イエス様を愛する皆様へ、
序
一年中で最も夜が長いのは冬至ですが、夏の短夜の後だけに秋の夜はめっきり長くなったと感じられます。この感覚は古来より日本人にあったようで、すでに「万葉集」に秋の夜長を詠んだ歌があります。「秋思い」とは、秋のころ心に感じるもの思いのことで、「もののあはれは秋こそまされ」といいます。秋は人間の寂しさ、人間の心身の衰えに触れる思いが多いのです。山は美しい色に染まってきます、普通に紅葉と言えば楓ですが、その他の木もいいます。落葉樹が晩秋の寒冷にあうと紅葉(黄葉)して山を彩ります。11月に向かうとキリスト信者にとって大きな祝日に出会います。それは諸聖人の祝日です、そして次の日に亡くなられた全ての方の日に向かいます。この時、キリスト信者にとって天国に目を上げる機会になり、私たちの本来の故郷、つまり神様の懐を考えることになります。天国の故郷を思いながら、どのようにすればそちらに行けるかを思うとふさわしい生き方、人生をどのように送るべきかを教えられることになっています。初代キリスト信者の間では、殉教者だけが確かに天国に行くことができるのであり聖人として名づけられていました。しかし殉教の時代は終わって新しい聖性が生まれました。イエス様に従ってすべてにおいてイエス様に倣うことが聖人になる方法だと考えられました。当時、使徒パウロの言葉を思い起こして聖人はイエス様に従う人のことだと考えられていました。
マタイによる福音書 5・1-12
当福音書は重大なイエス様の山上の話を語り、イエス様の言葉で幸いになるように誰にもどんな人にも呼び掛けています。それは俗世的文学的な文章であり、しかも宗教的な世界の文学の最高の作品になっています。だれもが驚く言葉であり、確かに深く私たちの心を問われる言葉です。山上の話を通してキリスト信者のイエス様の本来の姿を理解することが出来ます。実はイエス様の山上の話は心を縛る法律のような言葉ではありませんむしろ、赦されて救われたキリスト信者がイエス様に従う方法の道標のような良き知らせです。確かにこのイエス様の話は人間にとって幸せになる福の音であり、心身を縛られる命令ではありません。イエス様が山上の話で自分の心を語ってくださり、その魅力によって従う弟子たちも引きつけられています。山上の話のメッセージを深く理解するために分析をしてみたいと思います。イエス様の八つの発言は二つに四つずつ分けられています。鏡のように向き合わせてみると、第四(6節)と第八(10節)の文章は同じテーマを巡って義を求める人のことを強調しています。このように進めていくと心の貧しい人は、憐れみ深い人と向き合っています。悲しむ人は心の清い人と、柔和な人は平和を実現する人と対しています。義に飢え渇く人は義のために迫害される人に対しています。それに八つの発言は複数の人物に向っていますが、最後に二つの発言はイエス様の聞き手にストレートに向かっています。この場面から、美しいメッセージが浮かんできます。憐みをもった心の貧しい人は幸いです。柔和な心を持った人だけが平和を実現します。悲しむことによって人間が清い心を得られることになっています。このような発言はすべてイエス様に当てはまることに気づけば、イエス様の素晴らしい姿が浮かんできて、どのようにしてイエス様が心の貧しさ、悲しさ、柔和な心、義を求めた心を生かしてきたかがはっきりと顕れてきます。さて、イエス様に従うひとにとって山上の話は真剣に生きるための参考になると思います。
モヨリ神父
序
一年中で最も夜が長いのは冬至ですが、夏の短夜の後だけに秋の夜はめっきり長くなったと感じられます。この感覚は古来より日本人にあったようで、すでに「万葉集」に秋の夜長を詠んだ歌があります。「秋思い」とは、秋のころ心に感じるもの思いのことで、「もののあはれは秋こそまされ」といいます。秋は人間の寂しさ、人間の心身の衰えに触れる思いが多いのです。山は美しい色に染まってきます、普通に紅葉と言えば楓ですが、その他の木もいいます。落葉樹が晩秋の寒冷にあうと紅葉(黄葉)して山を彩ります。11月に向かうとキリスト信者にとって大きな祝日に出会います。それは諸聖人の祝日です、そして次の日に亡くなられた全ての方の日に向かいます。この時、キリスト信者にとって天国に目を上げる機会になり、私たちの本来の故郷、つまり神様の懐を考えることになります。天国の故郷を思いながら、どのようにすればそちらに行けるかを思うとふさわしい生き方、人生をどのように送るべきかを教えられることになっています。初代キリスト信者の間では、殉教者だけが確かに天国に行くことができるのであり聖人として名づけられていました。しかし殉教の時代は終わって新しい聖性が生まれました。イエス様に従ってすべてにおいてイエス様に倣うことが聖人になる方法だと考えられました。当時、使徒パウロの言葉を思い起こして聖人はイエス様に従う人のことだと考えられていました。
マタイによる福音書 5・1-12
当福音書は重大なイエス様の山上の話を語り、イエス様の言葉で幸いになるように誰にもどんな人にも呼び掛けています。それは俗世的文学的な文章であり、しかも宗教的な世界の文学の最高の作品になっています。だれもが驚く言葉であり、確かに深く私たちの心を問われる言葉です。山上の話を通してキリスト信者のイエス様の本来の姿を理解することが出来ます。実はイエス様の山上の話は心を縛る法律のような言葉ではありませんむしろ、赦されて救われたキリスト信者がイエス様に従う方法の道標のような良き知らせです。確かにこのイエス様の話は人間にとって幸せになる福の音であり、心身を縛られる命令ではありません。イエス様が山上の話で自分の心を語ってくださり、その魅力によって従う弟子たちも引きつけられています。山上の話のメッセージを深く理解するために分析をしてみたいと思います。イエス様の八つの発言は二つに四つずつ分けられています。鏡のように向き合わせてみると、第四(6節)と第八(10節)の文章は同じテーマを巡って義を求める人のことを強調しています。このように進めていくと心の貧しい人は、憐れみ深い人と向き合っています。悲しむ人は心の清い人と、柔和な人は平和を実現する人と対しています。義に飢え渇く人は義のために迫害される人に対しています。それに八つの発言は複数の人物に向っていますが、最後に二つの発言はイエス様の聞き手にストレートに向かっています。この場面から、美しいメッセージが浮かんできます。憐みをもった心の貧しい人は幸いです。柔和な心を持った人だけが平和を実現します。悲しむことによって人間が清い心を得られることになっています。このような発言はすべてイエス様に当てはまることに気づけば、イエス様の素晴らしい姿が浮かんできて、どのようにしてイエス様が心の貧しさ、悲しさ、柔和な心、義を求めた心を生かしてきたかがはっきりと顕れてきます。さて、イエス様に従うひとにとって山上の話は真剣に生きるための参考になると思います。
モヨリ神父