イエス様のことを愛される皆様へ、
序
秋の夜、日本人は虫の音を聴くことを好みます。その虫の音の代表格が鈴虫です。バッタ目スズムシ科の昆虫で、夏に現れ、雄が鈴を振るようにリーンリーンと鳴きます。古い名は松虫で、マツムシの事を鈴虫と呼んでいたそうで、叉混同される事が多かったといいます。暗褐色で姿も鳴き声もかわいらしく趣があります。一般家庭でも飼育するようになりました。静かで、清々しい日本の秋の情感を奏でる愛すべき演奏家です。過ぎ去ったお盆の時、多くの人は故郷に帰られて家族や知人達との久しぶりの再会の時をもたれたでしょう。このような経験は誰にでもあります。この時こそ、私たち皆の欠かせない故郷を考えてみると大きな感動を覚えます。それは神様の懐です。そこで神様の命で生かされ、そのいただいた命を自分の人生で色々な良いことで豊かにし、それを感謝の心で神様にお返しし、やがて出てきた故郷に戻ることになっています。皆さんが経験したように、故郷の思いはいつでも私たちの人生全てを不思議な光で照らしています。故郷は私たちに懐かしい思いを与えてくれますし、いつでも戻れるような希望をも与えてくれます。故郷は自分の心、自分自身の一部ですから自分自身のように愛するところになっています。さて、その皆の最終的な故郷は神様の心です。大きな希望を持ちながら、誰でもこのような里帰りを憧れています。秋に向かって、大自然も私たちの心もカラフルな色で染まっていきます。大いに愛された者、何でも許された者は感謝の心をもって、いつでもどのように良い行いで神様の恵みを返すことができるのか考え、祈りながら豊かに良いことで染まった人生を送ります。
マルコ福音書7・1-23
神様の前で大切にされるのは儀式よりも人間の心です。神様のお住まいになった人の心からも良い思いも、悪い思いも出てきます。神様は大きな愛情で人間に結びついて、愛の約束としていくつかのルール(十戒)を定めました。しかし時間が経つにつれて人間は神様との愛の約束のことを忘れて、ルールや法律を拡大しながらその数だけを増やしてきました。そしてその法律の目標を忘れ、その心の表面的な正しさを現わす形の方へ走るようになりました。その時に人間は神様との深い関係を忘れてしまいました。イエス様の話は人間の心の内側と外側を、その有り様を強調します。日本語の独特な言い方を使えば本音と建前の事です。イエス様にとって建前のこと、あるいは外側のことは、評価されないことです。人の目につく所だけから人の誉れと賛同を求めるからです。神様と係わるところではありません。人間の心は神殿であり、神様が宿るところで、良いことも悪いことも決める場です。そこで神様がご自分の愛情を現してご自分の姿を見せて、密接に人間の人生とかかわっています。ファリザイの人たちは、汚れた手を洗わないイエス様の弟子を責めています。確かに当時、このようなやり方は珍しく信じられないことだったようです。たとえば、数年後牢獄に入れられたラビ・アキバは手を洗わないで食べるよりも、ずっと食べないことはまだましであると言っていました。しかし、心の改新を求めるイエス様の答えは、預言者イザヤの言葉で答えようとします。その中にイエス様が求めるのは人間の心が神様に近づくことで、人間的な決まりによって離れないようにと勧めています。人間の心は神殿なのです。その中に聖霊が宿り、そこで神様を探し求めるところであり、美しさが存在するところ、光り輝いているところです。神様の御胸のように、良い計画、情熱、希望、決心も発生するところです。だから建物と違って、神様が肉でつくられた神殿です。つまり、イエス様に従った者にとってかかせない目標は、心と口の音、行いも一致させることです。 モヨリ神父
序
秋の夜、日本人は虫の音を聴くことを好みます。その虫の音の代表格が鈴虫です。バッタ目スズムシ科の昆虫で、夏に現れ、雄が鈴を振るようにリーンリーンと鳴きます。古い名は松虫で、マツムシの事を鈴虫と呼んでいたそうで、叉混同される事が多かったといいます。暗褐色で姿も鳴き声もかわいらしく趣があります。一般家庭でも飼育するようになりました。静かで、清々しい日本の秋の情感を奏でる愛すべき演奏家です。過ぎ去ったお盆の時、多くの人は故郷に帰られて家族や知人達との久しぶりの再会の時をもたれたでしょう。このような経験は誰にでもあります。この時こそ、私たち皆の欠かせない故郷を考えてみると大きな感動を覚えます。それは神様の懐です。そこで神様の命で生かされ、そのいただいた命を自分の人生で色々な良いことで豊かにし、それを感謝の心で神様にお返しし、やがて出てきた故郷に戻ることになっています。皆さんが経験したように、故郷の思いはいつでも私たちの人生全てを不思議な光で照らしています。故郷は私たちに懐かしい思いを与えてくれますし、いつでも戻れるような希望をも与えてくれます。故郷は自分の心、自分自身の一部ですから自分自身のように愛するところになっています。さて、その皆の最終的な故郷は神様の心です。大きな希望を持ちながら、誰でもこのような里帰りを憧れています。秋に向かって、大自然も私たちの心もカラフルな色で染まっていきます。大いに愛された者、何でも許された者は感謝の心をもって、いつでもどのように良い行いで神様の恵みを返すことができるのか考え、祈りながら豊かに良いことで染まった人生を送ります。
マルコ福音書7・1-23
神様の前で大切にされるのは儀式よりも人間の心です。神様のお住まいになった人の心からも良い思いも、悪い思いも出てきます。神様は大きな愛情で人間に結びついて、愛の約束としていくつかのルール(十戒)を定めました。しかし時間が経つにつれて人間は神様との愛の約束のことを忘れて、ルールや法律を拡大しながらその数だけを増やしてきました。そしてその法律の目標を忘れ、その心の表面的な正しさを現わす形の方へ走るようになりました。その時に人間は神様との深い関係を忘れてしまいました。イエス様の話は人間の心の内側と外側を、その有り様を強調します。日本語の独特な言い方を使えば本音と建前の事です。イエス様にとって建前のこと、あるいは外側のことは、評価されないことです。人の目につく所だけから人の誉れと賛同を求めるからです。神様と係わるところではありません。人間の心は神殿であり、神様が宿るところで、良いことも悪いことも決める場です。そこで神様がご自分の愛情を現してご自分の姿を見せて、密接に人間の人生とかかわっています。ファリザイの人たちは、汚れた手を洗わないイエス様の弟子を責めています。確かに当時、このようなやり方は珍しく信じられないことだったようです。たとえば、数年後牢獄に入れられたラビ・アキバは手を洗わないで食べるよりも、ずっと食べないことはまだましであると言っていました。しかし、心の改新を求めるイエス様の答えは、預言者イザヤの言葉で答えようとします。その中にイエス様が求めるのは人間の心が神様に近づくことで、人間的な決まりによって離れないようにと勧めています。人間の心は神殿なのです。その中に聖霊が宿り、そこで神様を探し求めるところであり、美しさが存在するところ、光り輝いているところです。神様の御胸のように、良い計画、情熱、希望、決心も発生するところです。だから建物と違って、神様が肉でつくられた神殿です。つまり、イエス様に従った者にとってかかせない目標は、心と口の音、行いも一致させることです。 モヨリ神父