カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年 四旬節第二主日

2016年02月18日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 
 キリスト信者も沈丁花の香りと共に、四旬節の香りのその甘さを吸って復活祭の準備の方へいざなわれ、四旬節の間私たちの歩みも続いて行きます。イエス様と一緒に砂漠を通り誘惑の辛さを感じ、イエス様と一緒に悪魔に打ち勝ち、神様のみ旨を忠実に守る約束をしました。今度、イエス様がご自分の姿を変えて、ご自分の本性を見せてくださいます。その姿は輝く姿で、イエス様が新しい真実を、新しい世界を知らせてくださいます。その姿はイエス様に従うことによって私たちの姿にもなります。それはキリスト信者も自分の人生の様々な出来事の、どのように辛い出来事をも神様の言葉の光のもとで見つめれば、その中で、神様の丁寧な指導、神秘的な跡を見出し、どのように暗い出来事でもそれが変わり輝いてきます。辛くても私たちにとって、ペトロがイエス様の前で言ったように「ここにいるのは、つまりイエス様と一緒にいるのは、いつでも素晴らしい!」
「ルカによる福音書9・28b-36」
 イエス様に従う人は信仰に対する誘惑を受けますが、それを乗り越えるためにイエス様と同じように神様のことを選ぶのです。イエス様のご変容は、誘惑を乗り越えた人に対するこたえになります。イエス様が十字架上の死を予想された後、弟子たちにキリスト信者が迎える理想と喜びを知らせます。それは、光で輝いている姿です。だからイエス様のご変容の意味は誘惑の時、苦しみを迎える時も、イエス様の言葉を聞く人は輝いているものになるということです。イエス様がご自分の姿を変える途中、天からの声は「これに聞け」と勧めます。イエス様を聞くのは素晴らしい人間、輝いている人間にとって欠かせない過程になります。輝いているイエス様の姿が歴史の中にあり、人間と共に歩む神様の存在を示しています。イエス様と一緒にいたモーセとエリアは法律と預言を象徴しています。メシアであるイエス様は旧約の時代から、つまりモーセの時代から人類に期待され、この世を去った時でも皆と一緒におられることを示しています。 同じようにエマオの方へ歩く弟子たちにも、イエス様について旧約聖書に書いてあること、モーセからそして預言者が予言したことも解説されました。ペトロと他の弟子たちはこのような神秘的な場面にとらわれて、大きな情熱の中でイエス様と一緒にずっといたいという希望を示しましたが、実際に神様と一緒にいることは出来ます、それはイエス様のみ言葉を聞くことによって実践されます。キリスト信者にとって、あらゆる形で神様の言葉を聞くことは欠かせないことです。神様は聖書全体に渡って、イスラエル人との愛の約束を述べた時でも、それを人類全体が聞くように勧められています。そうすることによって、使徒パウロが語っているように、私たちの貧しい体はイエス様と同じように輝いている体となります。輝いているイエス様と同じようになったキリスト信者が神様と一つになって、世界に神様の本来の姿を見せることが出来るのです。
                        モヨ神父


C年 四旬節第一主日

2016年02月09日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 最近良く使われる言葉は病院に限らず「ケア」です。英語であり、日本語でも普通に使われるようになって、人に対する憐れみと慈しみを示しています。日本語のぴったり用語は「赤心」、言い換えればボランティアの心です。お年寄りに対して、子供に対しても、困っている人にケアという心は欠かせない現代社会人の態度になっています。けれども、ケアと言うのは名詞だけではなく動詞としても使えば「アイ、ケア」となります。無理に翻訳すると、「興味を持つ、知りたい、関わりある」と言う意味です。しかしキリスト信者は大自然に対して、また人間がかかわるすべての分野、背景などにケアだと言いすぎないことが大事です。なぜならそれは神様の心だからです。神様の心は全てに対してケア、つまり、興味と愛を示し全て温かい憐れみと慈しみで包んでくださいます。キリスト信者も同じように、全てに「ウィ、ケア」「全て、愛している」というべきなのです。
「灰の水曜日」頭に灰をかけられたしるしによって四旬節に入り、つまり積極的に復活祭への準備に踏み込む時季になりました。
「ルカによる福音書 4・1-13」
 四旬節に入って、当時季は私たちの明確な改心のしるしになりました。み言葉に導かれてキリスト信者の共同体は五つのステップによって、復活祭の方へ歩みを進めて行きます。今年の四旬節の五つのステップは、1)イエス様の荒野の誘惑、2)実りを持たないイチジク、3)イエス様のご変様、4)放蕩息子のたとえ話、5)罪を犯した女です。四つの個所はルカの福音書に属していますが、5番目の個所はルカの心を表しているのに今、ヨハネの福音書に属しています。この朗読の背景は大いに神様の慈しみと憐れみを示しています。この四旬節の間、イエス様の素晴らしさを深く知るように誘われています。み言葉によって自分の経験によって、イエス様の心を知る、愛する、経験することが出来れば、確かにキリスト信者もイエス様の心を見せることが出来ます。ルカ福音記者が語るイエス様の荒野の誘惑は、イエス様の全ての公生活をまとめています。イエス様が乗り越えた誘惑は、イスラエル人たちが砂漠の中で乗り越えられなかった誘惑で、それはこれからキリスト信者になる者が乗り越えなければならない誘惑を語っています。イエス様は示された神様のみ旨に対する忠実と愛着によって、そして、神様のみ言葉に支えられて、あらゆる誘惑を乗り越えることが出来ました。四旬節を迎えるキリスト信者も、み言葉に支えられてイエス様と一致して、神様の心と愛に反する日常生活の誘惑を乗り越えるように誘われています。
                           モヨリ神父

C年 第5主日 

2016年02月04日 | 神父様からメッセージ(C年)


 人間は心の悪、体の悪から逃れる希望を持っていますが、そのために医学を頼るだけではなく、宗教を通して解放されるように望んでいます。それを見抜いたイエス様は私たちと一緒に悪と戦って支えてくださいます。むしろ祈るように教えられた時に「悪から救ってください」と神様に願うように勧めてくださいました。2月11日はルルドの聖母の祝日であり、世界の病者の日になっています。私たちも、日曜日にこのようなルルドの聖母の取り次ぎを願って、いろんな悪から解放されるように祈りましょう。病気になること、病気であることを運が悪い、罰があたったと考えてはいけません。悪は神様から出るのではなく、神秘的に善に対立してそれを強調し高めています。神様は苦しんでいる人間のすぐそばにいて慰めてくださいます。事情によって健康が取り戻せない時に、その病気の中でイエス様の苦しみも見出すことができれば、その中で周囲にいるも者たちの愛情と支えにも気付き、感謝の心に変わり、病気の中でもより大きな喜びを見出すことができます。私たちもイエス様と同じように、マリア様の子でありマリア様の腕の中で大きな愛情で包まれているのです。
「ルカによる福音書 5・1-11」
 当主日の福音書でも主役はみ言葉です。誰にでも神様の呼びかけはいつもみ言葉を通して行われます。皆の人生の中で重要な時があり、同時に人生を全うするためにどのような選択をすればよいのか、どのような方向に人生を向ければよいのかを考える時です。場合によって自然にわかることがあり、逆に困難の中で決める時もあります。とにかくいつでもその中に神様の呼びかけがあります。このような神様の呼びかけは父、母、聖職者などを問わず、全ての人間にあります。私たちは自分の人生の中でいろんな役割がありますが、このような呼びかけによって、この世の素晴らしさを完成するまで神様の協力者になります。当箇所ですぐに目立つのは、群衆がイエス様の言葉を聞くことを憧れていることです。他方ではイエス様がペトロの小さな舟であるように、教会の低い立場から話しています。群衆は驚きながら、み言葉を岩の中から湧いている清い水のように憧れて聞いていました。イエス様はファリザイ派の人のように、理屈っぽい言葉で話してはいません、むしろ真実を語り、権威のある言葉を語っていました。その後、イエス様がペトロとその仲間にも、ご自分の言葉の力を持つしるしを与えます。ペトロはイエス様のみ言葉の指示に従って網を下ろし、自分の働きの大きな結果を得られます。同じ権威のある言葉で、それによって群衆に偉大な教えを与えられ、イエス様のみ言葉は頼るべき言葉だと明らかにされます。このような魅力的な言葉に捕らわれたペトロは、自分の足りなさを実感しますが、イエス様の力強い言葉の誘いに抵抗することを諦め、イエス様に全身全霊で従うように決心しました。
                               モヨリ神父 

C年 年間第4主日 

2016年01月26日 | 神父様からメッセージ(C年)


  今年の冬の寒さは格別に厳しく全国的に大雪となり、沖縄にも雪が降るという前代未聞のことで人々を驚かせました。でも、「冬来たりなば春遠からじ」といいます。今年は殊の外その春が待たれます。さて、キリスト信者の生活に欠かせないことは、病人訪問です。身内や親戚などはもちろん、地域の孤独なひと、お年寄り、不自由な方など、皆がほほ笑む心を待っています。慰める心、支える心、イエス様を見習っているキリスト信者は、人をだれでも癒す目標をもっています。キリストに従う者は励ます役割を任命されて、それを果たす機会をのがしません。このごろの年間の典礼の朗読から勧められたことは、神様の言葉を大切にすることです。つまり聖書を時々手にとって、神様が勧めるところを読み、その言葉がどのようにして実現されているのかを知れば、あるいはどこが自分に当てはまっているのか考えてみれば、神様の言葉の力、その行動、その癒しを見出すことができます。それを経験するために、ただ試すだけです。その言葉は神様の贈り物であり、それを通して素晴らしいことを創造します。その言葉は水をワインに変え、人の心をも変えることができます。そのみ言葉はイエス様ご自身です。
「ルカの福音書 4・21-30」
 イエス様の本性は人間には神秘的なことであり、神様だけに知られています。人々はイエス様に近づくと、その神秘的な存在を感じます。イエス様と神様とのかかわりは人間が想像できない神秘であり、愛に包まれた深い結びあいです。確かに人にとって人を知るのも簡単ではありませんが、イエス様のことを知るのは特別な経験になっています。今日もイエス様の時代と同じように、イエス様のことをはっきり知らずに自分の狭い観点から見る人もいます。先週の福音書と同じように、イエス様は神様のみ言葉であり、この世に来られて素直に誰にでも受け入れられたのではなかったのです。イエス様がナザレの会堂で説教されたとき、神様の言葉は歴史の中で実現すると思うファリザイ派と違って、み言葉は自分に当てはまって実現すると宣言しました。ナザレの人々がそれに対して自分勝手な発言を加えて、イエス様は人間にすぎないものであり、ヨセフとマリアの子であることを強調します。ナザレの人々の態度を戒めて、イエス様が預言者のように自分の身内でさえ受け入れていないと訴えています。しかし身分の低い、外国人であるシリア人のナアマン、またなんの資格もないとされていたフェニキアの未亡人は、イエス様の言葉を受け入れて救いの喜びを味わうことができました。この出来事によって、この世でイエス様が来られたのはイスラエル人のためだけではなく、全ての人の癒し、救い、全世界の全ての人々の幸せのためだとわかります。なんでも知るように示していたナザレの人々はイエス様を拒み、その拒否はイエス様の最大の拒否である十字架上の死のことを予言します。神様は無償でいろんな人に、特に資格のない人々まで自分自身を贈り物として与え続けたのです。時代、場、人によってイエス様のことを受け入れていない人もいます。しかしイエス様とそのみ言葉を受け入れる人は、喜びの癒し、自由を感じ、救いを味わうことになります。
                                          モヨリ神父 

主の洗礼の主日 

2016年01月04日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 キリスト信者も感謝のこもった心で新年の行事を楽しみながら、イエス様の公生活をたどることから新年が始まります。今度迎えるのはイエス様の洗礼の主日です。確かにイエス様の洗礼と言う表現は不思議に聞こえます、しかし、その時イエス様は普通の人間の行列に並びながら心の回心を求めて、神の子であることを明らかにします。同時に主の公現、主の洗礼の主日、カナで行った奇跡を通してイエス様が世界に人間と神である姿を示しています。それだけではなく同時に私たちも神様の子であることを知らされています。
その後(一つ)を強調している年の始まりには、イエス様の教会はひとつになるように呼びかけています。歴史のあらゆる出来事によって、人間の間のコミュニケーションの不足によって、欠点のある人間の心の結果として、イエス様の共同体はいろんな形で分裂し分けられて、イエス様が教え残した唯一真の愛の証の教会が成らない時があります。だからこの頃、イエス様の教えに従う教会は一つの教会に成るため、一緒に同じ言葉で祈るように考えています。
「ルカ福音書 3・15-22」
 主の洗礼の主日はおそらく、初代キリスト信者にとって自分の洗礼のための要理だったと考えられます。この主日によって確かにキリスト信者も自分の洗礼の意味を深めます。当箇所は聖霊で洗礼を授けることでそれによって、神の子になることが強調されています。神の子であるのはイエス様だけではなく、私たちにまで及んでいます。さて、ルカの福音書は二つの場面に分けられています。まず洗礼者ヨハネが自分の立場を明確にします。次にイエス様がメシアであり、神の子であることを啓示されています。洗礼者ヨハネは、自分はメシアではない、ただ一つの声にすぎず、自分の洗礼の意味は回心を求める洗礼であって、メシアが授ける洗礼とは大きく異なると明らかにします。メシアであるイエス様は霊と火で洗礼を授けます。このような洗礼を受けたイエス様自身が自分に従う人々にも授けられています。このような洗礼をいただくことによってイエス様に従った人々はイエス様の弟子たちの聖霊降臨の時と同じ経験をします。当福音書ではイエス様の洗礼が素朴に語られていますがその時、素晴らしい知らせが告げられます。イエス様は普通の人として、皆と同じに洗礼を受けます。しかし聖霊で満たされて、聖霊の中で生きるようになっています(鳩の姿で聖霊が降ってきた)。それによって神の愛する唯一の子であることを宣言されて、お祈りの中で神様の思いに溶け込んで人類の救いの計画を自分の人生で実現されることになったのです。イエス様が聖霊の力でお生まれになって、人として生活をされ、ご自分の死と復活において聖霊の導きで神様の人類のための計画を成し遂げられました。イエス様に従った者たちも聖霊の働きによって、イエス様の運命と一致して人類の救いを求めています。       モヨリ神父     

お正月と主の公現の主日  

2015年12月29日 | 神父様からメッセージ(C年)


イエス様のことを愛される皆様へ、

迎春 新年おめでとうございます
 正月用意として餅搗きは、一家総出の行事で、そのにぎやかな掛け声や杵の音を聞くと、一足早くそこに正月が来ているようで嬉しかったものです。一年の節目である大晦日の夜が「除夜」です。「大年」「年の晩」「除夕」ともいわれるが除夜が一般的です。正月の準備も整い、各家庭ではテレビの前でくつろぐ。やがて除夜の鐘を聞き一年の善、悪をみな取り除いて、めでたく新しい年を迎えるのです。以前この夜、子供たちの枕もとに下駄、独楽、羽子坂などが置かれ、楽しい夢を育んだ思い出があります。冬の厳しい寒さの中、水仙の小さくかわいらしい花が咲きます。水仙は雪が降る中でも咲くので「雪中花」の別名ももっています。水仙は地中海沿岸が原産で、その昔、シルクロードから中国を通って、はるか日本まで伝わってきたといいます。24節季の小寒と大寒を迎えても場合によって、晴れて暖かい日があって、お日様は青空の中から地球を暖かく照らします。小春日和といいます。これと同じように秋から初冬の暖かな日を表す言葉が海外にもあります。アメリカでは「インデイアンサマー」と言います。ドイツでは「老婦人の夏」、ロシアでは「女の夏」など、海外では夏と表現しているところが多いようです。中国では「小陽春」で、日本でも同じく春と表現されています。このような豊かな思いの中でキリスト信者も新しい一年に向かって、神の聖母を祝いながら、心と世界の平和を祈り求めて、全世界に救い主が生まれてきたことを告げ知らせることを望んでいます。それが今度の主の公現の主日の意味です。
「ヨハネ福音書 1・1-18」
 イエス様を信じた者の共同体は神の子、神の国の一部であり光としてイエス様を受け入れ、大きな喜びの中で全てを神様からいただいていることを感じています。神様の光は人類に与えたられた知恵であり、それによって人は神様の思い、イエス様を通して示された愛を理解します。当福音書の主なテーマは「光」と「命」です。言葉であるイエス様は「本当の光」です。「言」とは道「どう」とも読めるのでイエス様がおっしゃったようにご自分が「道」「真理」「命」であることを示しています。み言葉は(イエス様)肉となって人類にとって光―命となりました。それを得るために人はみ言葉であるイエス様を人間と神様として自分の心、自分の思い、自分の人生に取り込んで受け入れています。み言葉としてイエス様を受け入れる人はイエス様に従って同じように行うのです。つまりイエス様の使命をキリスト信者はこの世で自分の人生の中で行いつづけています。神様の知恵は神様の口から宣べられた言葉になって、イエス様と同じように人類に贈られました。知恵は人類の間に宿るようになって、知恵を通して、知恵と共に人類は神様に礼拝します。むしろみ言葉の知恵を通して神様が人類とのつながりになって、人類を神様の方に向かわせながら、神様が人類にご自分の顔を見せています。人類の根本的な使命は神様の秘められた普遍的な宝を知ることです。このような思いの中でイエス様が人類の間に生まれて太陽のように私たちの目の前に昇ってきました、このような暖かい光に照らされて、東から来られた三人の博士と同じように、太陽の中で秘められた神秘的な世界をずっと仰ぎみるようにしましょう。      
                                  モヨリ神父

C年 聖家族の日  

2015年12月21日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 確かに2000年前からイエス様の誕生を祝うキリスト者たちが社会、文化、貿易にも大きな影響を与えましたが、人の心にも素晴らしいメッセージを伝えられたと思います。イエス様の誕生を知らない方でも、クリスマスのメッセージ、その優しさと喜びを素直に受けてお祝いします。賑やかな飾りはクリスマスの喜びを表現します。その喜びは神様と人類の接点から始まります。神様はご自分の胸元に人間一人一人を抱き寄せながら、ご自分の欠かせない愛情を示しました。人類の歴史、神様の歴史も一つになり、両者一緒に歩き始めました。神様がご自分のことを弱い少女の腕にゆだねながら、人間の救いの計画を望まれる神様の思いの心を明らかにされました。そのように神様と人類が神秘的に結ばれています。キリスト信者にとってクリスマスの核は大きな喜びです。それは神様ご自身が人類のための贈り物になって、人類が神様の懐の素晴らしさを見出すことが出来たのです。
クリスマスは子供用の優しい物語だけではなく、過去に起こった出来事の記念だけでもありません。私たちの心の中で、生きておられる神様の普遍的な愛を祝う時です。プレゼントを見る子供の目が輝くように、キリスト信者は神様から頂いた贈り物のように馬小屋でお生まれになった幼いイエス様を見つめて、目も心も輝いています。
「ルカの福音書2・41-52」
 降誕祭の時に神様が人類に与えた命、愛情も皆の間に宿るようになりました。それを置かれたところは家庭です。降誕節の第一の主日が聖家族の主日でお祝いされるのは、人間の間、家族の間でそれは神様が置かれた愛情の暖かさを思い起こすためです。聖家族、つまりイエス様、マリア様、ヨゼフの家族は神秘的な私たちの家庭の模範と手本になっています。ヨセフとマリア様はエルサレムから帰る途中でイエス様の姿を見失って、慌てて心配しながら探していました。神殿で少年イエス様を探し当てた時にイエス様の答えは親に向かって「…わたしが自分の父の家にいるのはあたり前だということを知らなかったのですか。」というものでした。確かにヨゼフとマリア様にとって、分かりにくい言葉でした、しかしその言葉もヨゼフとマリア様が耳にした時、同時に私たちの心にも良い知らせ、福をもたらす音「言葉」になりました。イエス様がこの証言によって、ご自分が人間でありながら神の子であることを示し、又与えられた使命、神様の思いに従いながら神秘的な存在を伝えてくださいます。
イエス様の親との絆、神様とのつながりはキリス信者にとって参考になっています。洗礼を受けて神の子となったキリス信者は自分の家族の絆を大切にし、神の子として人生を送ります。同時に親である者たちも神様と一緒に、その父性とその母性を分かち合っていて神様と一緒に親になり、創造主である神様と一緒に愛の中で新しい命を創造します。親たちは自分の子供を見て神様と共に「君は私の子」と言えることになります。このようにご自分の両親に対する少し冷たいイエス様の答えは、実際に再び良き知らせとなったのです。               
                          モヨリ神父

クリスマス~2015年

2015年12月20日 | 神父様からメッセージ(C年)
菊池ー山鹿カトリック教会の皆様に心から、素晴らしいクリスマスを迎え、大喜びで満ちたクリスマスや幸せなクリスマスを願い、おめでとう申し上げます。一人ひとりがこの時だけでもすべてのご自分の人生の苦しみを忘れて、神様の神秘的な愛情だけを味わうようにお祈りいたします!!
山鹿教会の馬小屋をごらんになってください!!。

C年 待降節第四主日

2015年12月15日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 先週の朗読によって典礼から大きな喜びを味わうように勧められています。降誕祭の身近な準備の聖なる九日間に入りました。今年も羊飼いのように、三人の博士のようにイエス様がお生まれになった所に何を持っていけばいいでしょうか、羊飼いは自分の労働の実りを、三人の博士は人間の希望を満たす贈り物をイエス様の前に置きました。私たちの場合、洗礼者ヨハネの言葉に導かれて考えてみたいと思います。たとえばイエス様の飼い葉桶の前に置けるのは、人との心の分かち合い、自分の持っていることへの満足感と感謝の心、人を慈しみの目で大切にする心などです。洗礼者ヨハネだけではなく、マリア様の姿も、おいでになる神様をどのようにして迎えるべきかの模範になっています。確かに生き生きとした福音書は参考になります。
「ルカによる福音 1・39-45」
 待降節の第四主日は降誕祭の目前です。マリア様の母の心を紹介しています、マリア様はどのようにしてイエス様の誕生を期待されたのか、私たちにとって模範になります。
天使ガブリエルから告げ知らせられた「しるし」によって、イエス様がマリア様の心に宿るようになったことは、マリア様にとって大きな喜びの中にも隠せない心配もありました。その後、マリア様は自分のいとこエリサベットのところにいって、その出会いと対話によって神様から頂いた「しるし」、それが神様の憐み深いやり方であることを確認されました。それだけではなく、神様の「しるし」に明確に目を開かれた時に、マリア様の心の中から素晴らしい歌がわき出て、私たちにとって大きな喜びの歌となりました。弱い立場に置かれたマリア様もエリサベットも、神様の恵みを受けて身ごもりました。二人とも神様の救いの計画の道具となってメシアの誕生を迎えています。マリア様はご自分の心の中で起こった素晴らしい出来事がエリサベットの心の中でも起こったことを知り、神様の神秘的な計画を確かめることになりました。これほど弱い者でありながら、これほど神様に恵まれた彼女らの喜びは素晴らしい歌にかわったのです。エリサベットから、やがてこの世にメシアが来られる準備をされる方が生まれようとしています。昔から旧約聖書において予言されたメシアの到来が実現しようとしています。このように人類にとって神様との新しい出会いが始まります。神様の姿である肉となったイエス様は新しい神様との礼拝の場になりました。同時にマリア様は神様のお母さんになりました。このような神秘的な計画の中で、聖霊の役割はとても大切で、見逃せない働きです。聖霊はすべての出来事の原動力であり、マリア様の心の中に神秘的な命を置かれました。マリア様は聖霊の力に満たされて、その存在によって、エリサベットの身ごもった出来事を理解され、神様の望まれる人類の救いの計画に自分自身をすべて委ねられました。

                                  モヨリ神父 

C年 待降節 第三主日 

2015年12月09日 | 神父様からメッセージ(C年)

 12月の初めから馬小屋の方へと歩み来た友は何人いるでしょう、ご紹介したいと思います。12月3日フランシスコ・ザビエルの祝日でした。フランシスコ・ザビエルの情熱は自分のところに止まらないで世界に向かい、その希望と情熱は皆の心の中に確かに残ったと思います。12月6日に福音書の中で登場したのは洗礼者ヨハネでした。神様の方に行く道を示してくださり、積極的に神様のところに行ける道について案内してくださいました。12月8日無原罪の聖母の祭日でした、マリア様は神様を見る清い心を現わしてくださいます。神様との出会いを求めるキリスト信者は、フランシスコ・ザビエルの情熱、洗礼者ヨハネが勧められた回心と徹底的な準備、そしてマリア様の清い心に支えられて、この世に来られる神様を迎えます。イエス様は幼子の姿で神様として私たちのところにやって来られ、私たちの人生や心も大きな喜びで満たされます。この時こそ「待降節」の中の「降る」という字の意味が明確にされます。神様の恵みがマリア様を覆われたように、イエス様に従った私たちのことも包んでくださいます。この時にキリスト信者はマリア様のように恵まれた者として、また洗礼者ヨハネのように自分の人生を神様の計画にゆだねます。そして聖フランシスコ・ザビエルのように神様に派遣されて、全世界の全てのところに神様がこの世にもたらした愛を告げ知らせます。
「ルカによる福音書3・10-18」
 当主日の朗読では、この世にイエス様がもうすぐ来られるという大きな喜びが中心的な話になっています。神様の人類の救いの計画は過去から徐々に実現されて、未来の完成の方に進んでいきます。洗礼を受けたキリスト信者は自分の救いを歴史の中で読みとっていて、ずっと神様との再会を求めています。「喜び」というのが第一と第二朗読の課題であり、その背景の中で福音書の意味も読みとるべきです。イエス様が「断食する時(回心)、油を塗り、顔を洗いなさい…あなたの父は報いてくださる!」と言われたではありませんか、だから、ふさわしくメシアを迎える為に洗礼者ヨハネが勧められた心の回心、犠牲なども必要な準備です。救い主が来られることは皆にとって、限りのない大きな喜びの時です。当個所は解説者によると、ルカの共同体において行われた洗礼志願者の準備を書かれているとのことです。求道者の心の中にある質問は、当個所の中心になっています。「私たちはどうすればいいのですか。」洗礼者ヨハネは回心を求める人に心を配ること、正義を行うこと、困っている隣人を愛することを勧めています。このように神様は小さいもの、この世が憎むものを愛しているのです。その中に罪人、社会に嫌われた兵士たち、法律を知らない者は皆、神様に愛されて神様に近づくことができます。誰も神様から追い払われていません。どんな弱い人間でも神様に探し求められているのですから、それは人間の喜びの理由であり、キリスト信者の終わらない喜びの泉です。                 
                         モヨリ神父

 C年 待降節 第二主日

2015年12月01日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 待降節第二主日を迎える私たちの心の中で、クリスマスに向けていくつかの思いが浮かびます。特別に「待つ」と言う事です、待つ心は期待することによって生き方の態度も変わってきます。たとえば家族が夜おそく帰ってくるお父さんを待つのは大きな心配を伴った思いの中で、どれほど帰ってくることを期待するでしょう、理解しやすい例えだと思います。詩篇で例えられる日の出を待っている番兵も、夜の怖さを乗り越え、昇ってくるお日様の光と共に自分の心の喜びも湧き上がってきます。もうすぐ子供が生まれてくるお母さんの期待する心も、やがてイエス様の到来、雲の上からやってくる救い主の期待のために参考になります。み言葉によってイエス様の身内になった私たちがイエス様の帰りを心から期待しています。日の出の光よりも私たちの人生を照らすイエス様が来られることを待ち望んでいます。愛されて、愛するお父さんのように待つ救い主は私たちの人生や働き、思いも満たしてくださいます。私たちの家にやってくる赤ちゃんのように、新しい命は私たちにとってかかせない存在であり、私たちと一緒にずっと歩みつづける神様です。このような神様の訪問を期待するキリスト信者にとって待つ方法はクリスマスまで大きな課題になっていますから、それに答えるためにルカの福音書は素晴らしいヒントを通して手伝ってくださいます。
「ルカによる福音書3・1-6」
 イエス様がやがて来られる準備のために、私たちと一緒に歩みつづけるのは洗礼者ヨハネです。教会の初期のころから、洗礼者ヨハネは旅の友として選ばれ、キリスト信者と一緒にやってくる救い主を待つ心の模範を示していました。当福音書は全部洗礼者ヨハネを中心にして、洗礼者ヨハネの預言者としてのその活動を語っています。神様が土から人間を作ったように、砂漠から洗礼ヨハネを呼び出して救いの計画を創造します。洗礼者ヨハネは自分の厳しい生き方によって、自分の言葉を通して、自分の人生の締めくくりによって、牢獄で救い主の証となっています。洗礼者ヨハネは私たちと信仰の道を歩みながら、神様の方へ導く道を教えてくださいます。実はこの道は私たちの心の中に働いて、神様の方へ心の回心を行います。「心の回心」とは一所懸命に洗礼者ヨハネに勧められた心の働きですが、実際に愛と慈しみに満ちた心でイエス様を知ること、弱い者を助けること、神様の正義を見せる行いです。待つのはキリスト信者にとって、道端でだれかが通るのを漠然と待つのではなく、洗礼者ヨハネと一緒に回心の道を歩みながら、情熱と愛で満ちた人生と働きによって、神様との出会いを心から待ち望むことです。
                            
                                 モヨリ神父

C年 待降節 第一主日

2015年11月25日 | 神父様からメッセージ(C年)
  

 神様の救いは聖書では雨、雨が降ることに例えられています、雨が降って、土をうるおし大きな収穫の準備につながっているのです。枯葉は落ちても、滅びと空しさのしるしだけではありません、枯葉が落ちることこそ春を迎える準備になり、新しい命を育んでいるしるしです。冬の間に咲くお茶、山茶花の花も冬の間に咲くクリスマスの喜びを例えています。クリスマスまでその準備のため、とても貴重な四週間が残っています。それは待降節(ADVENTUS)と呼ばれて 1600年前にスペイン典礼の中から始まってしばらくの間全世界の典礼に取り込まれています。この時新しい典礼の年が始まり今度C年に入りました。福音書の朗読もほとんど「ルカによる福音書」が中心に朗読されます。
さて、キリスト信者にとって忘れてはいけないのは待降節の精神です。イエス様は約束された通り再び来られます。その出会いを期待する、積極的に待つ、目を覚まして自分の人生の改心を求め、絶えず忍耐の中にあることなどが待降節中の心構えです。
「ルカの福音書21・25-36
 当福音書のこの箇所はイエス様との再会を期待する人々の心が描かれています。この世の終わりのこと、宇宙万物の破壊のことは一般の人にはそれを想像して、恐れ、不安を起こす出来事ですが、キリスト信者には解放と安心の時になっています。キリスト信者は安心して人類に慈しみのある審判(イエス様)を期待しながら、色々な悪から自由にされる時、完全に赦されることを待っています。その時イエス様から、喜びのしるしとして目(頭)を上げるように勧められています。実は目(頭)を下げたのは神殿で祈る罪人でしたが、この時、イエス様に目を上げるように勧められたのは完全にイエス様から赦されて、悪から解放されたことを示しています。イエス様の再来を期待するキリスト信者は地上的な心配に追われないように神の言葉を読み、それを大切にし、深めながら待っています。それに従って、欠かせない心の態度は二つあります。目を覚ますことと祈ることです。このような心の態度をしっかり持つことにすれば、キリスト信者にとって最大の誘惑が現れる時に、つまり信仰を失おうとした時に耐えることが出来ます。それだけではなく、目覚めて祈るのは共同体の中で隣人愛、分かち合いをも実行して神様の愛に倣うことです。このようにキリスト信者は神様に愛されています。イエス様の再来は人類を裁く時でありながら同時に皆、全てが神様の慈しみと憐みに包まれる時になります、その時に皆、神様の懐に大きな愛情の中に受け止められるのです。
                          
                                モヨリ神父

C年 年間第三十三主日 

2013年11月13日 | 神父様からメッセージ(C年)
  だれでも未来の計画を考える時、人間の思いと希望がずっと永久に続くと思っています。しかし、この世、神様からいただいた宇宙万物も終わりの日、しめくくりの時へ向かっています。それを知る、日常生活の中で体験するキリスト信者は豊かに思いを巡らせ、それに従った有益な人生を送ります。物理的なものは一切人間を縛る権限をもっていません。人間の心は自由であり、より高い理想を目指しています。この世は人間にとって仮の住まいであり、神様のところで永久に生きることをあこがれています。あくまでも大自然やこの宇宙万物は、神様に造られて、それを楽しむため、神様の元に戻るまで人間に任せられています。最終的な目標は人間にとって永久に神様と一緒に生きることです。キリスト信者はこの世の物理的なものに心を執着させないで、この世を通過しながら、一切恐れることなく、より高い素晴らしい喜びのある目標を目指しています。そのために自分の人生を全て整えなければなりません。
「ルカによる福音」21・5-19
当福音書はイエス様の長い話の中の一部です。強調されるところはこの世、それに従って宇宙万物の終わりのことです。人間が頼る石で建てられた物は、いつか滅びてしまう時が来ます。イエス様は神様を愛する者たちに、神様の思いを大切にする者たちにも、丁寧に肯定的に話しかけ導かれています。神様を信じる者が安心できるものは石ではなく、イエス様の言葉や特別に聖霊の息吹です。ルカの福音書によると、この世の終わりにイエス様が再び来られることは、身近に起こる出来事ですから、キリスト信者にとって安心できる約束なのです。そこに至るまでに起こるのは、偽メシアの登場、天体のあらゆる恐ろしい現象、イエス様に従う者への迫害などです。偽メシアはイエス様と違って自分がメシアであることを宣言し、自慢するものです。そしてはっきりと未来についていろいろ告げ知らせたりします。未来についてはっきり語られないイエス様でも自分の弟子にその偽者に従わないようにとはおっしゃっています。起こるであろう恐ろしい出来ごととは、戦争、暴動、地震、飢饉などです。イエス様が自分に従った者たちに対して、それらのことを恐れないように勧め、支えられています。一般の人々はこの時に恐れに抱かれるだけですが、キリスト信者はイエス様に、イエス様の言葉に信頼して、恐れる時があっても冷静に乗り越えることが出来ます。そして世間から拒否され迫害されることも、寂しさ、孤独感なども含めて、キリスト信者は聖霊に信頼して、イエス様と同様の経験をしながら、イエス様と同じように死に向かっても復活の喜びの希望をもっています。支えはイエス様の霊に対する大きな信頼だけです。イエス様は約束されたことを完全に守ってくださいます。イエス様に従った者たちや、イエス様の苦しみを同様に体験した者たちは滅びないのです。イエス様がおっしゃっています。:「あなたがたの髪の毛一本もけしてなくならない。」と。言いかえれば、最後までいろんな苦しみを耐えてイエス様の言葉の知恵に支えられた者だけが、復活の喜びを味わうことが出来るのです。
                                        モヨリ神父

C年 年間第三十二主日 

2013年11月07日 | 神父様からメッセージ(C年)
だれでも死を考えるとその後に何があるのだろうかと思います。つまりどんな人間にとっても、どんな時代でも、人間が「死の後」について悩み、あちらこちらとその悩みの答えを探し求めました。無神論者の答えは、イエス様の時代のサドカイ派と同じように、死んだら全てが終わり、何もないと思っていました。しかしどんな宗教でも、信仰をもつ者にとっても、死の後は神秘的な世界に入り、永遠に生きることを理解し認めています。キリスト信者にとっても、死の後は神秘的な方法で永遠に生きることです。生きるだけではなく、イエス様の約束によって、イエス様が皆の為に天国で準備してくださり、皆を待ち、受け入れようとしています。ご自分のふところの中に皆が集まるように、一人も滅びないように希望しながら、永遠に大きな喜びを供えてくださいます
「ルカによる福音書」 20・27-38
使徒パウロは、死後についてこう話しています。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために天国で住む場所を準備された」コリント(1)2―9。ヨハネ3―2も同じようなことを強調しています。使徒たちが強調するのは、人間が死後に素晴らしい真実を迎えるということです。その時にイエス様に従った者たちは、イエス様のいとしい者になるのです。当時のサドカイ派は、社会的に優秀な者で、司祭の一部も属していました。彼らの考えでは、人間の復活を否定していました。それでイエス様に、7人の夫を亡くした女性は死後だれの妻になれるのかと、イエス様を驚かし試す意図で尋ねました。その無防備な質問に対して、イエス様は優しく死後のあり様を、心から理解するように指導します。死後のこと、未来も、頭で理解するのではなく信仰の世界に属しているので、直感で感じる現実となります。イエス様は上記のように具体的な出来事から、聞き手を考えさせて、死後のあり様が現在のあり様と根本的に違っているとわからせようとします。
 イエス様はお父さんが子供に話すように死後のことを説明するよりも、ヒントを通して分からせようとします。キリストに従った者たちは、死ぬ時に素晴らしい天使のようになり、イエス様と一緒に復活して神の子のように永久に生きることになります。イエス様はサドカイ派の人が分かりやすいポイントを、もう一つ上げています。死は汚れの世界に属していますが神様は清いもので、聖人達から証されました。神様は死によって汚れるものではありません。神様は命の神であり、永遠に生きています。だから生きておられる神様のところに行く者、そして生きておられる神様に属する者は、神様と共に永遠に生きています。このようにイエス様に従う者は死後、未来に向かい何も恐れることなく、大きな希望と喜びに抱かれることになるのです。

C年 年間第三十一主日 

2013年10月30日 | 神父様からメッセージ(C年)

「期待する、待つこと」はキリスト信者の日常生活が置かれた状況です。待つ人は自分の平凡な人生の状況を認めて、より大きな喜び、助け、大きな愛情で包まれることを期待しています。キリスト信者は神に愛された方との出会いを待っています。その出会いを憧れて、望んで、そのために心の準備をします。それだけではなく、自分の人生全体を整えて準備します。皆を大切にされた方はイエス様であり、再び迎えに来られる、その到来を待っています。キリスト信者にとって、現在生きる世界は仮に神様から任せられている居場所ですが、喜びの中でずっと、神様と共に生きる時期をも持っています。
「ルカによる福音書」19・1-10
神様は命を愛し、好まれ、それを欲されたので、この宇宙万物を創造されました。当福音書のエピソードは、生きておられる愛で満ち溢れたイエス様の心を示しています。罪人は神様から愛されて、神様の命によって喜びの中で生きるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3・16.
ザアカイのエピソードは、素朴でありながら、生き生きとした感動的で素晴らしい背景を描いています。従順な人から歓迎される人に、歓迎される人から救われた人に変わります。登場する人物はザアカイで、徴税人であるだけではなく、その役目の頭の任務もしていた者です。最初にザアカイがイエス様を見ようとする目的は、なんとか利益が得られるかもしれないと期待したのです。確かに友情が目的ではなかったのです。しかしザアカイとイエス様が間近になった時に、イエス様がザアカイの方に目を注がれています。その時だけではなく、イエス様がいつも最初に愛する者に目を向けています。弟子になりたかった若者の時も同じだったのですが、その若者が金持だったのでイエス様の誘いを受け入れられなかったのです。反対にザアカイはイエス様の視線に打たれて、イエス様の愛で満ちた誘いの言葉を受け入れています。ザアカイの心はイエス様の温かい眼差しによって変身しています。ザアカイは放蕩息子のたとえ話に出てくる父親と同じように、大きな喜びでイエス様を受け入れています。欠かせない感動的なところは愛で満ちた出会いでした。ザアカイの場合、回心の火(しん)はイエス様との出会いでした。その後、ザアカイは自分の新しい人生の計画を宣べます。(人に…返します)自分の財産を人に施すようになります。イエス様と出会える道は沢山あります。いつもどんな時でも、イエス様がわたし達を探し求めています。わたし達の方も、謙虚に心を開いてイエス様を受け入れることにすれば、イエス様の力でわたし達の人生を素晴らしい出来ごとや大きな喜びで満たすことができるのです。
                                    モヨリ神父