カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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B年 第14主日 

2015年06月30日 | 神父様からメッセージ(B年)
教会のお聖堂に入ると、飾りが少なく目立つのは司祭の緑の衣服だけです。ローマカトリック教会の典礼から選ばれた色はいくつかの意味が含まれていますし、私たちもこの色の意味によって未来に目を向けるように勧められています。典礼では緑の色が年間の季節を示しています。今は特別な典礼の時期ではなく、イエス様の神秘を黙想する時、「希望」の中で生きる季節を示しています。キリスト信者はどのような希望をもって生きるのでしょうか。まずイエス様との再会を望んで生き、死後も永遠に普遍的な喜びの中で生きます。深い愛情に支えられた希望をもったキリスト信者は、神様との出会いを求め望んでいます。そしてキリスト信者に欠かせない希望はもう一つあります。この世への神の国の到来です。その国は、キリスト信者の心に常に描かれていたものですから、どんな事より期待される出来事です。
「マルコ福音書6・1-6」
 ここではイエス様にとって悲しい出来事が語られています。イエス様がご自分の身内、親戚から退けられています。けれどもこのような悲しみはイエス様がなさった奇跡、語られた知恵に対する一般の人の驚きによって慰められています。このような出来事はイエス様の弟子の運命を暗示しています。旧約聖書の預言者のようにイエス様も弟子たちも、神様の使いとして神様の言葉を語られても、何度も人に拒否される目に遭いました。よく考えてみると、どんなキリスト信者でもイエス様の心を現すときに退けられることがあります。この時一番悲しいのは、自分の友達や親しいものから退けられることです。ナザレの集会堂はイエス様が生まれた故郷の中心部にあり、イエス様が特別に好まれた場所で、よく訪れたところでした。そこでイエス様が神様の心を写しながら教えていました。そこで地元の人々はイエス様のことをよく知りながら、イエス様を知らないと言い、イエス様の気が違っているのだと思ったのです。イエス様の知恵と奇跡についても悪魔を通してなしとげられたものと疑っていました。イエス様を拒否した者たちは、同時に神様とそのメシアを拒否したのです。狭いナザレの人々にとってイエス様の身分は明らかでしたから、メシアであることはありえないことと思いました。しかしイエス様の心は限りなく広く、神様の心を語る使命を示していました。当時のナザレの人々は、神様が身近に、しかもとても素朴な姿で来られたことに気付かなかったのです。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。」人の不信心を驚き、孤独であること。それは預言者とまったく同じ運命に従われる決意を示しています。イエス様は人間の賛同を求めず、ここでは神様のみ胸だけを果たすようにお示しになりました。             
                                    モヨリ神父

B年 年間第13主日

2015年06月24日 | 神父様からメッセージ(B年)
  さて、梅雨の時期は日々の蒸し暑さに体力が衰えがちです、けれども心の喜びはそうではありません。神様はいつも私たちの人生の流れを飾ってくださいます。6月21日から司祭の年が始まりました。司祭職を高める時になっています。今年は皆さんの司祭に対する憐みと慈しみの心を高める一年であればと願います。神様は人類との間に、人間として司祭を選び道具のように用いられご自分の声、ご自分の体を見せたのです。その謙虚な存在を通して、神様はご自分の限りない愛を示しています。それによって司祭に対する憐みの目をもった人だけが神様の姿を見ることができ、神様の声が聞こえるようになります。そして6月28日に使徒パウロの年を終ることになりました。使徒パウロは私たちの理想として残りますが、私たちの弱さを実感しながら、それを神様の手に委ねることにしましょう、神様はマリア様のように弱いものによって偉大なことをなさいます。
「マルコ 5・21-43」
 この長い福音書の中に、より素晴らしいイエス様の言葉と行いを見つめましょう。「しるし」つまり「奇跡」を通してイエス様がご自分の心を見せてくださいます。旧約聖書では命は神様からの贈り物です。それに従って小さな病でも、命の衰えは死の闇の世界の広がりとなっています。命のない死は「汚れ」と呼ばれています。福音書の中に出てくる、患いで出血の止まらない女は命を失いそうでした、(出血とは命を失うこと)だから病人は汚れたものと言われています。同じようにヤイロの娘は死んで命を失いましたが、イエス様が死に勝って命を取り戻すことによって、悪に対して死に対してご自分の勝利を示しています。神様は生きるものの神であり、神様に反するものだけが死の闇を求めています。しかしイエス様は死より、汚れより強いものです。またモーセの法律によると、イエス様が出会った女性たちは汚れたものに過ぎなかったので、イエス様も彼らに係わって汚れたものになったはずでした。しかし命であるイエス様は彼らに触れることによって命を与えました。命を探し求めるものはイエス様に触れようとすればその命を得られます。出血の止まらない患いの女や、ヤイロの娘も命を失うところでしたが、命を深く求めていましたので、イエス様が神様のあふれ出る命を彼女らの心に注がれます。この「しるし」によって、イエス様は奇跡そのものよりもご自分の正体を明らかにします。その「しるし」によって私たちはイエス様が誰であるかを身近に理解できます。神様に創造された万物を改善するのではなく、しるしによって天国はこの世に入り込み、永遠の命はこの世の限られた時間の中に入りました。神の国は人間の間にやどるようになりました。死の世界にしばられた人間は、命であるイエス様によって解放されたのです。今日もイエス様の力強い言葉に目を覚ますように勧められています、そうすることによって死は恐れることではなく安らかな眠りとなります、そしてイエス様が手を置くことによって新たな命が与えられます。私たちの洗礼の時に同じことが起ったのではないでしょうか。病気の時もそれがイエス様に触れる機会になれば、その時に私たちの目がより大きな光に開かれて命であるイエス様を見、病気を通してより素晴らしい喜びにまでに導かれることも経験します。病気が冶るのは、病気が消えるのではなく、病気を通してより素晴らしい真実をみることなのです。
                                   
                              モヨリ神父 

B年 年間第12主日

2015年06月16日 | 神父様からメッセージ(B年)
6月21日に父の日を迎えます。通常通り、6月の第3主日になっています。1940年、J.B.ドット夫人が男女同権の見地から、母の日に対して提唱し、その後アメリカの年中行事となり、父に感謝する日として定められたのが始めとされます。このような祝いが優しく美しく私たちの日曜日の祭りや感謝の祭儀を飾りながら、私たちに父である神様の姿を思い起こさせます。私たちを造られた、私たちの心をよくご存知のお父さんは頼む前に私たちに必要なことはすでに知っておられますから、私たちの善、私たちの喜びをいつも求めてくださいます。自分の子供を忘れている親はいても御父である神様はみ摂理であり、私たちに必要なことを常に準備してくださいます。人間である私たちはお父さんである神様を見たことはありませんが、イエス様が私たちに鏡のように神様の心を映して私たちにその愛、その憐れみ、その赦しを反射するように見せてくださいます。今日この家庭的なお祝い(父の日)を楽しみながら、再び天におられる私たちの親しい父である神様の姿を、イエス様の言葉と行いによって仰ぎみましょう。
「マルコの福音書 4・35-41」
 人間は思いの中で神様の存在を見失うと、心に恐怖と失望がわいてきます。しかし信仰をもった人は神様の姿が見えなくても、神様に対する自分の思いを信頼に変えて安心します。当個所は凪になった湖の嵐の奇跡と言われていますが、実はこのエピソードの内容はより深く豊かです。イエス様が奇跡を行う人であるだけではなくそれよりも、宇宙万物の創造の時の神様と同じように、自分の言葉の力によって大自然に命令をします。それを見た弟子たちは、イエス様の不思議な動作に驚きながら、イエス様が一体どういう方であるか自らの心の中で深く問いかけています。弟子たちにとって、イエス様が行われたことは神様に等しい行いとみられ、弟子たちは驚いただけではなく、信仰の深いところまで問われて、大自然に命令するイエス様の正体について考えこんでいます。「この方は一体どなたなのだろうか。」当福音書のながれでは、弟子たちの発言によりイエス様が自分達の知っている方として見えていますが「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか。」同時に弟子たちにはとても不思議な人物とみられています。「いったいこの方はどなたのだろう。風や湖でさえも従うではないか。」けれども信仰の中で謙虚な心でイエス様を知ることが出来ると、福音書の言葉によって明らかにされています。イエス様が弟子たちと乗っている船は教会(共同体)を象徴しています。イエス様の眠りも象徴的な意味につながっています。場合によっては神様の沈黙、またはイエス様のメッセージに対する弟子の無関心です。だからイエス様は弟子たちを叱り「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか。」とおっしゃつています。しかし、イエス様がいつも弟子たちと共におられたように、より強い力で、いろんな悪質な力から私たちをいつでも救ってくださいます。
                               
                               モヨリ神父


B年 年間第11主日

2015年06月09日 | 神父様からメッセージ(B年)


 「カトリック教会の教え」から
「カトリックの典礼」
 神様と人間とが一緒に生きるようになって、典礼はイエス様に従う者にとって、信仰生活の欠かせない恵みの場となっています。カトリック典礼には人間が行動を通してイエス様に一所懸命に願って、神様にとりなしていただくだけではなく、教会で会衆と共に典礼を行うと神様が主役として人間と一緒になって、ご自分の赤心を表しながら人間の幸せと喜びを求めて導いてくださいます。 典礼は言葉と所作で歴史を渡って、民衆の習慣と文化に対話しながら、定められています。典礼に特別に注目すれば、神様によって人間がより高い世界に吸い込まれています。そこで呼びかけられる聖霊は、典礼を行うところに降り、その場で言葉に特別な力を与えて、行動により大きな効果の恵みをもたらして、語られることを実現します。二千年の歴史を渡って作りあげられたカトリック教会の典礼の中で新たな目で、つまり神様の目で世界に対する神様の愛と慈しみの歴史を見ることができます。誰でもそれぞれの自分の人生の歴史を、素晴らしい刺繍のように、神様自身の愛の約束の計画を見ることができます。全世界で同時に、どこででもまったく同じようにカトリック教会の典礼を行う時に、神様が特別に人間の人生に入り込んで、始めから成し遂げられたように人間を救われた時と場所を記念します。つまりイエス様自身がされたこととまったく同じように、典礼の中で今でも聖霊の働きによって神様が人間の生活の中において、イエス様が教えられたみ言葉の恵みと喜びで人の人生を満たしてくださっています。
                                       モヨリ神父

B年 キリストの聖体の祝日

2015年06月03日 | 神父様からメッセージ(B年)
このような季節の推移の中、カトリックの典礼は私たちにとって欠かせない祝日を迎えます。それは「キリストの聖体」です。キリストの聖体が何であるかをきちんと述べれば紙数が足りませんが、簡単に言えばキリストの聖体とは、私たちキリスト信者にとって麦で例えられている欠かせない食べ物です。イエス様が最後の晩餐の時にパンを手にとって「これは私の体です。」と言われました。その言葉によって今でも毎日その出来事を記念する私たちにとって、祭壇に置かれたパンはイエス様ご自身です。イエス様の愛、イエス様の命です。その聖なる体をいただく私たちに、まずそのパンの作り方はキリスト信者の人生を例え、人生の支えと食べ物であり最高の愛のしるしになっています。「それを食べる人は永遠に生きる。」
さて、菊池教会のキリスト信者私たちは、当主日、初めてキリストの体をいただく3人の女の子を祝います。その姿を見て自分たちの初聖体を思い起こすことでしょう。その時の感動、その時の喜び・・・、同時に捧げられた麦は、祭壇の上に輝いているキリストの体がどのように作られてあるかを教えてくれます。そのキリストの体は素朴なパンであり丸い形にされ、それは日本の思想による神様の普遍的な丸い心を示してくださいます。
「マルコ14・12-26」
 今日のマルコの福音書の個所は二つの部分に分けられています。イエス様と弟子たちの最後の晩餐の準備の物語とイエス様がご自分の体を記念として残されたパンの意味を示すところです。このような課題が、今日の福音書の箇所で並ぶことによって、キリストの聖体は神様と人類の間の愛の約束と見られています。最後の晩餐の準備は神様との愛の約束の準備になり、最後の晩餐の時に渡されたパンは聖体であり、イエス様の復活によって皆と神様との愛の約束になっています。キリストの聖体はイエス様自身であり、私たちと神様の間の欠かせない結びであり、永遠の愛の約束です。最後の晩餐の時イエス様の言葉で、十字架上の出来事をどのように解釈すればよいのかを教えてくださいました。イエス様の十字架上での死は愛の約束の生贄でした。イエス様の時代には、二人の間に結びの約束を決める時には、まずお互い共に納得した文章を読みます、次に納得し同意した二人が最終的な約束として一緒に生贄を捧げました。その後、約束を決めた二人の間に深い結びを定めてそれを祝うために、共に晩餐をいただくことになっていました。カトリックの典礼から、キリストの聖体は愛の約束のしるしとして紹介されています。ですから、言葉の意味からキリストの聖体は祭壇の上に置かれたパンというだけではなく、神様と一致したキリスト信者のことも現わしています。神様と人間の間の愛の約束の中で、上記のような神秘的な事実をみつめれば、神様と人間との間に食事の交わりをみることになります。
                            モヨリ神父