カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 年間第四主日

2009年01月31日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

厳しい寒さはだれにとっても耐え難く、それを乗り越える希望が湧き出る時を待ちわびます。それは「節分」、立春の前日のことです。季節が変わる節目のこの日、寺院などで行われる儀式を節分会といいます。そして立春になるということは、寒さはまだ続いているものの、春の気が立つ意がこもっています。禅寺で「立春大吉」のお礼をいただき、それを門口などに貼る風習もあります。このように日本に陰暦による言葉があるのに似て、キリスト教の中にも「希望の種」という言葉があります。この希望の種は私たちの心の中に神様がおかれた思いであり、私たちの人生の中の神様の働きです。私たち自身も病人訪問の時、悩む人の話を聴いてあげる時、お年寄りと一緒にいる時、その人のために希望の種になれるのです。
使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)7・32-35
世にある多くのラブ・ストーリーは、何故かいつも私たちの注目と興味を得ています。でも、私たち自身にも長い、複雑なラブ・ストーリーがあります。それは神様と人類の間の愛の物語です。神様はいろんな時、いろんな方法で人類に花嫁のようにご自分の愛を示しました。しかし、人類の方は神様の愛に応えなかった時もありました。しかし、神様は絶え間なく忠実に、人類に、私たちに、ご自分の愛を示し続けられました。神様の愛は人間の愛の手本になり、家庭の愛も神様の愛を語るものす。人間間の愛はわずかなものですが、神様は広く豊かな愛を見せてくださいます。さて使徒パウロは、人間の愛を評価していなかったコリントの信徒たちに、人間の愛の尊さを語り、神様の心にある愛を映してくださいます。そして、イエス様に従った者たちは、結婚してもしなくても、自分の人生の中でより高い理想をめざすように努めれば、自分の家族の中や社会の中でも、神様に仕え、より大きな愛を示すことができ、大きな喜びを得ることになるのです。
マルコによる福音書 1・21-28
いつも第一朗読から打ち出されたテーマは、福音書にも含まれています。よく福音書にでてくることですが、イエス様の言葉や教えを聞いた人は非常に驚いたと書いてあります。驚くとは通常起こらない出来事を見ること、いきなり新しい気持ち、喜びや悲しみか発生することです。よくそのような経験をしているのは子供たちです。彼らはこの世に生まれてきてまだ日が浅く、なんでも新しい経験ですからよく驚きます。そして純粋な心で真理を探し求めます。さて、人間でありながら神様の力で悪霊を追い出し、神様の代わりに話す人、言いかえれば預言者の権威のある者の話を聞くと、だれでも驚くのではないでしょうか。イエス様が神様の力、み言葉の力で悪霊を人間の心から追い出しています。イスラエル人は、神様を見る人は生きていられないと信じていました。しかし、イエス様の言葉で追い出された悪霊が、自分の畏れを示してイエス様の正体を叫び続けています。又、神様より自分の弱さを認めていた悪霊は、イエス様の素晴らしさを公に認めています。だからそれを見た人々のように、私たちもどこででもだれにでも、悪霊にさえ勝ったイエス様のことを、大きな情熱をもって告げ知らせましょう。                                         
                                  モヨリ神父
《お知らせ》
†毎月、第1と第2の木曜日午前10時から信徒会館で、
 聖書による勉強会「使徒言行録の朗読と解説」があります。ご参加お待ちしています。


毎週の一言 B年 年間第三主日 (使徒パウロの回心の祭日)

2009年01月24日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様を愛される皆様へ

寒椿は冬椿ともいい、早咲きの椿のことで寒い冬の間に花が咲きます。熊本で最も知られている寒椿の名所は天草地方西海岸の椿公園ですが、身近に菊池や山鹿の周辺にも見られ、花の少ない季節に人々の目を楽しませてくれます。
さて、今年に限りカトリック典礼では、年間の第三日曜日に使徒パウロの回心の祝日が重なっています。そこで使徒パウロの年にあたり、使徒パウロの回心を優先してお祝いすることになりました。全世界のカトリック教会にとって、自分の真の姿を明確にする機会となります。何故使徒パウロは使徒と呼ばれるようになりましたか、キリストの使徒の主な役割は何でしょうか、キリストの教会はどうあるべきでしょうか、このような欠かせない質問に対して、キリスト教会に属している私たちは、使徒パウロの回心によって答えることが出来ます。当祝日の第一朗読は、使徒たちの宣教による使徒パウロの回心を活き活きと感じさせながら三回語られています。ちなみに聖書の英訳では、使徒パウロの回心の文章は英文学の最高に美しい参考文になっています。
使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)7・29-31
自分が生きるのではない、イエス様の中に生きるという回心によって、イエス様と一体となった使徒パウロは、この世に生きることよりも死が利益であることを思い、復活されたキリストと共にいるのは自分にとって真実のすべてであると述べています。人は生きている間、どうしても心は家族のものに、悲しみに、喜びに、この世の全てのものに捕らわれています。心の自由を求め続けた使徒パウロは、この世のすべては無であると知ることを私たちに勧めています。私たちに価値のあるのはキリストのみです。自分の人生を法律に基づいて生きようとした使徒パウロの心の中は、それらが完全に見えなくなったところに新たな素晴らしい光が見えるようになりました。それは神様の恵み、神様の救いだけです。そこから人間の自由と愛が生まれます。人間はいくら法律を守ろうとしても、いつも自分の弱さと欠点だけしか見えないようになります。使徒パウロはその光の中に普遍的な宇宙を見出し、法律の空しさを悟り、キリストの教会である生きたイエス様の姿を見、全世界に素晴らしい出会いの心を宣べ伝える生涯を生きました。
マルコによる福音書 16・15-18
マルコの福音書は、使徒パウロがローマで死刑になったのち書かれた福音書ですから、使徒パウロの書簡の心に特に忠実に沿って書かれた書物であることがよくわかります。マルコは身近に使徒パウロを知り、その情熱に戸惑いつつ感化され、使徒パウロの言葉や働きに完全に捕らわれていたことがあったと歴史からわかっています。そのようなところは当福音書の中によく顕れています。イエス様の使徒である資格は、イエス様の復活の証人であることから発生しています。そのような確信をもった使徒は、復活されたイエス様から全世界に派遣されています。その派遣の目標は人々に福音を宣べ伝えること、そして神様が人の心の中にすでに行われた奇跡を確認し、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けることです。このような使命を帯びて神様と共に働く人たちは、確実に神様に見守られ、支えられ、勇気と特別な力をも与えられて、神様のみ旨通りを神様と共に行うことになっています。
                                 モヨリ神父
【お知らせ】
毎月の第1と第2木曜日午前10時から信徒会館で、
聖書による勉強会「使徒言行録と解説」があります。ご参加お待ちしています。

毎週の一言 B年 年間第二主日

2009年01月17日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

雀は人家近くに棲んでいる小鳥です。一年中目にすることができますが、厳冬のころ餌が乏しくなると、人家を離れず緑側や台所にまで近寄ってくるので、いっそう親しみをおぼえます。別に「ふくら雀」というのは、寒気を防ぐため全身の羽毛を膨らませる様子からそうよばれます。この時こそ、空の鳥を養う神様、野山や里に花の布団を着せる神様のすがたは私たちにも身近に感じられ、私たちのこともどれほど大切にしてくださるのか実感することができます。また、小鳥のようにいつも、私たちの周囲におられる守護の天使にも大きな感謝の心が湧いてくると思います。アッシジの聖フランシスコはこのような小鳥に話しかけて、神様の美しさを純粋な心で語ってくださいました。日曜日の主の日にキリスト信者は神様の欠かせないみ言葉に養われています。そのみ言葉は私たちに、サムエルへのものと同じように、静かに絶えず呼びかけられており、私たちの為の神様の働きを語ってくださいます。
使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)6・13-20
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙で私たちの体の尊さについて話してくださいます。私たちの体は神様に創られた賜物であり、神様に属し神様の栄光を表すためにあります。私たちの体はキリストの体の一部であり、イエス様の力によって共に復活することを定められています。私たちをこのようにイエス様と結びつけるのは神様の霊です。私たちの体は神様に近づく用い方もあり、神様から離れる用い方もあります。聖霊の神殿である神様から頂いた体は、神様のものですから完璧な状態で返すようにしましょう。使徒パウロがおっしゃる「代価を払って買い取られた体」というのは罪の中で生まれてきた私たちの体は、イエス様の死によって高く買い取られたもので、とても大切で貴重な賜物なのだということです。だから自分の体を通して、いつでも神様の栄光を表わすために生きていきましょう。
ヨハネによる福音書 1・35-42
イエス様はご自分の公生活が始まる段階で、自分の弟子たちを集めようとしています。この福音書の課題は、どのようにして私たちがイエス様に呼びかけられているのか、またはどのようにイエス様に招かれていて、どのように従わなければならないのかということです。洗礼者ヨハネからの神の子羊としてのイエス様の紹介は、死んで復活されたメシアであることが示されています。そして、その紹介によって二人の弟子が神の子羊に従うという表現は、一生自分の人生を神様に捧げるということです。注目すべきなのは、従った弟子達へのイエス様の質問です。「何を求めているのか」弟子たちと同じようにイエス様に従う私たちもこのように直接に問われています。さて、弟子の心になって答えてみると、イエス様は私たちの先生です。つまり、私たちより先に生きる方です。そして、その時「来なさい、そうすればわかる」と言われてイエス様と人生を共にすることによって、イエス様の心を理解し、イエス様がメシアであることがわかります。私たちも使徒ペトロと同じように、イエス様との出会いが人生の深い経験になることで、イエス様がメシアであること宣言します。   モヨリ神父

【お知らせ】
毎月第1と第2の木曜日、午前10時から信徒会館で、聖書による勉強会「使徒言行録と解説」があります。
今月、21日(水)日本キリスト教団山鹿教会に於、カトリックとプロテスタント4教会の交流会があります。皆さんのご参加をお待ちいたします。

毎週の一言 B年 主の洗礼の主日 

2009年01月10日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

正月、神にそなえるため丸く平らに作った大小二個の重ね餅を、古い時代の鏡は円形であったことから「鏡餅」と言います。又、正月11日ごろにこれを下げて、家庭で雑煮や汁粉にして食べる習慣を「割る」「切る」などの縁起の悪い言葉をさけて「鏡開き」と言います。
教会の典礼では、降誕節とその中のイエス様の公現を締めくくる日曜日を迎えることになりました。それは「主の洗礼」です。この時、イエス様に従うようになった信者たちは自分の洗礼とその時の感動を思い起こします。その時から、私たちの心の中に贈り物のように聖霊が入り込んで教えるようになったことはたくさんありました。私たちは神の子となり、私たちの人生は神様の愛の証しになっているのです。
使徒ヨハネの手紙5・1-9
親子の関係、特に父親と子供の関係はいろんな文化や時代の詩の中で例えられていますが、聖書のなかでは、特別に神様と人類との関係が普遍的な親子(父と子)の物語として語られるようになりました。使徒ヨハネは私たちのことも親子のつながりとして感動を語ってくださいます。イエス様に従う者たちは神様から生まれたもので、神様の愛に特別に包まれています。その愛によって、親子となった関係の中で、それを大切にすれば、私たちの生き方はその愛の答えとなります。神様の愛に応えるためにまず神様のみ旨、神様の希望、(掟)を守ることです。神様の掟を守るなど難しいことと思われるかもしれませんが、そうではありません。愛する人の希望を受け入れることは、人間関係の中でも一番やさしいことではありませんか。同じように神様の希望を守ることは、軽い重荷ではないでしょうか。私たちが与えられた人生の中で、神秘的な出来事を気付くことはたくさんありました。それは神様の愛が私たちの中に「霊」として止まり、気付かせてくれるからです。この世に神様の心を語るために来られたイエス様は、真理を語り、自分の死と復活により私たちに神様の愛を身近に証しました。
マルコによる福音 2・7-11
洗礼によって私たちはイエス様と一つになりました。そのとき天から下った言葉は今日私たちに直接向けられています。「あなたは私の愛する子・・・」と言うこの言葉によって、私たちは父である神様の子なのです。それは私たちの理性で知ることではなく、大きな光で天から幕を取り除いた聖霊から知らされた真実であり、私たちにとって素晴らしい恵みとなっています。そして「・・・私の心に適うもの」という言葉は、イエス様の人生、死と復活に当てはまっていますが、洗礼によって聖霊で満たされた私たちにも当てはまっています。洗礼(水と霊)によってイエス様と一体となった者、つまりキリスト信者は、神様の心を果たすために生きています。人生のその一瞬一瞬を神様から頂いたものと思い、それを大切に感謝を現わしながら、神様の愛の証となるのです。そしてイエス様とともに同じ運命に向って神様のふところに戻るのです。このようにイエス様に従った者たちは、この世の価値観に勝っています。                       モヨリ神父

*【注目】
毎月の第1と第2の木曜日、午前10時から信徒会館で、
聖書による勉強会「使徒言行録の朗読と解説」があります。

毎週の一言 B年 主の公現の主日

2009年01月03日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様を愛される皆様へ

初詣とは、年の初めに産土神(うぶすなかみ・氏神)や恵方(えほう)に当たる神社仏閣に参詣することで、寺社によっては除夜詣での人が除夜の鐘の鳴り終わるのを境内で待ち、そのままで初詣を済ませているのをみることがあります。
キリスト信者も神様のみ顔の光に照らされて、世界の平和を願って新年の歩みが始まります。特別にこの時、欠かせない真実を思い起こすべきだと思います。それはみ摂理です。このような言葉は神様の心を現わし、人類のための神様の慈しみを示しています。さてこの年の始まりに、私たちの夢、計画、望みなどを神様のみ摂理にゆだねるようにしましょう。空の鳥を養う神様、田畑の作物を豊かに実らせる神様が、今年も私たちの心の喜びや幸せを求めて導いてくださいます。今日、主の公現の主日を迎えます。イエス様は、全世界の人々に又、神様から遠くいる人々に救いの光として自分が生まれたことを示します。
使徒パウロのエフェソの教会への手紙3・2-6
エフェソの信徒への手紙は、使徒パウロのまとまった教えを幅広く紹介しながらイエス様と教会との関係について語っています。教会は建物ですが、イエス様の体、イエス様の花嫁とも言われる象徴ですから、キリスト信者になって教会に属す者たちは、それにふさわしい生活を送らなければなりません。当個所で使徒パウロは、自分の使命を強調してエフェソの信徒たちに神様のみ恵みの働きについて語っています。神様の心に秘められた計画が啓示によって明らかにされました。そしてその計画、つまり人類を救う方法はイエス様を通して聖霊の働きで知られました。イスラエル人であれ異邦人であれ、聖霊の力で神様の愛で満ちた計画を知るようになり、その救いの計画の対象になりました。つまり、イエス様によって神様のご計画を知るようになった人は皆一体となり、神様が約束された報いの対象になっています。
マタイによる福音 2・1-12
マタイ福音記者がイエス様の誕生の物語を語りつづけています。どのような心構えで、あるいはどの観点からそれを受け取れば良いのかが大切なポイントだと思います。誕生の物語にはヘロデ王が登場し、そしてその関連の出来事もイエス様の誕生とそれに対する反応が歴史的なところですが、それだけではなく、メシアとしてのイエス様の誕生がどのように預言を満たしていたかが明らかにされています。そして最後にそれを聞く人の心がいつも問われる福音書は、自分の人生と心を巻き込んだ答えを求めています。
誕生の物語の心は、イエス様が預言者の言葉によって、この世の小さな町に生まれられ、救いを待ち望んだ人類の希望が全て満たされたとされたことです。そして福音書の中に出てくる星や東方からやってきた占星術の学者たちの贈り物も象徴的です。その中に全人類の希望が含まれています。もちろん私たちの個人的な希望も、それぞれを全て満たされるのは、イエス様の誕生を通してこの世に現れた神様の愛にほかなりません。
                
                              モヨリ神父