カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年 年間第27主日

2016年09月27日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 
 キリスト信者も自分の人生の間に良いことをするように努めていますが、それによって救いが得られるわけではありません。良いことをし、一所懸命に生き、立派な行ないをしながら、輝いている自分の役割を果たす目標は、まず神様に感謝するためです。神様からいただい命、恵み、喜びは数知れないほどありますから、それに感謝の心をもって、いろんな方法で恩を返すように生きています。そして神様の僕(しもべ)として、神様から任せられた役目を積極的に果たすように努めています。キリスト信者はその目標を果たす為に一所懸命に生きるのです。それでキリスト信者は良いことを沢山したからと言って、神様から特別な、評価、報い、名誉などが得られるのではなく、忠実な僕として自分に任せられた義務を果たさなければならないと思い、神様に人生の一瞬々をささげているのです。そしてその後に、イエス様が勧められたように「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うのです。
「ルカによる福音書 17・5-10」
 当福音書は人の信仰に注目しています。イエス様は自分の言葉を実行するために信仰を持って生きるように勧めます。ほんの少しの信仰さえあれば、根の生えた木さえ海に行かせることができるとイエス様が強調します。それに従ってイエス様がこのように行いよりも信仰に注目されます。イエス様から語られた例えは比較的な話で、聞き手は自分の心の中で結論をひきだすように勧められています。僕らしく生きてきた僕は、自分がしなければならないことをしたのですから、特別な賞を得られるはずはありません。むしろ自分らしく生きてきたといって満足するべきだとイエス様がおっしゃいます。僕にとってまず自分の主人を信じて、それに忠実にするのは一番ですが、次にその役目の通りに生きるのは当たり前なのだと考えています。キリスト信者は神様に対して同じような心をもっています。良い、忠実な僕のように感謝の心で、神様に昼も夜も使えています。その後「取るに足りない僕だ」という表現は、上記のような心を示しています。信仰を持った人は神様を主人のように愛し忠実に生き、しなければならないことを果たして、謙虚に努めています。自分の行いの善さを通して神様の報いを得るのではなく、神様に対する愛や忠実な生き方で、神様の報いが得られます。神様ご自身がわたし達のことを思い、大きな愛情で包んでくださり、願ったこと以上に報いてくださいます。良い僕は給料を得るためではなく、主人を喜ばせるために努めています。キリスト信者は同じように神様の心を信じて神様の思い通りに、神様に心をあわせて忠実に生きています。
                                   モヨリ神父

C年 年間第26主日

2016年09月19日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 キリスト信者の心には欠かせない特徴があります。それは聞く心です。自分の心、自分の体全体を耳にすることです。耳を傾けて神様が話される声を聞いています。有名な神学者もキリスト信者を「み言葉を聞く人」とよんでいます。神様はそよ風の中で話してくださり、嵐の中でも預言者の時代のように話されます。モーセに茨のやぶの中から話されました。サムエルは夜中に夢の中で神様から呼ばれました。聖書の中に神様がしばしば雲の中から話される場面があります。神様は人の心の沈黙の中でも話されています。イエス様が神様の言葉になって、山から話しかけられたり、小さい船からでも群衆に話されていました。洗礼者ヨハネは声として言葉であるイエス様に耳を傾けるように、自分の命を掛けて勧めました。小さいものたち、貧しいものたち、病者の中に宿るイエス様が、このような人々を通しても話してくださいます。キリスト信者はこのような不思議な、神秘的な言葉に一生耳を傾けています。その中に人生の喜び、幸せ、救いが含まれているからです。
「ルカによる福音書 16・19-31」
 聖書によると富はむしろ人の心を縛る枷であり、人の目も暗くして、神様のこと、他人のことも見えなくします。また神様の言葉も聞こえなくなるのです。このような心を持った人は貧しい人、弱い人を差別し、神様から見捨てられています。富にとらわれた人は心がかたくなで慈しみと憐れみのない人になります。預言者の言葉を通して、富のためだけしか生きていない人達を、神様が厳しく裁かれていることで明らかです。当ルカの福音書の例え話で注目するところは、貧しい人には名前があります、金持ちには名前はありません。貧しい人はできものだらけのけがれた者で、犬がそのできものをなめています。しかし例え話の中心になるのは死後に起こることです。隣人のことを完全に見えなくなった金持ちは地獄に落ちて、貧しい人はアブラハムのふところに受け入れられています。当福音書はあくまでも例え話です。死後、正確に何が起こるか誰も知りません、しかし例え話は死後、生きていた通りに報われることになると言っています。とうとう金持ちは自分の兄弟について心配しはじめます。アブラハムの答えは、ラザロは助けに行けないが預言者を通して宣べられた神様のみ言葉を聞くべきだと告げています。最後に例え話が強調するのは、神様のみ言葉を聞き、心を変える、その言葉の力を受け入れる人だけが神様を見、神様に従う、隣人を愛するということです。自分の心が縛られることなく富から自由になることによって、素晴らし天上の音楽を聞くことになります。それはわたし達の救いの歴史の歌です。
                               モヨリ神父

C年 年間第25主日 

2016年09月16日 | 神父様からメッセージ(C年)


 昭和26年、老人の福祉と敬老について啓蒙することを歌い文句に「老人の日」が設けられ、週間行事も行われてきた。現在は九月の第三月曜が国民の祝日の「敬老の日」として、公私を問わずその趣旨に沿うべく、各地で多彩なイベントなどが催されています。人生はそれぞれの季節によって、辛いことがあり嬉しい時もあります。老年に入ることは、人生の一番辛い時ではないと思います。年寄りになっても幸せな生活を送ることが出来ます。まず、自分の人生を振り返ってみると、神様からいただいた恵みを沢山見ることが出来ます。感謝の心が深くなり、それは自分の人生に全部及んでいきます。自分の言葉の重さによって人を指導し、素晴らしい真理を紹介し、自分の心も大きな喜びで満たされていきます。そうしてこのような思いに満ちた心の高齢者は、大きな平和を味わい、まだ若い人たちにも限りない人生の価値を伝えることができます。イエス様の言葉をも自分の人生に結びつけて見、神様から任せられた人生を上手に使うことができれば、神様が大きな報いを与えてくださいます。神様のみ旨の通り生きたものたちは素晴らしい心の平和を味わえます。
「ルカ福音書 16・1-13」
 神様は人間に自分が父であることを示し、愛と赦しで満ちた人生を任せ、ご自分の永遠の命、普遍的な喜びを供えてくださいます。それに対して人間は、この世の持ち物を通して豊かさ、名誉、栄光を探し求めています。自分の人生で何を選択するかによって、自分の人生の価値観のもとに、人と神様との関わりの中で、どれかを選ぶとすれば、選んだことに対して他を拒否しなければなりません。当主日の集会祈願は共同体の声になって、このように神様に願っています:「貧しさに徹して生きる道を示してください。まことの豊かさを知ることが出来ますように。」また第一朗読によると、富にとらわれた人は現実を見失い、富に縛られて、相手を物理的なもので犠牲にします。福音書の課題は正義に生きるように勧めますが、わたし達の思いは神様の思いに従って富の為ではなく人の為、むしろ他人に富を分かちあって生きるように勧めています。イエス様が語られた例え話を通して、豊かに生きる為にいくつかの教えを勧めてくださいます。まず、思いがけない不幸な目にあっても、あきらめないでそれを肯定的な行動で乗り越えなければなりません。主人に不正な管理人が誉められたのは、厳しい時があっても賢く、徹底的に働いたからです。イエス様の弟子でも、どんな時でも、このように行わなければなりません。次に富の使い方についても教えがあります。富に対して人間は中立になることができません。心が富にとらわれた場合、富の力に口説かれる場合が多く、冷静に神様に忠実に生きることはできません。どうしても不正な道の方に引っ張られて、その下り坂をたどるようになります。どんな場合でも現世的なものに元づいて考えれば、人生を乱します。正儀と不正義を同時に生きることはできませんから、イエス様の弟子は常に目覚めているべきです。そして神様の恵みによって迷わず正義の道を選ぶべきです。                        
                            モヨリ神父 



C年 年間第24主日 

2016年09月05日 | 神父様からメッセージ(C年)


 キリストに従う者達でも誰でも、同じように希望を持って探し求めるものがあります。キリスト信者は不満や寂しさからだけで探し求めるのではありません、まず感謝の心をもって生き、希望をもって探し求めています、それは神様の心です。どんなことが起こっても、キリスト信者はその中に神様の愛を見出します。現在の大切な一瞬一瞬を生きるとき、神様と一緒に生きていることを味わっています。未来の方に目を向けると、神様の思いやその救いの計画を神様のみ言葉と出来ごとの中に探し求めながら、神様の心を果たすことができると思っています。イエス様に従いたい者たちは、いろんな人の心の中に、神様の姿を探していて、それを大切にします。最後にイエス様ご自身が言われているように「探しなさい!求めなさい!」その中に含まれているのは確かに良いこと、人の喜びと幸せ、それに失った小さくても大切なものもあります。小さなものでも全て神様のものですから、キリスト信者は神様の心を映しながら、良い牧者のように、母親のように、放蕩息子の父親のように、弱い者、罪人、それら全てを探し求めて大きな愛で包んでしまいます。
「ルカによる福音書 15・1-32」
 イエス様の時代、罪人は神様に嫌がられて、よい人から離れるべきものだと考えられていました。残念ながらこのような考え方はまだ現在でも残っています。それにしたがって、赦しは自分の罪を認めた人だけに与えるべきだと思われます。イエス様はそのような考えを乗り越えて、罪人は神様に大切にされるもので、罪人が神様に受け入れられ、神様のもとに戻る時の喜びを強調されています。赦しを与える方も赦しをいただく方も共に大いに喜んでいます。イエス様が例え話を通して、福音書の目的を見せています。赦す時に、赦された時により大きな愛の体験になります。その時に救いを見出しますから、喜び祝うことは当たり前ではないでしょうか。当福音書でイエス様が語られた例え話は二つのパターンにつながっています。一つ目は「失ったもの、探し求めたもの、大喜び」。二番目は「出発し、戻る、祝うこと」。これらのイエス様の例え話を読むと三つの慈しみの例え話、つまり失った羊を見つけた時の例え話、見失った銀貨を見つけた時の例え話、放蕩息子が帰った例え話に大きな喜びで結びついています。上記のイエス様の例え話が罪人に対する神様の心の有り様を語っています。さて、物語の大詰めは、神様と人間とが大きなものを分かち合った喜びです。この例え話を、憐れみの例え話と言いますが、イエス様は自分の心と同時に神様の心を開いて見せています。ルカ福音記者は信仰を持つに至る異邦人の為に福音書を書いていますから、新しい神様のイメージをそれらの人々の為に徐々に作ろうとしています。ギリシャ人にとって神様は不動であり、厳しい姿を見せながら、失敗した人(罪人)は適切に罰せられるものとして知られています。しかし、イエス様が教えられる神様の心は、相手の事情によって慈しみの心に変わるもので、失敗した人、失った人を非常に愛して、その人と出会って、その人が改心した場合、共に大いに喜んでいます。イエス様の例え話を朗読する人は、素晴らしい優しいキリスト教の神様の姿に導かれていきます。            
                                       モヨリ神父