カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

「今週の公教要理の錠剤」1

2011年11月24日 | メッセージ(その他)
B年 待降節第一主日               2011・11・27
今この年になって、信仰の試練を沢山乗り越えての25年の日本での経験に基づき、もう一度、日曜日の福音書の光に照らされて「カトリック教会の教え」を読むことにしました。その目的は私と一緒にそれを読む人たちの為に、また自分の人生の為にも新しい光、新しい喜び、新しい希望を得るためです。この目的以外は何もありません。今まで、A年・B年・C年の日曜日の福音書を、一緒に読んでくださった方々に「イエス様のことを愛しておられた方々に」感謝しながら、わたしの地味な言葉によって、公共要理を完全な人ではなく、沢山の欠点の中にある人達と共に読みながら、日常生活の為に小さな助けを得ることが出来れば、私はそれが一番幸いなことだと思っています。

人間、人生とは!
人間と人生と言っても、すぐにはピンとこない時はあると思います。自分自身のこと、自分の年、自分の家庭と仕事などのより具体的なこと、それらについてお考えになったらわかりやすいと思います。ではまず、自分自身のことを考えてみましょう。自分のことや自分が失敗したことに対して罪悪感を持ったり、自分のことを評価できず、衰えた気分で人生を送る場合があると思います。まず、人一人がこの世に生まれたのは、だれかが私の事を認めて、私が生きていてほしいと私のことを希望された人がいて、だから愛の中から生まれてきたと言えます。その愛は神様ご自身です。その神様の愛で生かされている私たちは尊い者なのです。神の子だからです。神様の手から生まれて来た人間は、神様に属しています。神様からいただいた命を大切にして、いつか神様に返すように召されています。私達の手に神様からの貴重な贈り物が置かれています。それは私たちの人生です。それは親を通して神様がくださったもので、神様の手のひら一杯の愛です。それを生かして生き、いつか大きな喜びの中で神様にお返しすることになります。
                                 モヨリ神父

毎週の一言 A年 後書き。

2011年11月17日 | 神父様からメッセージ(A年)
後書き
「毎週の一言」をブログにする夢を考えた時に、確かに心の戦いがありました。自分の共同体の為に何か、一つの思いがしつこく私の心の中に浮かんでありました。どのようにして毎週の神様のみ言葉を優しく、より分かりやすい人に伝えるのを出来るのかと離れない思いでした。特別に内の教会の信者さん達、またこの地域のものたちにも、とっても美しい、感動される毎週のカトリック典礼から勧められたみ言葉をどのようにして伝えられのか、わたしの大きな夢と希望でした。さて「毎週の一言」のプロジェクトを考えながらみ言葉を山鹿、菊池地方の日本人に伝えるために一番いい方、伝えやすい形を考えました。まず、題名として、強制的な題名ではなくお誘いのような言葉を選びました。「一言」という表現は私にとって、静かに優しく忙しい人の耳に吹き込んだ言葉として思いました。そしてもちろんその言葉がカトリックの典礼にそったカレンダでしたからその一言をそのカレンダにつながりました。その「一言」を向かわせたのはキリスト信者ばかりではなく、「イエス様のことを愛される皆さんです」。そのような者たちは言いかえれば、心のよい人、神様の言葉と思いを受け入れた人、神様が好まれる者たちで幸いな人です。そして毎週にブログとプリントされた文章の構成はいくつの部分に作られていました。頭に置かれたのは場合によって内のふるさとの写真と一緒に菊池市の書道会で「紫光会」から提供された綺麗な達筆な字で書かれた福音書の歌から毎週の日曜日とれたみ言葉でした。次に聖フランシスコ サレシオのすすめー生活のスパイス365日(ドン・ボスコ社1974)から毎週に適切な言葉を選んで当時の文章の入門として置きました。次に「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部 季節の現す言葉を選んで出来るだけそれをキリスト教の思いとお勧めにつながるようにしました。その後、場合によってカトリックの公共要理(カテキスム)の中から、あるいわ使徒パウロの手紙の中からキリスト信者を指導することばを選んでいて、場合によってキリスト教を簡単に理解しやすい言葉も付けくわえました。最後に私の文章の中心であった当日の日曜日のカトリックの典礼の福音書の解説とそのわかりやすい説明を加えました。毎回の日曜日の福音書とその解説や説明も日本語にするだけではなく、私が今まで理解が出来た日本の思いと習慣に本ついて、翻訳くしたのは、[Renato L.De Zan 、Roberto Laurita 「La parola per la Chiesa。 」EDB 2007] 。当本ついて連続三年間(A-B-C)毎週の日曜日の福音書のコメントを参考にして自分の文章を書きました。そして黙って行けないことですが毎週三年間も続けていつも忠実にわたしの文章を見てもらって、直してくださったのは弱い体、不調の中で中川道代さんでした。彼女に大きな感謝を持ちながら心からお礼もうしあげます。それにまた、福音書のより豊かな解説のために手伝ってくださったのはイタリアにおられるP.Viola Giovanniです。P.Violaとの豊かな対話の中で沢山の福音書のポイントを気付かせて、お陰様で解説は時によってとっても綺麗な、暖かい文章になりました。P.Violaにも心から感謝しています。
毎週忍耐を持って当文章を読む人にも感謝を持って、喜びと豊かな思い、心の欠かさない平和を味わうように心から申し上げます。モヨリ神父


毎週の一言 A年 王であるキリストの主日

2011年11月17日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛する皆様、

「神に目を注ぎ、自分を見つめなさい。
必ず善良さにあふれる神とみじめさに置かれている自分を見るでしょう」
                                聖フランシスコ・サレシオ
イエス様のことを愛される皆様へ、
 あたたかい10月から一転、今月は急に寒い日が多くなりました。先週末からの寒さで、慌ててコートを出した方が多かったのではないでしょうか。今週後半はいったん寒さが緩み、小春日和となりましたがしかし、来週に入ると新たな寒気が流れ込み再び寒くなります。このごろ落ちつつある葉、すでに落ちた葉、ともに「おちば」と言います。その落ちる様子、音、散り敷く状態に風情があり、無常を感じさせるものがあって、多くの人が心を寄せています。それに従って、神様との出会いをいつも求めるキリスト信者に、この世や寿命の短さを思い起こさせます。しかし、同時に神様のみ摂理には、葉が落ちても大切にされる神様の思いの計画があります。王である主の日を迎えるキリスト信者は命を讃える日を祝い、共同体の宴会を催す日でもあり、神様は喜びであふれる豊かな時の準備をされています。その中に勤労の感謝の祭日にもあたって、私たちの労働の実りは自分のものになるだけではなく、貧しい人と分かち合う神様の贈り物です。「使徒パウロのコリントの教会への手紙(-)15・20-28」で、使徒パウロはいろんな話題が全てキリストから発進して、キリストに戻ると述べています。言い換えれば使徒パウロにとってイエス・キリストはすべての王であるのです。イエス様は私たち一人一人の永遠の喜びを求めながら、皆が神様の心によって生きるように願っておられます。使徒パウロによるとイエス様が来られたのは死者が命を得るためです。使徒パウロが思う死者とは肉体が死んだ者だけではなく、罪によって神様から離れた者、神様のことを信じない者も死者なのです。しかし復活されて、死に打ち勝ったイエス様は上記のような死者に命を取り戻すためにこの世に来られました。皆を神様の方に取り戻すためなのです。宇宙万物と人類が神様に戻るのはイエス様の目標であり、神様の本願です。だから神様の懐に戻るのは確かに使徒パウロが述べたように順があります。言い換えれば行きやすい順番があります。最初にご自分の命を捧げられたイエス様です、次はイエス様に従った者たち、そしてその他の者全て、最後にどんなことでも神様のところにもどります。このようなことが宇宙万物の王であるイエス・キリストの大きな望みと目標です。そしてイエス様が人間を悩ませる敵も、その中の死にも打勝ち、皆をもともとあったように神様のふところにすべて永久に取り戻したいのです.
マタイによる福音書 25・31-46
 ローマのバチカンにあるシスティーナ礼拝堂の天井には、ミケランジェロにより、マタイによって語られる最後の審判が力強く見事に描かれています。(ちなみに、日本の芸術家によって修復された大作でもある)けれどもマタイが福音書に書かれる物語は、あくまでもたとえ話のような話ですから、その中に解説のようなフレームの部分を見分けて、大切なポイントだけを見出さなければなりません。だから、いつもたとえ話を分析するときのように、イメージから少し離れて、メッセージの中身を深めるようにしましょう。大事なことはその中にいくつかあると思いますが、絶対欠かせないのは私たちのすぐそばにいるのはイエス様ご自身であり、その姿を示してくださるのです。そして周囲の困っている者たち、苦しんでいる人に何かしてあげた時、イエス様ご自身にしたことになります。実際にこの思いの中で、そうすることによって人間は最後の喜びを得られるのです。                 モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用。

毎週の一言 A年 年間第三十三主日

2011年11月09日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ,
「自分の好み通り、また思い通りしたいなら、何をしても徳にもならないし、大きな価値もありません。」
                                   聖フランシスコ・サレシオ

「七五三」は11月15日に、三歳、五歳の男児、三歳、七歳の女児を祝う行事です。熊本では、男児女児とも三歳の髪置、四歳の紐解に当たる子が、親に付き添われ着飾って神社に参拝し、お世話になった方々を招き小宴を張ったりします。今まで、息災に育ってくれたことへの感謝と、この後の健やかな成長を祈る、思いのこもった晴れやかな祝いごとです。この時こそ、神様は私たちの命であることを思い起こしましょう。私たちは神様の命、人間の命、自然の命を区別しがちですが、実際にすべての命の創造をされて支えてくださるのは神様だけです。日曜日のミサは、感謝の祭儀でありながら、各一瞬の欠かせない命に対して神様に感謝の心を捧げるべきです。この年間の33主日で典礼による一年のしめくくりを迎えることになりました。それに従って使徒パウロと福音書の内容も、この世と生命の創造としめくくりの時について話してくださいます。命に対する神様に対する大きな感謝の心を持ちながら、神様のみ言葉のメッセージに耳と心を傾けたいと思います。使徒パウロの「テサロニケの教会への手紙(-) 5・1-6」この世の終末について誤った考えに陥って、イエス様の到来を身近に思い起こすことになって悩んだテサロニケの信徒たちに、使徒パウロは励ましの言葉を書きながら、死の時、そしてその後についての考え方を訂正することにします。使徒パウロは世の終わりは「その時とその時期」と呼んでいますが、実はその表現の中に使徒パウロが思いを込めていることは、それぞれの個人の死、あるいはそれぞれの心の中での神様との出会いのことです。このような出来事は未来を知らない私たちにとって、予想の出来ない時です。だから使徒パウロは、その突然の、予想できない時を盗人がくる時のようにたとえています。それに従って使徒パウロは、その時をふさわしい心で迎えるために目を覚ましているように、またいつでも身を慎んで心の準備をしながら生きるように心のこもった言葉で勧めています。使徒パウロが言うようにイエス様に従った者は光の子で、明るいところで生きる者ですから、「その時、その時期」つまり突然、どんな形で神様に出会うことになっても恐れることはありません。
マタイによる福音書 25・14―30
典礼の今年の最後の日曜日に向けて、イエス様はとても綺麗なたとえ話を語ってくださいます。たとえ話を語るイエス様が求めているのは、その聞き手との出会いです。その心を開き、その目を覚めさせるのです。この予言的なたとえによる、旅行に出て再び戻ってくる主人はイエス様ご自身です。さて、再びこの世にこられるイエス様との新たな出会いを求める私たちは、その出会いをどのような心構えで迎えることがふさわしいのか、それがイエス様の今度のたとえ話の目標だと思います。確かに神様は皆に大きな信頼をもって、いくつかの贈り物でそれぞれの人生を満たし飾ります。しかし、それに気付いた人、またその賜物を生かした人だけをイエス様が誉められています。再び帰ってこられるイエス様を大きな希望を持って、努力して、積極的に迎える人になれば、心の大きな報いを得られます。私たちが神様からいただいた賜物は信仰です。それをいただいた私たちが小さなことにも忠実な僕として、信仰に基づいた生き方を送ることができれば、喜んで下さる神様が、さらに大きな報いを準備してくださいます。
                                      モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用


毎週の一言 A年 年間第三十二主日

2011年11月04日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ,
「黙想する恵みは、精神の努力によって得るよりも、柔和で愛情深い謙遜によって得られます。」
                               聖フランシスコ・サレシオ

11月8日頃は冬の季節に入る最初の節季で、日差しも弱くなり、冬の気配が増します。朝晩冷え込み、大地が凍り始めます。「春の霞」に「秋の霧」は春秋の季節感を表す重要な季語です。霧はさまざまな形で生活にかかわり、人間の情緒に深い影響を与えています。晩秋、木の葉がしきりに落ちるように、人の髪も目立っておちるようになります。すなわち「木の葉髪」です。櫛の歯についた髪の毛が思いのほか多いのを見るのはわびしいものです。俗に「10月の木の葉髪」といい、人生の寂しさを伴った作例が多いのです。このような自然現象はより深い意味で全く同じように旧約聖書の中に取り上げられています。それは人間の心の中に神様の神秘的な言葉の働きを示し、人生は神様だけに属すものだと示します。それだけではなく、人生の短さをも明らかにされています。枯葉の上に落ちた霜のように、人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命はとても短いものです。諸聖人の祝日と死者の日を迎える私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。天の方に目を向ければ私たちの人生も豊かになり、神様の思い通りに日々を送ることが出来ます。秋に木の枝にぶら下がっている枯葉のように、私たちの人生は神様の手に大切にされています。
マタイ福音書 25・1-13
当福音書の例えを通してイエス様が神様と人間との出会いを語られています。この出会いはお互い知らない者の出会いではなく、お互いによく知る人の出会いです。神様が盛大な祭りに人間を誘われて、人間はその誘いを受け取りました。神様に誘われた人は心を開き、授けられた知恵を通して目を覚まして、神様の存在や思いや働きに注意深くなり気付き、生きています。福音書の中に出てくる灯火用の油は心の知恵、そして心の期待感を例えています。この頃の典礼全体もイエス様が再び来られることとその時に人間との再会に注目されています。このような背景の中で、イエス様が語られた例えばなしを読みとらなければなりません。初代キリスト信者の共同体では、イエス様の再臨を心から期待していましたが、しかし使徒パウロは「2テサロニケの人々への手紙2・1-2」の中で、イエス様がすぐに来られるのではなく、今はふさわしくお会いする為に心の準備をして期待するのが欠かせないことだと述べています。一所懸命期待するのは大切であり、その期待は簡単なことではありません。だからペトロでも、キリスト信者と支え合いながらイエス様が来られるのを期待するように勧めています。なぜなら、期待する間は神様の慈しみと憐れみを受ける時です。つまり、救いの時です。その時にキリスト信者は回心ができる期間を実感しながら、自分の生き方を改善します。福音書の中に出て来る乙女たちは、おそらく普通に誘われた若い女性ですが、実際にはマタイの福音記者がこの例え話を書く時に、乙女たちことは象徴的な姿にして、当時の共同体のことを示しています。使徒パウロは当時コリントの共同体を「清い乙女」とよんでいます。だから、福音書に出てくる乙女たちはキ
リスト信者の共同体であり、彼女らが持っている灯火は信仰から生まれた良い行いです。花婿はイエス様です。                                  モヨリ神父

※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用