カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 A年 年間第二十七主日

2011年09月29日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ,

「神をこころから愛しているあなたなら、心の中でたびたび神に語りかけていることでしょう。」
赤トンボが青空を舞うようになると、至る所でコスモスの花が咲きみだれます。日本の風景に溶け込んで、コスモスは古来の花と思われがちですがメキシコ原産で明治時代に渡来し、繁殖力が強く、日本の秋には欠かせない花となりました。色とりどりの花を咲かせ群生して咲く様子が桜の花に似ているので[秋桜]ともいわれています。神様に生かされた私たちの短い寿命は色んな方法で飾られています。秋に咲くコスモスの花は秋の喜びの一つですが、毎週の日曜日に大きな喜びをもたらすのは、神様の宴会の食卓に誘われていることです。その時に神様の言葉、イエス様の体によって満たされた私たちが大きな喜びを味わうことができ、人生もとても深い意味で、楽しい時になっています。喜びはキリスト信者の宴会の礼服です。それに私たちのあっというまの人生のために日曜日の神様との出会いは素晴らし出来事であり、欠かせない喜びの機会になっています。使徒パウロのフィリピの教会への手紙 4・6–9物心両面での支援を惜しまなかったフィリピの共同体の信者たちに感謝しながら、聖パウロは当手紙の中で深い友情の関係で結びついていることを示しています。その背景の中、心の平和を探し求める人に、どのようにすればそれを得られるかを聖パウロが教えてくれています。まずイエス様に従うものであれば、煩ってはいけません。なぜなら、神様との係わりは何でも感謝しなければならないし、神様は願うことがあればいつでも私たちのそばにいて、かなえてくださいます。そう思うと私たちはイエス様と心や考えも一つになります。そして聖パウロはいつもご自分の兄弟のようにフィリピの共同体のキリスト信者に、真実の中に、正し心、清い心、愛する心をもって生きるように勧めています、なぜなら、そうすることによってイエス様とのつながりが実現し、本当の心の平和を味わうことができるからです。
マタイによる福音書 21・33-43
いつもたとえ話を語るイエス様が私たちの心の反応を求めています。この場合、まず知らせてくださるのは、神様は私たちに救いの計画をすべてを備えられているということです。それはたとえ話しの中のぶどう園のことです。私たちの場合、人生のこと、信仰のこと、周囲にいる者たちのことで、それはすべて神様が私たちのために供えられたもので、大きな信頼の中でまかせられています。さて、ぶどう園のたとえ話のように、神様の賜物を預けられた私たちはどのようにそれを受け入れて大切にしたか、また神様の望みや導きを表現されている愛にどのように応えたか、それが私たちの心の反応を期待しているイエス様のたとえ話の目的になっています。まず私たちのために神様が供えてくださったことを検討してみると、この世の素晴らしさだけではなく、人類の運命、そしてもっとも大切なのは神の国です。それは神様が準備してくださったもので、私たちの弱い手に預けられています。私たちは神様が送ってくださったいろんな良い知らせ、生きた言葉、励ましの言葉、赦しの言葉をどのように受け入れたでしょうか、それが今日の朗読の重大なテーマになっています。その神様の愛を現わす言葉は、実はイエス様自身です。その言葉を受け入れて、大切にしたものだけが自分の人生、自分の住まいを親石の上に建てることにし、神様の大きな愛の計画を受け入れます。    
モヨリ神父

毎週の一言 A年 年間第二十六主日

2011年09月23日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ,
「しばしば愛情深い心の動きをもって、短くても神様の事を考えなさい。」
聖フランシスコ・サレジオ

新米は、今年収穫されるお米のことです。日本では主食とするのですから味の良い米が要求されます。新米は一粒でも美しく見え、味もよいのです。農家では神棚に供え、神社にはお初穂が献じられます。各地の秋祭りは新収穫の祝いなのです。イエス様も普通の農民の文化にそって、自分のことを麦の初穂であることを示し、皆のために主食になりました。私たちも一粒の麦として集められた時に聖別のパンになり、イエス様の体になります。日曜日にイエス様の体をいただく時に私たちはイエス様の死を思い、復活を讃えるのです。このような祝いは、秋の祭りだけではなく、永遠の命の神聖な祭りになっています。使徒パウロの「フィリピの教会への手紙 2・1–11」によると、エフェソの牢獄で苦しんでいた聖パウロは、フィリピの共同体に心をこめた手紙を書き、そこにイエス様に従う共同体の姿を描くようにしています。まず聖パウロはフィリピの共同体の者たちとの友情や親しみを強調し、彼らの信仰による生き方を喜んでいます。そしてどのようにイエス様に大切にされているかを語ります。どれだけ大いなるイエス様の励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみと憐みの心で包まれているかを知らせます。このように愛の中で生きる共同体はイエス様の姿を映すことになり、聖パウロにとって一番素晴らしい喜びとなっています。イエス様に従う共同体にとってイエス様の心が手本になります。イエス様はまず、自分が神でありながら皆に仕えるものになりました。神様の御旨を自分の人生の目標にし、十字架上に死ぬほどの神様の愛、人の愛を示しました。それによってイエス様は人類の理想になり、神様の心を皆に示しました。このような思いの中で生きるイエス様の共同体は、利己心を乗り越えて聖パウロが言うように、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにして生きています。このような共同体の中にこそ、復活されたイエス様の姿が高く、中心に輝いているのです。
マタイによる福音書 21・28-32
今日はイエス様が語られるたとえ話を通して、私たちの信仰の質を確かめるように勧められています。私たちの信仰が言葉の音にすぎないのなら、私たちも父親に「はい、はい」とだけ答えた兄に似ています。実は「はい」と言っても父親の心を行わなかった兄は、父親の愛に対して感謝の心をあらわしませんでした。私たちの人生を振り返って、どのように神様の愛に応えているのか確かめてみましょう。当時のイエス様の聞き手であった偉い者たちはイエス様の言葉を聞いて、イエス様の言うことを誉めたり、評価したりしましたが、それは自分の生き方までには及んでいなかったのです。日本の表現を借りれば、彼らの反応は建て前にすぎなかったのです。イエス様の言葉を聞いても、心が改心せず、自分の思い通り、利己心で生き続けました。つまりこの、子にかけられた言葉は愛に充ちた父親の、心からあふれ出た言葉であったことに気付かず、自分の人生の中で具体的にその愛に対して応えと感謝までいたらなかったのです。しかしイエス様のたとえ話では、父親の愛に気付いた弟は言葉の音ではなく、行動で父の心に応えるようにしました。どうして罪人、悩む人、貧しい人は神様の目に幸いでしょうか。今日イエス様のたとえ話の中に再びその答えがありました。寛大な心で愛されて赦された者、慈しまれた者だけが、その限りない愛に気付き、自分の人生で感謝を現わし、自分の人生の生き方で応えることができるのです。
                                   モヨリ神父
※「新・くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用

毎週の一言 A年 年間第二十五主日

2011年09月15日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「つまずいたとき、驚いたりせず、心を上げて、もっと信仰を深めるように励むならば、
主の道において大いに進歩するでしょうに…」 聖フランシスコ・サレシオ

「曼珠沙華」は彼岸花、死人花(しびと)、天涯花(てんがい)、捨子花(すてご)など、の異名を持ち、かつてはその根を飢饉の際の食用としました。田畑の畔(あせ)道や墓地などの人里に、あれよあれよという間にさわやかな赤を走らせます。この神様に捧げられた毒さえもった不思議な花の登場は、お彼岸を迎えたことを教えてくれます。そして春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりです。お彼岸は仏事でありながら、イエス様の信者である私たちにも亡くなった方を思い、この人生のみじめさを思い、いつか太陽のように神様の姿を見出すことを思い起こさせてくれます。日曜日、主の日は体と心を休ませる日ですから、この時こそ本当の安らぎを求めて神様への思いだけで心を満たしましょう。いつも神様の言葉は、ともし火のように私たちの歩みを照らしています。使徒パウロの「フィリピの教会への手紙 1・20 –27」によると誰でも死を恐れて命を握りしめるようにしています。しかし、聖パウロにとって生と死、どちらもあこがれで両方とも望ましい目標になっています、なぜなら生きても死んでも、イエス様と一緒ならばイエス様の姿を見せることになります。聖パウロはイエス様のように生きることも大きな希望ですが、死んでも神様の懐に戻れるから、それも夢のような大きな希望となっています。それで聖パウロにとって、死ぬか、生きるか、どちらも難しい選択になっています。一方ではイエス様のように、生きる間にイエス様の心を見せて、人を救いの道に導くことができます、他方死んだ場合・完全に神様の心に戻ることになります。勿論、このような思いはキリスト信者にとって大いに参考になっています。
マタイによる福音書 20・1-16 
 今日もイエス様が驚くべきたとえ話を通して、私たちとの出会いを求めています。イエス様が語られたたとえ話の中で、不正な役割を通して、神様の考え、神様の義を教えてくださいます。まず神様の心、神様の思いは、社会的な計算高い人間の思いのようではありません。人間はいつも自分の働きや行いの利益をもとめています。しかし人間と違ってイエス様は、不正な主人の考えを通して、自分の愛、{諺通り・愛は盲目}自分の限りない慈しみを見せながら、私たちの心の計算を超えた義を示してくださいます。人間は自分の行いの結果において救われるものではなく、神様の慈しみと愛に満たされた義によって救われています。この福音書の箇所は、ペトロがイエス様に報いを求める対話の前に執筆されています。だからこのたとえ話をその神様の報いの背景の中に読むことにすれば、神様はいつも、どんな時でも、人間に呼びかけて誘っておられること、約束されたことを守っておられることがわかります。それに、頼りない私たちに対して、ご自分の慈しみと愛によって、ご自分の心の義を示して私たちの救いを求められています。確かにこのたとえ話を通しても、イエス様が私たちの心に出会われて、神様がいつも求めるのは人間の欠かせない喜びであることを、再び教えてくださいます。
                                  モヨリ神父

※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日々新聞)より一部引用


毎週の一言 A年 年間第二十四主日

2011年09月09日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「隣人の行いを出来るだけ高く評価するのは私たちの務めです。」 聖フランシスコ・サレジオ
セキレイが鳴きはじめ、つばめが去って行きます。「重陽の節句」、中国では奇数は陽の数とよばれ、縁起のよいものとされました。その中でも最大の九が二つ並ぶ九月九日は非常に縁起がよく、陽の数が重なることから「重陽の節句」となったのです。勿論キリスト信者にとって「縁起」のいいと言うことに偶然はないので、すべて神様の祝福やみ摂理の働きに当てはまっています。
 旧暦の「重陽の節句」は「菊の節句」ともよばれます。江戸時代の頃までは菊の花を愛でながら、長寿を祈る宴などが盛大に催されています。この頃、私たちは「敬老の日」をも迎えることになります。しかし、年長者の方々の間に、何歳からこの祝いを当てはめるかが笑い話のようで微妙な問題となり、自分の長寿を感謝し祝うことが忘れられてしまう気がしないでもありません。この時に欠かせない思いは、年輩の方々に対しての感謝の気持ちだと思います。まず、彼等のたゆまぬ努力と労働によって、私たちの世界、人生、環境までもが楽になって綺麗になりました。次にお年寄りからいくつもの教えや知恵を授かる事ができ、それを受け継ぎながら信仰の尊さまでも覚えることができました。このように感謝の気持ちを持ちながら、先輩の方々と一緒に神様に向かい、この人生のため、またそれに伴った恵みにも感謝を捧げるべきだと思います。先輩方が一生懸命守った信仰は私にとって大きな贈り物になり、新たな義務になります。
マタイによる福音書 18・21-25
キリスト信者にとって赦すことは欠かせない心の態度です。隣人を赦すことによって自分の罪も神様から赦されます。主の祈りの中でも自分の方から人を赦し、自分も神様に赦されるように祈っています。さて、当福音書を通して、イエス様が赦しについてペトロに対する返事で、そして感動的なたとえ話を通しても簡単に教えを伝えてくださいます。イエス様が語られたたとえ話の中に登場する僕がいて、主人に対して莫大な借金をもっていました。自分の家族の者たちを奴隷として全て売っても、自分の持ち物を全て売っても、持っている借金に対して半分以下も納めることが出来ませんでした。けれども莫大な借金を持った僕は主人の足もとにひれふして、借金を帳消しにしてもらえるように一生懸命に願いました。その願いの仕方は長年、教会のミサの典礼の中に「kirie eleison」という言葉で表現されていました。「kirie eleison」(キリエ エレイソン)ギリシャ語で、心のこもった深い願いを示し、大きな愛で包んでくださいと言う願いの意味をも含んでいます。その願いを聞き入れた主人は、僕の借金を全て帳消しにして赦しました。さてイエス様に望まれた共同体も、お互いの赦しの元に作られています。その赦しがなければ、イエス様の共同体も消えてしまいます。そして私たちがいつか、人に対する赦しや寛大な心によって、同じように神様に裁かれます。神様の大きな赦しを体験した人だけが赦すことが出来ます。赦す人はまず、自分の負った傷を治してから、赦しを与えることが出来ます。けれどどうしても赦せなかったことが赦せるようになるには、長い歩みが必要です。その時、祈りの中で神様の支えは欠かせない力になります。
モヨリ神父

※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用

毎週の一言 A年 年間第二十三主日

2011年09月02日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様ことを愛される皆様へ、
「心の自由を得るように望む人は私達の母、聖マリアに祈れば聞き入れられるでしょう」
聖フランシスコ・サレシオ

 今年の立秋は8月7日でしたが歴の上での秋の始まりはまだ暑さの最も厳しい頃で、9月の中旬になってようやく涼気を覚えるようになりました。そこで立秋から彼岸頃までの暑さを「残暑」と言います。四方を山で囲まれた菊池は、盆地特有の猛暑が続きます。しかし夏休みが終わって、普段の日常生活を取りもどすようになりました。学校に通う子供たちの姿がまた見られるようになり、教会の活動も進み、自分の教会の欠かせない大切さ、また自分の教会に対する奉仕生活はキリスト信者の課題になり続けています。日曜日に教会に集まるキリスト信者にとって、新たな婚宴のような祝いになります。大きな喜びは花嫁のように私たちが集まる所に登場し、私たちの共同体を神秘的な香りで包んでくれています。その風景の中に、私たちは感謝の祭儀を祝い、神様から頂いた恵みに、それぞれの自分の生き方によって恩返しをすることになります。それでミサは感謝の祭儀と言われています。使徒パウロの「ローマの教会への手紙 13・8-10」の中で、 聖パウロは欠点の多い私たちに向って、お互いを自分のように愛するように呼びかけています。聖パウロはイエス様の言葉を私たちの心に力強く吹きこむようにします。そして掟を超える聖パウロの思いは、私たちに愛の目標を教えてくださいます。愛はすべての掟を含んでいます。愛は、相手の喜びと幸せを求めるだけです。愛は、自分の心の中にある良いものを相手の心の中に置くように願えば伝わっていくものです。このような思いを通して、聖パウロは私たちに神様の愛、またはその篤さと深さを私たちの心の中に伝えてくださいます。
マタイによる福音書 18・15-20
 今日のマタイの福音書は、共同体の憲法のような個所だと言ってもいいと思います。イエス様が自分に従った者たちに、家族のように共同体として生きる、思う、行動するように教えてくださいます。神様は私たちに係わるのが個人的にだけではなく、周囲にいる兄弟たちを通して私たちに係わり、ご自分の心を伝えてくださり、ご自分の愛を示してくださいます。マタイの福音書で共同体が生きる方法三つを検討してみましょう。まず、失敗する兄弟に忠告することです。勿論そうする時に、つまり兄弟の目からおがくずを取り除く時に、愛を持って親切に、注意深くするのですが、同時に自分の目からも残された丸太を取り除かなければなりません。その時、兄弟に対する私たちの注意は神様の心が叶う指導となります。次にイエス様に従う人たちの共同体は、神様の思いに基づいて考え、皆でイエス様が望むような共同生活の方法を作るように勧められています。その欠かせないルールはいつくしと憐れみです。そのような共同生活は天国の始まり、天国のような場になっています。最後にイエス様の共同体では、皆で一緒に祈ります。なぜなら二人三人がイエス様の名前で集まる時に、生きておられるイエス様はその真ん中に立っておられるからです。そして何人かが一つの心で願ったならば、必ず神様が耳を傾けて叶えてくださいます。さて、このような力のある言葉を聞いて、自分が属する共同体には見直すところがないでしょうか。
                                    モヨリ神

※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用