カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 B年 年間二十二主日 

2009年08月28日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

秋の夜、日本人は虫の音を聴くことを好みます。その虫の音の代表格が鈴虫です。バッタ目スズムシ科の昆虫で、夏に現れ、雄が鈴を振るようにリーンリーンと鳴きます。古い名は松虫で、マツムシの事を鈴虫と呼んでいたそうで、叉混同される事が多かったといいます。暗褐色で姿も鳴き声もかわいらしく趣があります。一般家庭でも飼育するようになりました。静かで、清々しい日本の秋の情感を奏でる愛すべき演奏家です。過ぎ去ったお盆の時、多くの人は故郷に帰られて家族や知人達との久しぶりの再会の時をもたれたでしょう。このような経験は誰にでもあります。この時こそ、私たち皆の欠かせない故郷を考えてみると大きな感動を覚えます。それは神様の懐です。そこで神様の命で生かされ、そのいただいた命を自分の人生で色々な良いことで豊かにし、それを感謝の心で神様にお返しし、やがて出てきた故郷に戻ることになっています。皆さんが経験したように、故郷の思いはいつでも私たちの人生全てを不思議な光で照らしています。故郷は私たちに懐かしい思いを与えてくれますし、いつでも戻れるような希望をも与えてくれます。故郷は自分の心、自分自身の一部ですから自分自身のように愛するところになっています。さて、その皆の最終的な故郷は神様の心です。大きな希望を持ちながら、誰でもこのような里帰りを憧れています。秋に向かって、大自然も私たちの心もカラフルな色で染まっていきます。大いに愛された者、何でも許された者は感謝の心をもって、いつでもどのように良い行いで神様の恵みを返すことができるのか考え、祈りながら豊かに良いことで染まった人生を送ります。
マルコ福音書7・1-23
神様の前で大切にされるのは儀式よりも人間の心です。神様のお住まいになった人の心からも良い思いも、悪い思いも出てきます。神様は大きな愛情で人間に結びついて、愛の約束としていくつかのルール(十戒)を定めました。しかし時間が経つにつれて人間は神様との愛の約束のことを忘れて、ルールや法律を拡大しながらその数だけを増やしてきました。そしてその法律の目標を忘れ、その心の表面的な正しさを現わす形の方へ走るようになりました。その時に人間は神様との深い関係を忘れてしまいました。イエス様の話は人間の心の内側と外側を、その有り様を強調します。日本語の独特な言い方を使えば本音と建前の事です。イエス様にとって建前のこと、あるいは外側のことは、評価されないことです。人の目につく所だけから人の誉れと賛同を求めるからです。神様と係わるところではありません。人間の心は神殿であり、神様が宿るところで、良いことも悪いことも決める場です。そこで神様がご自分の愛情を現してご自分の姿を見せて、密接に人間の人生とかかわっています。ファリザイの人たちは、汚れた手を洗わないイエス様の弟子を責めています。確かに当時、このようなやり方は珍しく信じられないことだったようです。たとえば、数年後牢獄に入れられたラビ・アキバは手を洗わないで食べるよりも、ずっと食べないことはまだましであると言っていました。しかし、心の改新を求めるイエス様の答えは、預言者イザヤの言葉で答えようとします。その中にイエス様が求めるのは人間の心が神様に近づくことで、人間的な決まりによって離れないようにと勧めています。人間の心は神殿なのです。その中に聖霊が宿り、そこで神様を探し求めるところであり、美しさが存在するところ、光り輝いているところです。神様の御胸のように、良い計画、情熱、希望、決心も発生するところです。だから建物と違って、神様が肉でつくられた神殿です。つまり、イエス様に従った者にとってかかせない目標は、心と口の音、行いも一致させることです。        モヨリ神父         

毎週の一言 B年 年間第二十一主日

2009年08月22日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

処暑(しょしょ)、8月23日頃のことです。暑さが峠を越えて後退し始め涼しい風が吹き渡ります。叉64年前のこの頃、日本は戦争に敗れ人々は悲痛な体験をし、それぞれの形で心に傷を負ったのでした。祖国を目前にしながら命尽きた人を追想します。その日の夕刻、振り返った西空を荘厳なまでに染めた茜色の夕焼けを見たという人もあり、生涯心に残る思い出であると言います。「夕焼け」は四季にわたって見られる現象ですが、夏が特に荘大で印象が深いようです。さて、キリスト信者は楽しい時も、苦しい時も感謝の心を忘れないようにしています。ミサは感謝の祭儀と言われていますが、その感謝は一緒にいるものに対する感謝であり、この宇宙を創造された神様に対する感謝、いつでもパンとしてご自分の体をくださるイエス様に対する感謝です。キリスト信者はイエス様の知恵を受けて、パンのような生き方を模倣しています。典礼暦では8月22日が天の元后聖マリアの記念日にあたり、私たちも天国の喜びを味わいます。そして教会が模範的な2人の聖人の祝日に向かいます。聖アウグスチヌスとその母である聖モニカです。美しさを探し求めた聖アウグスチヌスは、自分の心の中にそれを発見しました。一方天国で生きることを憧れていた聖モニカは、この世でも自分の心、自分思い、自分の夢はずっと天国にありました。自分の人生の目標として、天国に行くことだけを望んでいました。このような聖人たちの足跡は私たちにも参考になると思います。
ヨハネによる福音書6・60-69
当福音書のテーマは、人間の人生の計画を神様の思いに合わせて、神様の観点から正しく送るということです。自分の人生の中で神様の存在に気付いた人は、神様のために生きる、神様の方に進んで行く、このように生きるのが絶対的な人生の方針です。神様は時代を通して、色々な時に人間にご自分の愛の約束を授けました。しかし皆さんが自分の人生で経験したように、人間の反応は様々でした。当福音書でパンについて、食べ物、肉となったイエス様の体の話を聞いた弟子たちも、信じ難く、戸惑ったとあります。「誰がこんな話を聞いていられようか。」このようなイエス様の話は聖霊の光によらなければ理解できないと思います。その光なしでは確かに無理だと思います。さて、そんな私たちのために、ペトロがイエス様に向かって大変綺麗な祈りを祈ります。「主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」人間の心の中で信仰と理性はよく戦うものですが、救いを求める人間は、最終的にイエス様の言葉を受け入れるのです。使徒ペトロは使徒たちの代理として、自分の心の信仰を告白し、永遠の命をくださるイエス様は唯一の先生であることを宣言します。このような言葉で、使徒ペトロはイエス様の思いと一致して、完全にイエス様に従うように心の決意を現わしています。同時にイエス様は弟子たちに下さる永遠の食べ物について、神の聖者であるご自分の正体を現わしています。イエス様は人を集めるために自分のメッセージを和らげようとはしていませんでした。信仰と勇気のある人の心に呼びかけて、自分と同じように神様の思いに溶け込み、皆の食べ物になって生きるように勧めています。        
                          モヨリ神父

毎週の一言 B年 年間第二十主日 (お盆 2009)

2009年08月14日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

太陽暦では8月8日前後が立秋にあたります。「今日の秋」は立秋の日の意味です。まだ残暑が厳しい時期ですが暦の上では秋に入り、風のそよぎや雲の色や形などに秋の気配が少し感じられるようになります。しかし、まだまだ蒸し暑いこの時期の真ん中に雨が降り続き、お盆を迎えることになりました。お墓参りをして、家庭にも亡くなられた先祖を迎えます。この時に私たちのお祝いは大きく広がり、天国におられる親類までにも及びます。永遠の命に入った方たちは天国から私たちを見守り、私たちの日常生活を支えてくださいます。この時、一緒に苦しみを和らげてお祝いし、盆の送り火で見送っても神様の懐で私たちのことも待っていてくださいます。日本における「お盆」は、仏教による盂蘭盆(ウランバナ)の行事で、苦しみを受けている人々を、この世から供養することの功徳によってその苦しみを救いたいという行事で、そこに今の自分があるのはご先祖さまのお陰であると感謝する先祖崇拝の心が合体したものです。キリスト信者にとっても亡くなられた親族、友人、恩人は、まだ生きている私たちに天国の方に大きな窓を開いてくださり、そこからこよなく美しい風景を紹介してくださいます。その中に天に上げられたマリア様の姿を見せてくださいます。マリア様は神の母であり、私たちに神様の姿、神様の心を示してくださいます。それだけではなく、仲介者として一人一人を見守っています。さてこの時、その普遍的な絶景のような天国に入るのを期待しながら、マリア様の取次を願い、涙をこぼし続ける人々のために祈ります。天国の神様の懐で、マリア様のほほえみ、私たちの愛情込めた祈りがご先祖に届くように期待されています。
ヨハネによる福音6・51-58
イエス様の時代の律法学者たちは、メシアの食卓の客であると思われています。聖体をいただくのはイエス様と一緒に食卓で食物を食べるだけではなくイエス様自身、イエス様の体、イエス様の心をいただくことになっています。そうする人はイエス様と同じ運命に従って復活して永遠に生きています。イエス様は神様の心の知恵が肉となった「しるし」(秘跡)です。イエス様の肉を食べるものは神様自身の知恵とその心を受け入れ、神様自身をいただくことになります。ヨハネ福音書の命のパンについての長い章の中心になった言葉は「私は…天から下ってきたパン。」「私は…命のパン。」「私は…生きるパン」です。このパンは神様の肉、イエス様なのです。神様は苦しんでいる人に永遠の命を与えるために自分の肉、自分の知恵を食べ物とされました。イエス様の時代の人々にとっても私たちにとっても「イエス様の肉を食べ、血を飲むこと」という表現はとても厳しくて、驚くべきものです。しかし初代教会の時から今に至るまで、キリスト信者はその言葉を受け入れて信じてイエス様の命で生きることになっています。イエス様はこのような硬い話を和げようとはしません。イエス様の肉を食べること、イエス様の血を飲むことは人間的な世界では受け入れがたいものですが、神様の神秘的な世界の経験です。イエス様の時代の人々にとって肉と血のことは「命」そのものでした。今日でもこのように神様がご自分の命を与え続けています。現代こそ、今までのどんな時よりも人間が命を憧れているのではないでしょうか。自死する人は本当はより多く、深く、命を憧れています。神様はイエス様の体を通して人類と一致することによって、ご自分の心、ご自分の知恵、ご自分の命を私たちの心の中に永遠に注ぎ続けておられます。
                         モヨリ神父

毎週の一言 B年 年間第十九主日

2009年08月08日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

この時期日照りが続く年は、ひと雨欲しいと思ってもなかなか降らず田畑は日に焼け山野は生気を失います。農家の心配は増えるばかり、雨乞いをして神仏に祈ることもあります。その時、沛然と降ってくる雨を「喜雨」と呼びます。人々が歓喜し天に感謝します。化学万能の現代でも気象条件までは支配できず、天候に一喜一憂する状態はまだまだ続きそうです。このようなことについてキリスト信者としては、旧約聖書から新約聖書にわたる神様の言葉や聖霊の存在の働きを思い浮べられないでしょうか。さて、とても暑い時期に入ります。平和の旬間において欠かせない理想として世界の平和を祈りながら、教会の暦と信仰に関するいくつか大変素晴らしい祝日を迎えることになります。主のご変容の祝日(8月6日)、聖ドミニコの記念日(8月8日)、聖ラウレンチオの記念日(8月10日)、聖クララ記念日(8月11日)、聖マキシミリアノ・マリア・コルべ司祭殉教者の記念日(8月14日)、ご聖母の被昇天の祭日(8月15日)です。聖人たちの祝い、そして教会の祭日も、天国の方に歩んでいく私たちにとって、灯のようにまた矢印とも支えともなり、私たちに残された聖人たちの足跡は神様の方へ行く確かな道を示してくださいます。復活されたイエス様が贈り物のようにくださった平和の心は、この頃特に強く考えるように勧められて、次の世代のためにこの大切な価値観を築くように誘われています。そのために支えてくださるのは、丁度この頃お祝いする聖人たちの立派な生き方です。
さて、中でも聖母の被昇天はマリア様の祝いであり、私たちに天国の方に一つの窓を開いてくださいます。ぜひそちらの方に目と心を向けましょう。人生を鮮やかに色どる理想を見出すことができます。
ヨハネによる福音6・41-51
キリスト信者にとって人生は巡礼に似ています。信仰がこの歩みを支えながら、永遠の命に導く道を照らします。ヨハネ福音記者がイエス様のことを、永遠の命の方に不思議に歩み続ける私たちの人生を支える天から降ってきた食べ物として紹介します。このように巡礼のような人生を送るのは神様のことを知って憧れた人だけです。たとえば旧約聖書では、預言者エリアがオレブ山の方に歩んでいた時に、神様のパンに支えられて歩き続けました。当福音書の中心的なイエス様の言葉は:「わたしは…です!」このような表現は神様がオレブ山の上でモーセに伝えられた自分の名前を思い起こしています。次にイエス様が自分の正体を現わしながらつけ加えるのは「私は…天から降ってきたパン。」「私は…命のパン。」「私は…生きるパン。」当時の人々はイエス様のことを、その親戚やその出身もよく知っていたつもりで、イエス様が神様の権威をもって(私は…です!)と言われても、天から降ってきたことは分からなかったのです。神様が派遣してくださったイエス様を知る人、そしてそれを信じる人だけが永遠の命を得られます。荒野でイスラエル人たちが食べた食べ物はあくまでも食物であり、神話・伝承の中でいただいた食べ物でした。イエス様が伝承と現実的な世界を超えて、天から降ってきた食べ物であり、人間に命をくださる心の食べ物として現われています。このようなイエス様の姿を見せることで、私たちがイエス様を人間として、また言葉とメッセージとして、すべて受け入れるために呼びかけられているのです。天国の方へ旅の途中の教会は、天から降ってきた普遍的な食べ物に支えられて、イエス様の言葉において信仰を守りながら、いつか神の御顔を仰ぎ見る時に達することが出来ます。
                                モヨリ神父

カトリック菊池教会をご紹介します !!

2009年08月06日 | 神父様からメッセージ(C年)

 1959年1月1日、お聖堂の完成を待たずして、初代主任司祭パトリック・ブラドレー神父様のミサが捧げられ、緑と水に恵まれた菊池の地に新しい教会「カトリック菊池教会」が開かれました。その後7代目のオーエンス神父様まで聖コロンバン会の歴代の神父様方の厚い祈りと献身的なご奉仕に心を合わせた初代信徒達とに支えられた共同体でしたが、2005年6月、聖ザベリオ会のエルネスト神父様、その後引き継がれた同会の最頼神父様が2007年4月から司牧しておられます。
教会活動としては、献堂のころよりの信徒の家族を初め新しい信徒も加わり、一人一人のタラントを生かすべく心と知恵を合わせて毎週の祝日に沿って、神父様のご意向もあり日本的な和の様式を生かす取り組みがなされています。たとえばお聖堂が今は珍しい畳敷きでもあることから、洗礼式は座式で行われますが、それは立式に慣れた目にも新鮮で奥ゆかしく温かい清らかさに満ちています。叉、お聖堂も降誕祭・復活祭などの大きな祝日にはその年毎に美しく装われますが、今年の復活祭は女物の着物の帯が、祭壇と信徒座席壁側の聖母像・聖ヨハネと幼きイエズス像にも飾られ皆の感嘆の声を浴びました。また、復活祭の祝会に至るまでのセレモニーの中で「洗足式」は特に大事にされ、神父様が跪いて信徒の足を洗われる様は、イエス様と弟子達の姿を彷彿とさせるものがあります。また、毎年、5月と10月には週一度ずつ、信徒の家を回って祈りの時を持つ「巡回家庭ロザリオ」が長く続けられています。家庭祭壇やテーブル上の聖像や十字架に向かい合いまた車座で、ロザリオの祈りを唱え合うひと時は祈りによって皆の心が解け合い、聖母が傍にいてくださるような至福の時でもあります。小さな共同体ではありますが、それが家族的な結びつきとなり支え合う事でこれからの歩みも進めてまいりたいと思います。

毎週の一言 B年 年間第十八主日

2009年08月01日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

あちこち夏祭りで賑やかなこの頃、近くの祭りに出かけて金魚すくいの水の中をじっと見ていましたが、目は金魚に向いていても心は違うことを考えていたりします。父母への懐かしさ、恋しさがこみ上げてきます。幼い頃、両親と仲良く金魚すくいをした思い出はありませんか。一人でいる日暮れの寂しさに蘇る風景があります。祭りの喜びは花火のように一瞬華やかで心踊るものがありますが、それはすぐに消えて、より寂しさがつのったりするものです・・・・・
しかし、キリスト信者は毎週、主の日に神聖な祭りを迎えます。キリスト信者はその時に味わった喜びをずっと、心の中に保ちながらより普遍的な喜びを味わい、その時、その後もずっと日常生活を喜びが染めていきます。キリスト信者は主の日に神聖な祭りの中でイエス様を通して神様に感謝し、イエス様と共に神様に自分の人生を奉献し、イエス様から頂いた命で生きるのです。
さて、今週8月6日から平和旬間が始まります。この間に求める平和は戦争のない世界です。けれども、戦争のない世界は正義の土台の上に建てられて、自己中心的な考えを超えた広い心を持った社会の上に立っています。そのために私たちに何が出来るかが欠かせない課題になっています。まず、人類が皆、誰でも神様が告げられたようにお互いを愛すれば、人を愛する心が平和な世界への一歩になります。しかし何もできない私たちは、世界の平和のためこの頃に特に祈るように勧められています。なぜならこの様な平和は、人の力の対立によっては得られず人の心の憐みと弱さによって実現するものだからです。
ヨハネによる福音6・24-35
イエス様のパンも旧約聖書のマンナと同じように天から降っています。命のパンであるイエス様自身、天から降っています。天から降っている神様のパンは世に命を与えます。実は人間の心は自分を満たすものを探し求めています。それは私たちに与えてくださった御言葉を通した神様の命です。当福音書で注目すべきことは、イエス様に対する群衆の質問です。「ラビ、いつ、ここに来られしたか。] 「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか。」「どのようなしるしを行ってくださいますか。」イエス様が心のこもった言葉でこの群衆の願いに応えようとします。群衆の質問は思い違いから発生しているとイエス様が気付きます。群衆がイエス様に求めているのは口にできる、飢えを満たす食べ物です。イエス様の答えは群衆の思いを超えて、手にとって食べられる物をしるしにして、その中に含まれた永遠の命の贈り物のメッセージを語っています。砂漠を歩き渡っているイスラエル人に、マンナが無償で神様から与えられた食べ物であり、当時の人類にたいする神様の憐みの象徴的な食べ物になりました。イエス様は全く同じように天から降ってきて、無償の神様の命を与える贈り物として人類を支えてきました。人間はイエス様に出会うことによってイエス様を天から降ってきた贈り物として受け入れ、信じるしかありません。信じるとは神様の業であり、それを受け入れる心が特別な幸せに達しています。モーセがイスラエル人の指導者として受け入れられるためにマンナのしるしを提供しました。イエス様も同じようなしるしになって人の注目を集め、最終的なマンナ(食べ物)であり、指導者であることを示しています、同時にマンナのような食べ物になったイエス様は、人類を満たされる命、人生の知恵であることを明らかにされています。  
                                モヨリ神父