カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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B年 四旬節第一主日

2018年02月12日 | 神父様からメッセージ(B年)
B年 四旬節第一主日 2018・2・18

 灰の水曜日の典礼で四旬節に踏み出しました。灰の中で火が燃えていると思い、より深い復活祭の喜びを味わいたい私たちの四旬節の過ごし方は大きな課題になっています。イエス様が勧めてくださるのは「自分をして、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」それは日常の奉仕、祈り、小さな犠牲によって、イエス様の足跡を踏みながら、周囲にいる人達の心を思いやり、神の国を作ることです。キリスト信者の労苦は復活祭の光で照らされて軽くなり負いやすくなります。
「使徒ペトロの手紙 3・18~22」
 使徒ペトロの手紙は、イエス様の霊を通して神様に近づくように勧めています。人間は弱い者、間違いやすい者ですから、何度も神様から離れてしまいました。しかし、イエス様の死と復活によって神様のところに立ち戻ることが出来ました。使徒ペトロはこのような神秘的な出来事をノアの物語の人類の救いに例えて明確にします。洗礼の本格的な準備に入ろうしている方々にも参考になるはずです。洪水によって、罪に落ちた人々は滅びてしまいましたが、ノアは船で水の上に逃れ救われました、そして神様とのつながりを作り直しました。さて、洗礼を受ける者も同じように神様の霊から救われています。洗礼の時にかけられる聖水の徴によって私たちの罪は清められて、ノアと同じように神様と新たな深いつながりを作ることになっています。それはイエス様と一緒に復活することです。
 四旬節に入って、キリスト信者は心の回心を求めて祈り、節制し、神の愛の技に導かれて復活祭を迎えようとしています。当マルコの福音書は二つのテーマに分かれています。イエス様が受けた誘惑と、イエス様の宣教活動です。基本的にイエス様が受けた誘惑のメッセージは、人は悪に追われていても神の言葉によって生きるということです。新しい人生の始まりにどのように心の回心を得られるのか、神は導かれながら最高の愛の技を教えてくださいます。それは赦しのことです。神の言葉によってイエス様と同じように人が悪に打ち勝って神の国の素晴らしさを見出すことが出来ます。だから神の言葉はキリスト信者にとって日常の食物になり、心の回心への道になります。確かに私たちもイエス様と同じように日常生活の中で野獣に囲まれています、しかしイエス様と一体となれば神の言葉だけに生き、天使たちは私たちに仕えてくれるのです。さて、神の言葉に目を覚まされ新しい時代が始まったと気付いたとき、神の国はもうすでに私たちの目の前です。なぜなら神の言葉は私たちにとって心の光であり、福をもたらす音だからです。このような言葉に励まされて私たちは砂漠のようだった心の回新を求めるのです。
                            モヨリ神父

B年 年間第6主日

2018年02月06日 | お知らせ


 この時期になると詩編・103編15節を思い出します。「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風が通り過ぎると跡もなく・・・」 キリスト信者の思いとしては、イエス様と教会のことを人々に告げ知らせ、それが世に広がることは重要な課題になっています。だから、宣伝や、イベントなどの方に走ることが教会のことをより多くの人に知らせることのように思いがちです。しかし、実際には教会の心はそのようには広がらないと思います。神の国は不思議な力で広がります。イエス様自身が自らのみ言葉を、人の心に神秘的に届けます。その言葉は権威と力のある言葉ですから、小さな種であっても大きな実りをもたらします。このような真実に対して、キリスト信者の態度も少し調節すべきではないでしょうか。
「使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)10・31~11・1.」
 使徒パウロは、回心によって大きな光で照らされ、新たな目で人の人生、人の生き方を見、その中に神様の栄光を読み取っています。どんな人間でも、人生の中で修業し苦労して神様の心を得るのではありません。イスラエル人であれ、異邦人であれ、神様の心に適う人生を送れば、すでに心の中で、神様が成し遂げられた技を見ることができます。使徒パウロは自分の人生の熱意の中で一つのことだけを探し求めました。自分の利益ではなく、皆の喜びです。実際に自分の人生を捧げて、人の喜び、あるいは人の救いを探し求めたのはイエス様だけです。だから使徒パウロは、熱い言葉を通してイエス様の生き方に倣うよう勧めています。そうすれば自らの人生を通して、神様の栄光を現わし、人類の救いや喜びをも求めることができます。
「マルコによる福音書 1・40-45」
 当個所でイエス様が成し遂げた徴を深く理解するためにはまず、皮膚病について当時の考え方を知ることが大切です。当時皮膚病を患っている人は、生きていても社会に対し宗教に対し、死んだような者として見られていました。命であるイエス様は、死体のような人の中に新たな命を吹き込んでいます。イエス様が力のある言葉で「清くなれ」と言われ、信じ難い素晴らしい場面を皮膚病の人の目の前に開きました。そして、神の命に取り戻された人に、司祭のところに行くように勧めました。その時、神の命に生かされた人は、社会にも宗教の世界にも取り戻されて生かされています。イエス様の命に生かされた病人は、自分の本来の心身の素晴らしさを再発見し、その中に神様の言葉によってあふれてきた喜びを味わい、素晴らしい経験の証しとして、自らの身に起きた事を皆に告げ知らせる者となりました。そして、イエス様が成し遂げた徴のことは、新しい葡萄酒のように四方にあふれ、皆に知らされて広がりました。 
                                 モヨリ神父