カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 聖霊降臨

2009年05月30日 | 神父様からメッセージ(B年)

「万緑」とは草木のみどりが大地にみなぎる夏の景色です。熊本、阿蘇の自然にぴったりの季語です。山間の森林や谷沿いに生息する河鹿(かじか)は、カエル目アオガエル科の蛙ですが、この万緑の頃4月から7月にかけての繁殖期に雄はヒョロヒョロヒヒヒヒと鳥のさえずりにも似たような美しい声でなきます。暮れなずむころから宵にかけての河鹿の声は清涼の一語に尽きます。また、穏やかに晴れた日沿岸部では、昼は海から陸へ夜は陸から海へ、という風が吹きやすく、それを「海陸風」と呼びます。昼は、日差しで陸上の空気が暖まり上昇気流が起こります。すると、それを補うように海から陸へ風が吹きます。逆に夜は陸上の空気が冷えやすいため、陸から海へという逆向きの風になります。そして、風向きが変わる朝と夕方は風が弱まり凪となります。
大自然の観察の中で神様のこと、聖霊のことも風のように例えられています。激しい突風ではなくそよ風のように、聖霊は私たちの心の中に吹き込み神様の心を語ってくださいます。聖霊は風のようにイエス様に従うものの共同体の中にも降って、個性の違った人たちを一致させたり見事な動きと行いを起こさせます。聖霊降臨祭を迎えることになりました。この日は聖霊の風、火、力によって教会の誕生の祝日になり、大きな喜びを味わう日となっています。聖霊は弟子たちの上に降られた時のように、私たちの心の中にも入り込んで、七つの賜物をくださいます。それは知恵、理解、判断、勇気、節制、神を愛する恵み、神を敬う心です。このような賜物によってイエス様の教会は成長し、教会の欠かせない目標である神様の心を全世界に告げ知らせることを果たします。
ヨハネの福音書 20・19-23
当個所の背景は宇宙、全体的に神様の霊、聖霊で満たされています。聖霊に特別に注目しましょう。慰め主である聖霊は真理の霊とも呼ばれています。イエス様に従った者たちはイエス様でさえ拒んだ世界の中で証しするように召されています。けれども弁護者、慰めるもの、誰にも支えである聖霊がキリスト信者の心に宿られています。だからキリスト信者が話す時には聖霊の言葉になり、聖霊の働きとキリスト信者の働きも別々のものではなく一つの神秘的な神様の働きの証になります。同時に、この世で聖霊に満たされてイエス様に従う者の拒みはこの世の歴史の中に訪れた神様を拒むことです。真理である聖霊は忠実である神様の愛の証です。その愛は普遍的であり、徹底的で、確実であり、信頼で包まれた愛です。愛と慈しみを知らないこの世界の中で、聖霊が神様の愛を知らせ、その温かさを感じさせながらイエス様に従った者たちを導いています。ずっとイエス様と一緒に歩んできた弟子たちは、イエス様の心をいつも理解してきたのではありませんが、弟子たちの心に降った聖霊がイエス様の言葉、行いの意味を悟らせています。真理の霊である聖霊は神様の愛の救いの計画を明らかにされ、イエス様の言葉や行いによってその愛を身近に体験させ、それを生かすように導いています。イエス様と御父である神も一つであるように、私たちもイエス様と一つであることを知らされています。それに未来のことも語ってくださいます。未来は恐ろしい暗い雲のようなものではありません。聖霊の光によって特別にイエス様に従った者たちには、神様の美しさを見ることができ神様と出会い、神様の愛の中で永遠に生きることになるのです。
                            モヨリ神父          
                 

毎週の一言 B年 主の昇天の主日

2009年05月23日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

木々の若葉が萌え立ち、葉桜の色も日々濃くなってきて、そこはかとない暑さが感じられる頃としてこの時期は薄暑(はくしょ)と言われていました。しかし、最近は気候の変動で寒暖の差やその推移もかっての常識どおりではないようです。しかし、この時期になると更衣(ころもかえ)をおおかた整え、すっきりとした軽装となり身も心も軽やかに野や山へくりだしたくなります。夕暮れの散歩路は吹き来る風の涼しさが嬉しい薄暑の頃と言えます。また、米などの穀類が秋に実るのに対し、麦は初夏の頃に黄熱するので、それを「麦の秋」とよんでいます。古い歌には「麦の秋風」として出てきます。さらに陰暦4月の異名を麦秋といい、一面に熟れて輝く明るさはこの季節の風物詩といえます。このような美しさで満たされている私たちの目はイエス様の弟子と同じように、上に向かって天国に昇るイエス様の姿を見つめています。今度の主日はイエス様の昇天を迎えることになりました。私たちはこの神秘的なできごとを感想しながら大きな喜びの中でお祝します。主の昇天は、当時イエス様と弟子たちの使命を示される出来事ですが、弟子たちは宝物のようなイエス様のみ言葉と贈り物のように聖霊もいただいて、福音宣教のために全世界に羽ばたきます。当時、イエス様に従った者たちがそれぞれの異なった背景の人であっても、イエス様は唯一の教会であることを実感します。
マルコによる福音 16・15-20
主の昇天の典礼から、勧められた個所はマルコ福音書の終わりのところです。当個所で強調する典礼的な観点は弟子たちの派遣とイエス様の指導です。イエス様が全世界に向かって人々の救いを望みながら、福音を宣べ伝えるために弟子たちを派遣します。福音、福をもたらす音(言葉)それはイエス様自身、イエス様の言葉、イエス様の行いを告げ知らせることなのです。宇宙万物に属するどんなものでも神秘的な音で響き合っていますから、私たちの目さえ開ければどんなところにもイエス様の存在があり、イエス様がその心を語りかけてくださいます。その言葉は人の心に信仰を起こし、洗礼の時に明らかに神秘的に現れます。神様の言葉はイエス様自身です。それを拒むものは神様自身を拒んでいます。神様を拒むと自ら大きな喜びを失い罰の淵に沈みます。み言葉を受け入れると、神様の働きによって色々な神秘的なしるしが伴います。その見事なしるしは福音書の中にあり、それを良く知ることができれば人生の迷子になった者、心が病んでいる人も治る方法が分かります。清い心でない人、他人に害を及ぼすつもりの人に係わっても害を受けず、心や体の病気の人が元気を取り戻すことができます。イエス様自身である「言葉」は派遣された弟子たちと共にあって人の救いを探し求めています。このようにしてイエス様が天に上げられて、御父から授けられた目で見える使命を現わしています。イエス様が自分に従った者たち、自分の弟子となった者たちをも一切見放すことなく、むしろいつも弟子たちが宣教する時に彼らと一緒にいると約束されました。イエス様の使命の完了は同時に弟子たちの使命の始まりになっています。私たちの目の前でイエス様の姿が消えると同時にイエス様が自分の弟子たちに常に共にいる、働くと約束されたように、いつでもどんな時でも、どこででもどんな人にも、そのすぐそばにおられることを知らせてくださいます。       モヨリ神父
《お知らせ》
毎月第1と第2の木曜日、午前10時から信徒会館で、
聖書による勉強会「使徒言行録の朗読と解説」があります。ご参加お待ちしています。

毎週の一言 B年 復活節第六主日

2009年05月16日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「楠若葉」黒と白の構成美を誇る熊本城は、そのシンボルともいわれる楠大樹の森に支えられて威厳を保っています。県木にも指定された楠は、多くの樹木の中でもっとも巨大で長寿であり、5月の芽立ちのころの美しさはたとえようもありません。その上にそびえたつお城のりりしさとあいまって森の都の中核をなしています。マリア様の月、5月のすがすがしい晴天を「五月晴れ」といいます。しかし、昔は意味が違っていました。旧暦の5月は、今の暦の6月ごろ、つまり梅雨の時季にあたりました。このため、「五月晴れ」は梅雨の晴れ間を現わす言葉だったのです。暦が旧暦から新暦に変わり、新暦5月の晴天を示すことの方が多くなりました。上記のことを思い、マリア様の連願の美しさを思うと、天の栄光に上げられた聖マリアのお姿が輝いています。さて、愛の素晴らしさについて完璧に語れる人がいるでしょうか。完全なものだけがそのような物語を語ることができます。次のことわざもあります「愛は砂漠の中の水の入ったコップに似ている、思いがけない時に見つかる。」完全なものである神様だけが愛について充分に語ってくださいます。それに従って神秘的な愛の深さを経験した人だけが愛の美しさを表現できます。わがままの世界、自己中心的な世界、わずかな時間だけで愛のことを知った人間は、愛の深さをも知りえるのでしょうか・・・。では今日、普遍的な限りない愛について語ってくださる神様の言葉に耳と心を傾けましょう。
ヨハネによる福音書 15・9-17
この福音書の中で、どのようにイエス様が神様の愛について語ってくださるのかに注目したいと思います。ギリシャ語では「愛」という言葉は三つの意味に分かれています。無償で相手の幸せと喜びを求める愛は「アガパオ」、親戚や友人を大切する「愛」は「フィレオ」、自己満足を求める愛は「エラオ」といいます。神様の愛は相手の幸せ、喜びだけを求める愛です。当個所のテーマは人間まで伝わってくる神様とイエス様の間の愛です。神様の愛は情けの変化によって発生する愛ではなく、聖霊によっていただいた愛ですから、それを通して神様を感想することができ、人を大きな慈しみの中に包むことができます。イエス様はご自分が神様から愛されたように自分の命を捧げて、一人一人を愛してくださいます。つまり神様はイエス様の心の中に宿られてすべてのご自分の願いと希望を、イエス様の思いに溶け込ませイエス様と一つになってイエス様を愛されました。イエス様もご自分が選んだ弟子をこのように愛しました。そのくださった愛によってイエス様の弟子は互いに愛し合います。イエス様が選んだ弟子は一つの義務だけ持っています、先生をまねすることです。イスラエル人たちの間には、弟子が自分の好んだ先生を選ぶ習慣がありました。そして弟子は選んだ先生の下で奴隷のようになりました。逆にイエス様は先生として自分の弟子を選び、そのことを大切にしながら大きな友情の愛で包んでいます。神様の愛であるイエス様の愛は、相手の喜びを求め、相手を喜びで満たします。イエス様はご自分が弟子達を愛されたように、私たちが互いに愛し合うように願い勧めています。イエス様の掟は愛の約束のような言葉です。愛されたものは約束(掟)によってその愛に生かされ、その愛に応えるように生きています。イエス様の愛は私たちにとって大きな贈り物であり、ご自分の命を捧げその愛を示してくださいました。さて、イエス様の弟子として友人以上に愛された私たちは、この様な愛を実感し私たちの人生の参考にしなければなりません。       モヨリ神父

毎週の一言 B年 復活節第五主日

2009年05月09日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

早朝に求めた初物は苺です。白い皿に苺の紅が映え、苺を食べながら幸せな一日が始る気がしました。苺はオランダから輸入され、日本でも明治初年に栽培されるようになったバラ科の多年性植物です。そして、苺の文字の成り立ちは、毎が母に変化して、草冠がついています。「母」も「毎」も次々と子を産む、どんどん増えるの意味があるようです。
さて、5月の第2日曜日が「母の日」になっています。1908年アメリカのキリスト教会で、亡き母の追憶のために白いカーネーションを仲間に分けた女性によって始まりました。この日は母のいる人も母を亡くした人もそれぞれカーネーションを胸につけて、母に感謝の心を捧げたのです。日本でも教会では早くから守られてきましたが、終戦後一般でも広く行われるようになり、歳時記にも採用されています。いろんな国のいろんな民族のキリスト信者にとって、欠かせない理想はひとつであること、一つの心をもつことなのです。キリスト信者は違った思い、社会的な見方を持っていても、一つの心を持っています、一つの中心を囲んでいます、一つの体に属しています。その心はイエス様です。その中心は復活されたイエス様です。その体は私たちと共におられるイエス様の霊です。「高価な真珠のネックレスの一番安価な部分は、最も欠かせない部分となっています、それは真珠を結ぶ糸です。」復活されたイエス様はいろんな方法でご自分の存在を味わわせてくださいます。「私はある。」という宣言から、イエス様が身近に「私はよい羊飼い、私は囲いの門です、私は天から下ってきたパン、私は命のパン、私は道、命、真理です。」と温かく知らせてくださいます。復活節の第五の日曜日に向かっている私たちに、イエス様が頂点になるメッセージを改めて告げてくださいます。「私はまことのぶどうの木、あなた方はその枝である。」
ヨハネ福音 15・1-8
典礼から勧められたヨハネの福音書を分析しましょう。まずヨハネ福音書の世界に入る前に、イエス様の口を通して福音記者は徹底的に信じるように呼びかけられています。「わたしを信じなさい!」。ヨハネにとって信じるとは「イエス様の声を聞くこと、イエス様を知ること、イエス様に従うこと、イエス様の永遠の命によって生きること。」です。それに従って当個所のメッセージを深めましょう。イエス様がぶどうの木を用いて、私たちとイエス様のつながりを例えられています。ぶどうの木とその枝の間に命がながれてくるように、私たちとイエス様の間にも同じように命がながれています。ぶどうの木と枝は区別できませんが、一つの植物であるようにイエス様を信じる者はイエス様と一つであり、同じ命で生きています。「つながっている」と「結ぶ」、当福音書のこの箇所には13回ほどにも繰り返されています。その中に基本的なイエス様のメッセージがつながっています。イエス様と結ばれることによって私たちは生きる、豊かに生きて実りをもたらすのです。実を結ぶとは、私たちの働きの目的が自己中心的な満足を果たすのではなく、人に大きな喜びをもたらすことです。特に豊かな実りを結んだ者とは聖人たちと殉教者たちです。彼らの証によってイエス様の姿を身近に見せてくださり、イエス様の声、イエス様のほほえみ、場合によってイエス様の癒される手にもなりました。イエス様の命で生きた者たちはイエス様に結ばれた者たちで、イエス様がかれらの心に宿り、人の大きな助けと支えとなりました。ヨハネ福音記者が言うように、イエス様につながった者は清い心をもって、神様をそのまま見ることができますが、イエス様とのつながりを切り離すのは、大きな悲しみだけを迎えることではないでしょうか。                           モヨリ神父                   

毎週の一言 B年 復活節第四主日

2009年05月02日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

竹は春になると地中に筍を育てるための養分をとられて葉が黄ばみ始めます。それは他の草木の秋の様子に似ているので、春の季節でありながら「竹の秋」と言います。秋は四季のひとつとしての他に、収穫の時、凋落(しぼみ落ちること)の時も意味するので、それが、春の季語になっています。ちなみに「竹の春」は竹の勢いのもっともさかんな秋の季語になっています。竹という植物に生活のかかわり深い日本人の観察の細かさを見せた季語です。さて、5月になりました。5月6日は「立夏」です。つまり夏に入る、夏立つということです。陽の光も明るく軽やかに感じられます。湖や川、海などを清々しい風が吹き渡っています。若葉の間から差す陽が水辺にゆらゆらと揺れています。若葉を通してくる木もれ日のよろしさはこの上もありません。聖霊降臨を向っていく、復活祭を味わっているキリスト信者の心は、このように神様の美しさに溶け込んで輝いています。光であるイエス様が私たちの心を貫かれて、神秘的な世界とその現象を見られるような力となっています。イエス様もご自分の聞き手に話すときに、一所懸命にいくつかの譬え、イメージを使っていますが、実際に伝えてくださるのは人間の理性でつかむことのできない素晴らしい真実です。イエス様が譬えを使うと、その中でそれを聞いて受け入れる人に出会います。その小さい物語はイエス様に出会う場となっています。それだけではなく、復活されたイエス様がその小さい可愛い物語を通して、私たちの日常生活の中におられると知らせてくださいます。
ヨハネ福音書10、11-18
イエス様の一つの宣言で話が始まります。「私は・・・ある」。このような表現がヨハネの福音書によると、オレブ山でモーセに神様から伝えられた名前のつながりが強調されています。復活されたイエス様が私たちの人生の中にある、私たちの心や思いにあり、欠かせない存在です。そして、「羊飼い」という表現で、どのような形でイエス様が私たちの内に存在しておられるかが明らかにされています。罪の赦しを深く強調されたイエス様が、良い羊飼いの姿に譬えて深く憐れみの心を示しています。羊のように弱い、迷いやすいいつも赦される私たちを、愛の理由だけで支えてくれる羊飼いはイエス様です。良い羊飼いと羊のつながりは命です。イエス様がご自分の命を捨てる(失うー捧げる)ほど、私たちにご自分の愛、思い、喜びをくださいます。だから私たちにとってイエス様の命は欠かせない贈り物です。イエス様は本当の良い羊飼いです。このような表現は日本の思想においても理解しやすいことだと思います。良い羊飼いは模範的な先生です、「先に生きた者」、正しい先生、正しく真理を述べる先生、そして、弟子を愛情で包む先生です。上記のような思いは日本仏教の教典にもあります。けれども、唯一であるイエス様の救いはイエス様と全く同じようになる、考える、生きることです。正しい羊飼いは自己利益のためではなく、愛情の理由だけで羊を敵から守っています。つまり人間を神様から遠去ける敵はいくつもあります、哲学的な思想、社会的な競争、魅力的なさまざまな思いです。けれども、いつも私たちを赦し、ご自分の肩に担いでくださるのは模範である唯一の良い羊飼いです。イエス様が一人、一人にくださったのは正しい教え、迷うことのない真理だけではなく、ご自分の命、ご自分の体、ご自分の血。それを自分の人生に取り入れる人だけが永遠に神様の懐の中に生きるのです。
                              モヨリ神父