んで、つまりその折の神秘的な所作の意味は、水の中に入り込むことで示され、イエス様と共に復活すること、イエス様と一緒に水の中から浮き出て、ずっと生きるようになるのです。イエス様が死を迎えたことは偶然な出来事、突発的な事件ではありません。むしろイエス様がこの世に来られた目標を全うされた最後までの、最高の選択でした。イエス様がエルサレムに入るのは、律法学者達、ファリザイ派の人々、ローマ軍が集中した所だとよく解っていたのですが、そこで最後まで御父の御心にかない、それを述べ伝えることと決まっていました。それだけではなく同時に、エルザレムは王様達の玉座であり、預言者達が神様の言葉を述べた所であり、天国の栄光を現す都として象徴的な場所でした。言い換えれば、当時の世界の中心部とも扱われていました。イエス様はその場所で、上記のように自分の使命を全うし成し遂げられたかったのです。
「マタイによる福音書 21・1-11」
 さてイエス様は繋いであった子ロバを引いて来させ、そのロバにまたがって都に入場し、御父の御心を最後までかなえられるために進んだのです。ロバにまたがって入場するのは、王様達のように都に入場することですが、同時にイエス様が人間の弱さを見せながら、神様の偉大な力を称える意味も示しました。イエス様が印によって新しいエルサレム(人間の心)に入場されたと同時に、予言的な印を見せることにしたのです。つまり愛の弱さを通してだけ、全人類を救い得ることになります。エルサレム入場の時、群衆はイエス様を歓迎して祝いました、けれども同じ群衆が、その後イエス様を「殺せ!」と叫びイエス様の死刑を願いました。勿論その間、イエス様を本当に救い主であり、メシアであると受け入れていた人達もいました。
 上記の出来事を思い起こしながら、その後マタイの福音書のご受難の物語を朗読することになっています。わたし達はまず、イエス様がわたし達のために背負われた苦しみを思い起こし、イエス様と一緒にその苦しみを分ち合い、イエス様が人間に大きな愛情を示されたことを黙想し、また人間の苦痛は、愛だけを通してその癒しを得ることを知らされます。聖週間の間、イエス様が教えられた偉大なメッセージが、少しずつ述べられます。イエス様のむごい苦しみによって、人間が愛のために生きる道を覚え、苦しみを受け入れることによって、イエス様のように復活までの救いの道を進むことが出来るのです。
                        モヨリ神父

A年 四旬節第5主日

2017年03月30日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 今週の日曜日が聖週間の直前の最後の日曜日となっています。洗礼を受ける人達の為に欠かせない課題に踏み入ることになりました。それはわたし達の命、復活であるイエス様のことを心で、体で、全ての思いでえらばれることです。信じるとは頭で決めることではなく、全身全霊で生きることです。イエス様ご自身がこの時の福音書の中で次のことを宣言してくださいます。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と。命のこと、生きることは、わたし達にとって神様からの最高の賜物です。又人間にとって、生きることは神様との最も堅密な結びになっています。わたし達は神様の息吹で生きているではありませんか。だから人間にとって命とは、もっとも大切な宝物であるはずです。しかしわたし達の弱い手に置かれたこの偉大な宝物は、簡単に失いやすいものであり、いつも十分に評価されていないようです。実は人は大切なものに気付くこと、また宝物を手にもっていることはそれを失うと言う悲しい経験によって知ることが多いのです。
「ヨハネによる福音11・1-45」
 イエス様は今日の福音書の中で命の尊さを教えてくださいます。ベタ二アのユダヤの町にイエス様の最も大事な友人がいました。それはマリアとマルタとラザロでした。 突然ラザロが亡くなって、イエス様がそれを知らされた時、珍しく、泣くほど大きな悲しみを感じられました。イエス様は人間であることによって、人間の苦しみに対して、人間の死に対しても心をかけておられ、深くその痛みを分ち合って自分の生涯全体で、自分の身に背負うようになさいました。けれどもイエス様は神の子であり、神のいとしい命で生きるものでありながら、人間の苦しみ、人間の死、どんなに辛いことでも、神様と出会う場に変更されました。イエス様が使徒パウロの言葉を通して次ぎのことを教えてくださいました。「わたしと苦しんで死ぬ者はわたしと生きる、永遠に生きる」(パウロのローマ人への手紙6・5)。イエス様が、亡くなった親友ラザロの死を悲しんで、御父である神様に祈り、ラザロの命を取り戻しました。そのしるし(奇跡)によって、イエス様は自分を信じる人に、復活であり命であることを示されたのです。わたし達の生きた経験では、実際にどのようにイエス様が復活と命であることを理解できるのでしょうか。その答えは、キリスト者にとって信仰の核になっています。各々の苦しみの中で、わたし達はイエス様とひとつであることを信じて実感すれば、そして神様もわたし達と同じ苦しみを背負ってくださったのだと理解すれば、わたし達は決して寂しい一人ぼっちではないことを、神様がご自分の存在と命の尊さを通して教えてくださいます。イエス様がわたし達の希望と喜びの道であり、目標であると受け止め、わたし達は神様の愛に包まれて、神様と同じ命で生き、その中で永遠に生きることを知らされます。              モヨリ神父

A年 四旬節第4主日

2017年03月24日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 「一人の女が犯罪の現場で捕らえられて、暗く寂しい砦の牢屋に閉じ込められました。その牢屋は狭くて、天井の傍らに小さな穴のような一つの窓が開いているだけでした。そこから、かすかな光と共に、少し呼吸ができるぐらいの空気が入ってきました。ある日、妊婦であった女は子供を産みました。その子供は、わずかな食べ物で生きのび、弱い体でも成長しました。お母さんと一緒に、生まれてからずっと牢屋に暮らしてきて、外の自由な世界を少しも知らない子供でした。ある日、天井に空いている小さな窓から、風に運ばれて枯れた葉っぱが牢屋に入りました。その葉っぱを手に取ったお母さんは、牢屋で生まれた子供に一所懸命に外の世界、その光、その美しさを説明し始めました。」さて、全ての人間もまったく同じ状況だと言えないでしょうか。
「ヨハネによる福音書 9・1-41」
 福音書の中のイエス様に出会った盲人と、現在の人間にとっても見えない状況の中で生きているのは同じです。けれども、生まれつきの盲人のように、イエス様に憐れんでくださいと叫び祈ったら、イエス様がわたし達に油を塗ってくださる、つまり神の子として選んでくださいます。そして聖水によってわたし達の目の前にある暗闇を完全に洗い流すことができるとおっしゃっています。わたし達の光になったイエス様は、わたし達自身、そして周囲にいる者達に神様の存在を見えるようにしてくださいます。
 上記のような課題で、わたし達が四旬節のメインテーマの真中に立っていることを実感します。洗礼を受けた人達、又洗礼を受けようとしている人達にとって、生まれつきの盲人と同じ経験をすることになります。それはどういう事かと言うと、実はわたし達の日常生活の中で気づいていないこと、見えないことは大変多いのです。しかし神様からいただいた信仰によって、つまり心の目で、わたし達の日常生活の中に神様の存在とその働きを見ることができるようになります。わたし達が愛されている印、準備されたものは、折々に周りからもたらされる小さな贈り物のように多いのですが、わたし達は見えないことがしばしばです。その愛されている印の中で、神様を信じることによって、神様から愛されたことを見出し、神様へも人へもその愛を返すことが出来ます。さて最後に、洗礼の時に受けた光を思い出して、その光で照らされて、復活祭のより大きな喜びを期待しましょう。                  
                                      モヨリ神父


A年 四旬節第3主日

2017年03月15日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 四旬節第三の日曜日にあたり、主日の喜びは洗礼志願者の存在でも飾られています。洗礼の準備のために、四旬節は年間中もっともふさわしい時期ですが、毎週典礼から勧められた福音書も、洗礼式の神秘的な内容と価値を紹介してくれています。キリスト信者は四旬節の間精神を高め、人生を見直します。特別に共同体の中で赦し合うことと心くばりを大切にして、神様の慈しみを伝えることです。そして謙虚な心も欠かせないことです。私達の主はイエス様だけです。キリスト信者はイエス様の真似をしながら、何も自慢せずイエス様の姿を先にして世界に示しています。それだけではなく、いつも仕える者になるのです。
「ヨハネによる福音書 4・5-42
 当日曜日の福音書は、イエス様がサマリアの井戸で出会った婦人との対話を語ってくれています。暑い日中のお昼ごろ、喉が渇いたイエス様がサマリアにあるシカーの井戸に近寄った時に、信仰へ導く話をある婦人に仕掛けました。その対話の結果、婦人はイエス様に対する信仰だけではなく、自らの人生を見つめてそれを見直すようになりました。実は心の中でイエス様に出会う人が、イエス様を信じることによって、自らの人生を見つめ、自分自身をさえ再発見することが出来ます。そこから自分の人生も見直すことが出来ます。サマリ人の女との出会いが語られる聖ヨハネの福音書が、とても象徴的な話しで細かく書かれているのは、洗礼を受ける人のための重要な手段であり、同時に一般のキリスト信者の為には信仰に達する道しるべです。まずイエス様はメシアであること、そして丁寧に自分のことを紹介して、救い主であることを公に明らかにします。サマリア人の女の信仰への歩みを語りながら、三つのテーマが強調されています、第一「水のシンボル(象徴)」、第二「どこで、、どのように神様を拝むか」、第三「メシアはどのようなものなのか」と。それに加えられたのはいろんな役割を果たしたサマリア人達のことと、イ、エス様の弟子たちの反応についての話しです。聖書によるとユダヤ人にとって、水は法の中に含まれた智恵を象徴していました、だからいつも法の中から智恵を汲むことが出来ました。イエス様にとって水は、聖霊の命を象徴しています。だからわたし達が汲むべき井戸は、智恵と霊で満たされているイエス様自身のことです。それからサマリア人の女も、わたし達にもその井戸の中から普遍的な「水」を汲むように勧められています。イエス様の井戸からわたし達が汲むのは、聖霊の力、人生を導く智恵です。だから聖霊と智恵に導かれているわたし達の行いは、法に縛られている行いではなく、愛の霊と智恵に満たされた自由な行いです。同じように、このような井戸に水を汲むことによって、神殿でだけではなく、どこででも自由に自分の日常生活の中で、自分のよい行いを通して、神様を拝むことが出来ます。わたし達の人生を満たされるのは、欠かすことの出来ない唯一のメシアであるイエス様です、それが分かったサマリア人の女、それに従ったサマリア人達、イエス様の弟子達も、救い主であるイエス様の福音を多くの人達に告げ知らる事になりました。        モヨリ神父

A年 四旬節第2主日

2017年03月08日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 四旬節第2の日曜日です。復活祭への準備を進めながら心の大切さも深まり、信仰の主なテーマを皆さんも思い巡らししていると思います。四旬節は復活祭に洗礼を受ける者にとって、特別な準備の時になっています。その準備の進みの中で、教会では独特な言葉が使われています。まず「光」というのは神様の存在を示しています。それだけではなく、洗礼を受ける者にとって信仰の光は新しく人生を照らし、人生の色々な出来事の中に神様のみ旨を見出し、神様の働きを身近に感じるように導かれています。
 次に洗礼を受ける者が体験することは、心の自由です。自由に生きる経験は、喜びの中で生きることです。そして愛する人の為に生きる時に特別にわたし達の心は自由の中に生きることを経験します。四旬節の間に復活祭に洗礼を受ける者達はこのような経験をします。このように生きようとすれば、つまり光の中に、神様だけを愛しながら自由に、豊かに自分の人生の喜びを味わい、復活祭の時にイエス様と共に蘇えり、いつまでも神様の懐の中で生きることが出来ます。母である教会からキリスト信者に、この四旬節の間に特別な過ごし方を勧められています。それは少しでも節制することです。けれども、特別に神様が一番好む節制は、祈ること、そして神様の言葉を受け入れ深めながら、それを自分の人生の中に生かすことです。
「マタイによる福音書 17・1-9」
 四旬節の第二の日曜日の福音書のメッセージを、もう少し深めてみたいと思います。イエス様がご自分の神秘的な心を現す時、選ばれた弟子達の前でご自分の姿を変えました。そして同時にイエス様の傍にいた預言者エリアと立法を象徴するモーセの姿も一緒に現れました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの前でイエス様が、ご自分の姿を変えた時に弟子達が非常に喜びながら、驚き、神様を見、身近に神様との出会いの経験をしました。その時、弟子たちはイエス様が神の子であることを悟りながら、神様は美しいものであり、美しさそのものが神様であることを実感しました。このような神様の姿を見て、弟子たちは大いに喜びました。永久にあのような神様の姿だけを味わい見つめていたかったのです。ペトロは「こちらで三つのテントを張りましょう、ここに居ていただくのはわたし達にとって素晴らしいことです」と言い、当時の弟子達の気持ちを現しましたが、神様に出会うキリスト信者も同じようなことを感じています。よく考えてみれば、わたし達にとっても、日曜日に教会に行くと神様の姿がわたし達の目の前に現れて見えるのです。辛い現実も素晴らしい姿に変わります。それだけではなく、聖櫃におられるイエス様のパンやわたし達の周囲にいる共同体の者達も、一つにになって祈る時に、すばらしい神の子であるイエス様の変わられた姿を見つめることができます。だから、日曜日に皆で一緒に集まって祈るのは、本当に素晴らしいことです。ずっと永久に居たい所です。弟子達と同じようにずっとあのようにいいたいのです。けれども弟子達の前でイエス様の姿が消えたように、わたし達も同じように、日常生活に戻らなければなりません。戻る時に、平安を得た心に大きな喜びをもって、日常の役割を神様の思い通り果たすことが出来ます。
                                   モヨリ神父

A年 四旬節第1主日

2017年03月01日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 岩の上に置かれたキリスト信者の人生は、毎年灰の水曜日で四旬節に入り、復活祭への準備が始まります。四旬節は心の準備の時季であり、初代教会のときから、教会の伝統によって、勧められた方法があります。まず、自分の心の中の人の目がない所で、神様との出会いを求め、神様の言葉に耳を傾けることです。次にしるしのような行動を三つ勧められています。断食、施し、そして祈りです。このような修業をすることによって救われる、神様の愛を得られるということではありませんが、このようなしるしによって神様の心を深く理解し、それを自分の人生の中で受けとめられるようになります。断食するのは感謝の心が育つ方法であり、より深い霊的な世界を見出すことが出来ます。施しをすることによって、神様の愛にたいして恩返しをすることになります。キリスト信者は自分が神様に愛されたように人を、特別に弱い者を心を込めて愛します。また祈りは神様の心とふれあう場となります。神様の言葉に耳を傾けながら、自分の人生を開いて神様の愛の計画を取り入れましょう。 
「マタイによる福音書 4・1-11」
 四旬節の第一日曜日の福音書の内容に注目しましょう。それはイエス様が砂漠で受けた誘惑の物語です。根本的に弱い人間は、人生の様々な時にこそ誘惑に襲いかかられるものです。その時人間は、悪の魅力に捕らわれ、簡単に様々な権力を獲得するように悪魔から勧められます。しかし、イエス様は神様のことだけを選択するように呼びかけられています。誘惑が襲いかかる時に、わたし達は神様の力に支えられて、神様のみ心の通りに行うようにイエス様から教えられています。イエス様はまず、苦しい状況(砂漠)の中でより簡単に自分の人生の行き先を求め、また自分の名誉だけを望むように悪魔からすすめられました。しかし神秘的な力によって、イエス様は神様のみ心だけにご自分の人生を捧げるように選択して、悪魔を追い払いました。普通誰でも、神様に祈る時に神様の意思を自分の意思に合わせるようにしがちです。しかしそれは、人の人生にとって陥り安い誘惑です。イエス様がそれを拒否するように教えながら、神様だけを選び、自分に従った者たちに大きな力を与えてくださいます。神様は人間が耐えられない誘惑は与えられないのです。誘惑にあった時に耐えられる人は神様に祝福されています。イエス様は砂漠で歩いていたイスラエル人が誘惑を受けたように試練を受けられました。神様に愛されたイスラエル人はその誘惑に負けて、神様から離れてしまいました、しかし神の子であるイエス様は、その同じ誘惑を退け、神様の心を誉め讃えながら、最後まで神様のみ旨に忠実に従われました。
                                    モヨリ神

A年 年間第八主日

2017年02月22日 | 神父様からメッセージ(A年)



 聖書の言葉は神様の言葉、み言葉とも言われていますが、私たちの心の中にしみ込んで永く残ります。香りのある花で部屋を飾つたとき、花がなくなってもその香りが残ることがあり、美味しい料理を食べたあとで、その香り、その味が口の中、又周囲に残ることもあります。では神様の言葉のことですが、それを耳にした時、それを心に受け入れて、自分の思いにしみ込んで身につけてしまえたら、簡単に忘れることは出来なくなると思います。永く、いつまでもそれは自分の中に残ります。さて、先週の日曜日にイエス様が愛について話してくださった所も、心から簡単に消し去ることは出来ないと思います。神様は皆を愛しておられます。神様のことを知らない人でさえも愛しておられます。それで私たちに、敵までも愛するように勧められます。愛すること、愛されることは人生の一番素晴らしい目標だと思います。それは人生を満たします。愛によって人は幸せになります。愛は人間の心の欠かせない喜びです。このような素晴らしいメッセージを語ってくださるそのみ言葉は、簡単に心から消え去ることは出来ません。是非、神様の言葉を心の中に残し、留め、味わって生きて欲しいと思います。
「マタイによる福音書 6・24-34」
 預言者イザヤの書では、神様が人類を産んだ母親のように描かれています。主に見捨てられたと感じる時もこの神様への信仰をもって生きるべきです。人は一所懸命に働く時に、神様と一緒にこの世を創造し続けて、神様から与えられた役割を果たせるようになります。だから当福音書の中に、イエス様が強調されたのは、この世の物理的なものに心を奪われないようにということです。人間にはまず心の自由、神の国の正義のような言葉より、大切なことが沢山あります。典礼の祈りの中で、教会は神様に向かって、自己中心的な行動と思いから解放されるように願っています。同じようなことが当福音書にも願われています。人は普通、いろんなことを心配しています。心配し過ぎると不信仰を表し、人生の不適切な考え方も起きてきます。特に財産を貯め込んだり、未来についてまた、現在の日常生活についても無事に過ごせるかどうかと無駄に心配することです。キリスト信者は未来について、又日常生活、財産などについて心配し思い悩むことはありません。自分に必要なことは神様が全て備えてくださいます。神様は大自然の花、空の鳥も大切にして、それを養っておられます、まして人間を大事になさらないことがあるでしょうか。今日の福音書の中心になる言葉は、心配しないように、と同時に一所懸命努力して神様の協力者として生きるようにとの教えてす。イエス様の時代に奴隷は、同時に二人の主人に属する場合もありました。しかし、それによっていくつかの問題が生じていたことも事実でした。イエス様がその制度に例えて、富と主人とに同時に仕えることは出来ないと教えられています。富は人間の心を奪い、絶対的な存在になりがちで、それだけが人間の人生の目標になってしまうこともあります。神様に造られた人間は神様に属するものですから、富は身を縛る鎖になるばかりなので、神様から奪い取られるのです。神様を選んだキリスト信者はなにも心配せず、心の平和を味わいながら、神様と一緒に働き、自分のことも、隣人のことも大切にすべきです。

                                 モヨリ神父             


A年 年間第7主日 

2017年02月13日 | 神父様からメッセージ(A年)


 主の祈りをよく唱えるキリスト信者たちは、主の祈りの様々な文書の意味を理解しにくい時もあります。たとえば「み名が聖とされますように」と祈ると、実際にどのようなことを願うことになるのか、すぐには言いにくいと思います。まず、聖書と祈祷文の中で、文章が受身形になる時に主役になるのは、神様自身です。だから神様自身が自分の名前を聖なるものとします。神様の名前とはオリーブ山でモーセに教えられた名前でした。それは「わたしはある」と言う表現で、神様は自分が人々の日常生活の中に溶け込んで、働いて、人間と一緒に喜び、悲しんでおられると言うことを伝えたかったのです。そして「聖とされる」と言うのは生き生きとする、躍動する、燃え立たせることを示しています。だから、祈りの言葉を一つ一つ分析してまとめれば、祈りの内容が豊かに現れてきます。「神様、人間である私たちの間に、というよりむしろ、私たちの心の中に神様を生き生きとした存在にしながら、私たちを支え、豊かなあなたの命と力を与え、命の尊さをたっぷり味わわせてください」と言う内容になります。是非このような思いの中で、主の祈りを唱え、命である神様の心に向かい、大きな信頼を持って神様の助けと安らぎを求め、得られますように。
「マタイによる福音書5・38-48(黄金の法)」
 イエス様は新しく、人生の過ごし方を考える方法を勧めてこられました。場合によっては正直な考えよりも、革命的な行動と思いも勧め、そのように自分の弟子にも生きるように教えました。イエス様はいつも自分の思いや話に父である神様の姿を基本にして話しました。それでイエス様は、弟子にも「神様が完全であるように、あなたがたも完全な者になりなさい」と呼びかけられました。当福音書では、イエス様が山上の話を続けています。特別に隣人の愛によって仕返しの法を廃止して、その古い考え方を乗り越えるように教えています。それを乗り越える為に欠かせない理由があります。「神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるからである。」つまり、神様が皆を大きな慈しみと愛で包んでいます。イエス様の時代に「目には目を」「歯には歯を」と言う原始的な法律がありましたが、しかし、イエス様は完全にこの法をも廃止し、それを乗り越えようとします。実際にイエス様の時代、頬を人が打つことはとても屈辱的な行動でした、それを帳消しにするためには多大な金額が必要でした。しかしイエス様がおっしゃるのは、右の頬を打たれた弟子は仕返しを求めず、左の頬も見せなければなりません。イエス様自身もカイファの裁判所の兵士に打たれた時にとても優しく、憐れみ深く、反感を持たず答えました。そして、当時、敵を憎むこと、敵と戦うことは当たり前のことでした、なぜなら、イスラエルの敵は神様の敵だと考えられているからです。しかしイエス様は、当時の法律ではなく、模範として神様の思いとやり方(完全な)に基づいて、それに従って真似をするように勧めています。イエス様に従った弟子は、人の中にイエス様の姿をみいだし、イエス様と同じように考え、同じように行い、心から人や敵を愛します。これがキリスト教の「黄金の法」です。                                                                     
                                     モヨリ神父

A年 年間第6主日 

2017年02月06日 | 神父様からメッセージ(A年)

 
 わたし達の目の前によくあらわれる文字があります。しかし、それが完全な意味を発揮するのは難しい時がすくなくありません。それは「聖」です。読み方もさまざまで「ひじり、せい、しょう.・・・」などです。どんな宗教の中でも使われているし、特別にキリスト教では専門用語になっています。聖書には聖と言う字は8〇〇回以上記されています。聖書によると聖なるものはまず、神様です。神様がおられる場所、山、祭壇、聖堂。神様に関係するもの、神様とかかわる人間も、聖と言われます。たとえば、聖堂、聖書、聖人…などです。しかしこの文字の意味を聖書を通して分析すると、「命」と意味づけられます。さて、具体的にそれを確かめてみましょう。「聖」の反対語は汚れと俗です。旧約の時代、汚れた者は重い皮膚病を患っている人でした。イエス様の時代の初めにも、死んだ者として扱われていました。しかし、イエス様の奇跡的な力によって、清い者とされて生きるようになりました。命を与えるのは神様だけです。つまり神様から命をいただく者は神様の前で聖なる者になるのです。聖なる者はまず、生ける神です。命を与える神、永久に生きる神なのです。死に勝って、復活されたイエス様は、いと高き聖なるものです。イエス様の為に命を捧げた殉教者も聖なる者として永遠に生きるのです。イエス様と同じように生きた者、イエス様と一緒に死んで復活された者は聖人として、命を与える者になります。このように生き生きとした者の命が、神様を誉めたたえています。
「マタイによる福音 5・17-37」
 イエス様は旧約聖書から受け継がれた大切なところを評価されて、それを乗り越えて、場合によって廃止する時もあります。イエス様だけが、旧約聖書の言葉を信仰の深みで理解することが出来ました。しかし「私が言う」という表現に、イエス様の新しい心のメッセージや教えの権威もすべて含まれています。イエス様はファリザイ派の人たちと違って、言葉の数に頼らず、自分自身の中に権威を定められたことを示しました。実際に皆がイエス様の権威のある教えに対して驚きました。なぜなら、旧約聖書で教えられたことを遥かに超えていたからです。当福音書では四つのテーマ(殺意,姦淫、離婚、誓い)について旧約聖書の細かい教えを述べながら、「しかし私が言う」とそれを乗り越えた新しく素晴らしいメッセージを述べています。イエス様は、預言と法律を完成する為にこの世に来られたことを宣言しました。「完成」の具体的な意味は、完全に守ること、完成すること、実現することだと示しています、しかしよく見てみれば完全に守ることは、おそらく、イエス様の思いに含まれていないことでした。実際に福音書では、イエス様が安息日の法を守らない時があったり、弟子たちと断食を守らないで、弟子たちにもそうするように教えたり、清めのしきたりをも守らないようにしました。だから旧約聖書を完成するには、イエス様にとって、言葉通り完全に守ることではなく、イエス様の心の教えの通り、その言葉を新たにみられるようにするのです。イエス様がこの世に来られたのは、預言者たちが希望したことを満たすためです。つまり、それは愛の法を教えながら、新しい法、石の上に書いたものではなく、神様につながる法であり、人間の心の中に置かれた法なのです。                      
                                  モヨリ神父

A年 年間第Ⅴ主日

2017年02月02日 | 神父様からメッセージ(A年)


 さて、12日の日曜日のミサの中で、ルルドの聖母の出現を思い起こし、マリア様にみんなで心から深い愛情を示しながら、マリア様への祈りを捧げたいと思います。そして、ひとりひとりが小さな一輪の花を持って来て、マリア様の祝日を祝いたいと思います。また当日は、「世界病者の日」にもあたっていますから、洗礼を受けられた皆さんに病者の秘蹟を授けたいと思います。心だけではなく、体の健康も願って、力強くイエス様に従うものになりたいと思います。イエス様がおっしゃっていることは「わたしに従いたいものは自分の十字架を背負って私に従いなさい」、このような丈夫な体、元気な心で、復活祭までイエス様を身近に感じながら従うようにしましょう。
「マタイによる福音書 5・13-1」
 当福音書はイエス様の宣教や活動に巻き込まれていく弟子たちのあり様とその目標を語っています。イエス様はやさしく、理解しやすいイメージである塩と光を通して、弟子たちに自らの立場や役割も発揮させることにします。最後にイエス様は自分の話を完成するにあたり、弟子たちに向かって「あなた達はこの世のパン種」と宣言しています。つまりこの世を変える、照らす、味をつける力を持っていると述べています。塩、光、パン種と言うのは小さなものですが三つとも共通する特徴があります。それは自分より大きな現実と関わる能力をもっているということです。三つともイエス様が言いたいことを力強く例えています。わずかな塩のひとつまみで多量の料理に味をつけられます。わずかなともし火の光でも部屋中を照らします。ほんの少しのパン種が多量の粉を膨らせて、香りのある大きなパンを焼くことができます。このイメージの中に偉大なメッセージが含まれています。キリスト信者の信仰は、自分の得になったり利益を生むためではなく、むしろキリスト信者の生きた信仰はだれにでも影響を与え、喜びを与え、人を照らし、人を満足させ、欠かせない人生の彩りになります。この話をイエス様は、弟子たちだけではなく全世界の人に向けてしています。イエス様はこのような例えを通して、一つの教えを伝えたいのです。この例えによってイエス様がキリスト信者の信仰の重要さを強調しています。信仰はキリスト信者の人生をまきこんで、キリスト信者の心にしみ込んでいき、思いの基準となり、欠かせない人生の選択の基礎になっています。キリスト信者は自分の力によって、塩、光、パン種になれるのではなく、むしろイエス様の光や力でそうなるのです。弟子がイエス様に従うこと、一致することによってこの世の光になり、人生の意味深い味になっています。イエス様の光の下で歩む人だけがこの世の味になり、この世を照らすことができるのです。
                                    モヨリ神父

A年 年間第4主日

2017年01月24日 | 神父様からメッセージ(A年)
 
 人間の心を良く知っておられたイエス様は、人間が自分の人生の間に、幸せになることだけを捜し求めていることを受け止められました。イエス様は山上からその道を、新しい指導者としてモーセのようにお話しになり、わたし達にも幸せになる方法を教えてくださいました。幸せになるために一所懸命頑張るという行動ではなく、目が覚めて、つまり気付いて、イエス様の言葉を信じることによって、わたし達はほんとうはすでにもう幸せであることに気付くのです。貧しい時、泣く時、平和を求める時、そして皆に疎外される時に、寂しい時にも、わたし達はその時々に幸せです。その時こそ、神様が慰めてくださるからです。その時に特別に神様をみることができます。その時に神様が大きな報いを準備してくださいます。イエス様が述べ伝えてくださる幸せは、辛い時に自分の心の中に湧き上がり、それを自分の人生の中に見出すことができれば、幸せであることを実感することが出来ます。山上からイエス様は弟子達に、幸せになる道を力強く教え、弱っている大勢の群集に救いの道を述べ伝えました。幸せになりたくてたまらないわたし達にとって、このようなイエス様の話は、人生の参考に、いえむしろ人生の土台になるのではないでしょうか。
「マタイによる福音書 5・1-12」
旧約聖書では、幸せな人は神様によって解放された者です。奴隷から開放された者だけではなく、神様の掟を守ることによっても悪から解放されています。知恵によって暗闇から解放された者も示されています。 新約聖書では、永遠の命を希望するキリスト信者は幸いな者だと定められています。実は、本当の幸せな人はイエス様と一致した者です。なぜならイエス様自身が貧しい人、悲しむ人、柔和な人、憐れみ深い人だからです。生きている間に、キリスト信者が苦しい状況の中に置かれていたとしても、同時に、神様から未来を約束され、永遠の喜びを味わうことができます。このようなイエス様の幸いの話を理解するために、み言葉を鏡に写すように見てみれば、その深さを発見することが出来ます。最初4行の文章は次の4行の文章を反映しています。又、第1の2行は第5の2行と相対し、第2は第6に相対してその後も同じように続きます、このようにして、大いに深い意味も浮かび上がって来ます。山上の話を通してイエス様が、新しい福音を告げ知らせています。イエス様が教えられる救いは、積極的に信仰を守るところから始まります。心の貧しい人と慈しみのある人とのつながりは深いのです。むしろ、貧しい人は慈しみの心をもっています。同じように人生の中で苦しんだ人は清い心の人になり、自分の人生の中で神様を見ることができます。確かに平和を求める人は柔和な心をもっています。正義のために苦しんだ人だけがそれを強く求めています。イエス様が山上の話の時に、人を自分に従うだけではなく、自分のように生きるように、自分といつでも同じ様になるように勧めています。だからキリスト信者はイエス様のように、貧しく、イエス様のように苦しみ、イエス様のように清い心で、柔和で、正義を探し求めています。それに、イエス様のようにイエス様の名によって迫害されることもあります。                      モヨリ神父


A年 年間第3主日

2017年01月19日 | 神父様からメッセージ(A年)

        
 今週は教会の伝統により、キリスト教一致祈祷週間にあたり、全世界のキリスト信者の宗派が一つになるように祈ります。イエス様は一つの教会を望んでおられたのに、現在でもイエス様に従うものの中で分裂があったり、いくつもの宗派に分かれています。できるだけこの一週間は大きな夢を持ってイエス様が希望された唯一の教会のために祈りたいと思います。確かに歴史の中のいろんな面や出来事によって、教会の罪、教会の欠点があり、キリスト信者の間の分裂のもとになりました。けれども憐れみの心をもったイエス様を見習って、神様に赦されたように赦し合いながら、キリスト信者はいつでもイエス様が望まれた教会を創るように努めましょう。

「マタイによる福音書4章12-23」
 ミサを立てる時、一年中いつもイエス様の神秘をお祝いし、記念することになっています。典礼には、これからイエス様の公生活が始まる物語が朗読されています。実際に降誕祭の時に宣言された出来事が「暗闇の中で大きな光が現れた」と実現しています。イエス様が始められる公活動は、都であったエルサレムからではなく、そこからはずれで貧しいところであるガリラヤからです。預言者が告げた通りに、イエス様はこのような素朴なところから自分の活動を始められます。そのような暗いところにイエス様が光として来られ、暗闇の中におかれていた庶民が照らされています。イエス様が最初に洗礼者ヨハネと同じように、人生の心構えとして人々に回心するように呼びかけています。その回心の内容は、少しつつ自分の中にイエス様の姿、イエス様の心と思いをしみ込ませることです。その後、弟子たちの呼びかけは歴史的な出来事でありながら、象徴的な召し出しをも示しています。イエス様がご自分の弟子たちのように皆、どんな人にも自分に従うように呼びかけています。普通の日常生活から呼び出されて、いつも日常生活の歩みの中でイエス様に従うように勧められています。イエス様の人への呼びかけの目的は、自分と一緒に協力者として、人類の救いの為にいつも、どこでも努める者となることです。最後に、イエス様が苦しんでいる人類を癒しています。この時こそ、イエス様は弟子の手本になります。イエス様の弟子の目的は先生の希望を完成するまで勤めることです。イエス様の希望は人間一人一人の、心身の悪からの解放、根本的な救いです。
                               モヨリ神父

A年 年間第2主日

2017年01月09日 | 神父様からメッセージ(A年)

        
 この頃カトリック典礼の色は緑になり、年間の時季にもどります。この季節は、より大切な他の典礼的な季節の準備になります。「準備中」と言いかえればおかしくないと思います。だから、この時季をも大切にしながら、キリスト信者は大きな希望の中で、より重要な時の準備として過ごすべきだと思います。

「ヨハネによる福音書 1・29-34」
 当主日の福音書は、再び洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授けることについて語っています。短い個所の中に「見る」と言う単語が5回ほど登場します。中心的なところは、洗礼者ヨハネがこの世で降待祭の時に生まれてきた、メシアであるイエス様を紹介することです。
 実はイエス様の真の姿をヨハネに知らされるのは聖霊です。洗礼者ヨハネは、二回ほどイエス様のことを知らないと言います、なぜなら、イエス様を知らせるのは聖霊の独特な贈り物だからです。神様であるイエス様が僕として神様の栄光を表すもので、洗礼者ヨハネにとって初めて知りえたことです。洗礼者ヨハネが受け入れた光、イエス様を知ることも洗礼を授けることも、神様から命じられたこと、与えられた賜物です。イエス様を知ることは洗礼者ヨハネにとって人間同士の経験だけではなく、イエス様が神様であることも知ることによって、人間が神様の世界に属するものであることも知らされたのです。洗礼者ヨハネのイエス様の紹介の方法によって、洗礼者ヨハネがどのようにイエス様のことを知るようになったかが明らかにされています。神様でありながら、人間としてこの世に来られたイエス様を紹介する表現は次の通りです。「神の羊」「世の罪を取り除く」「私の後から一人の人が来られる」「その方がわたしにまさる」「わたしより先におられた方」「聖霊がこの方の上に留まる」「聖霊によって聖霊を授ける」「神の子」です。このような言葉でイエス様が洗礼者ヨハネに初めて紹介されています。だからイエス様は皆の魅力ある神の羊であり、この世の人類の救い主です。イエス様を通して、神様はこの世の罪を無償で全て赦します。イエス様は人間でありながら神様であり、神様に全て結びついて、この世の根本的な弱さをとりのぞく方なのです 
                               モヨリ神父