カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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B年 年間第28主日 

2015年10月08日 | 神父様からメッセージ(B年)


 十月はロザリオの月で、皆さんがマリア様に結ばれて天国の喜びの方に引きつけられることになっています。ロザリオは観想の祈りで、それを通してイエス様の生涯を黙想します。それにお祈りでありながらマリア様への深いつながりをつくり、マリア様からたくさんの恵みをいただくことができます。日常生活で悩む時にロザリオを手に祈り唱えれば心が支えられ平穏な安らぎを得ます。また十月がもたらした贈り物の籠の中に「世界の宣教の日」もあります。その時教会の目標が明らかになります。それは全世界にイエス様の愛、イエス様の言葉、復活されたイエス様の命が広がるお祝いなのです。キリスト信者はイエス様と同じように全世界を愛して全人類の救いを望んでいます。このような神様からいただいた使命をどのように果たすべきかとキリスト信者は日々模索しながら努力しています。これは押し付けられたような義務ではなく、神様に対する感謝を現わすためにイエス様の使命を自分の使命として、全世界に神様の愛を告げ知らせる努力なのです。
「マルコによる福音書 10・17-30」
 イエス様に従う人の信仰は何度もいろんな時に試されています。人間には思い通り自由な心で動くことを赦さない、心を縛る力があります。それは「富」のことです。聖書でのこの言葉には実際的な富の力、または人間の心を富への愛着で縛り悩ませること等全て含まれています。だから当福音書はキリスト信者が自分の人生の中で正しく、自由な心で一番いい選択をすることを勧めています。現在ある世界と霊性の世界との調和をもとめるイエス様が勧めることは、現在ある世界を廃止するのではなく、むしろそれに係わりながら、自由な心またはより良いことを神様の光栄のために自分の人生に神様の贈り物として取り入れることです。人間にとって、そのような冷静な選択は簡単なことではありませんが、神様が送られた聖霊の光によって実行することが出来ます。イエス様の言葉、イエス様がなさった全ての出来事もいつも「死と復活」過ぎ越しの神秘、という枠の中に見られます。今回も富の力は人間の心を滅ぼすのですが、洗礼の時に問われたように、それをより素晴らしい生き方のために拒否できれば神様との出会いの喜びを味わうことが出来ます。神様と同じく「善い」であるイエス様のところに来る人は確かに熱心な者で、掟を全て守る人です、しかし気づいていなかったことがありました。イエス様が見つめる目です。その目は神様の愛を語っています。私たちが神様の方へ進む前にその目が私たちを引き寄せてくださいます。そして、旧約の神様の愛の約束を実現されたイエス様が、出会った人に一つのことを勧めています。神様の愛に自分の人生で応えることです。
                                  モヨリ神父

B年 年間第22主日

2015年08月25日 | 神父様からメッセージ(B年)

今年のお盆にも、多くの人は故郷に帰られて家族や知人達との久しぶりの再会の時をもたれたことでしょう。このような経験は誰にでもあります。この時こそ、私たち皆の欠かせない故郷を考えてみると大きな感動を覚えます。それは神様の懐です。そこで神様の命で生かされ、そのいただいた命を自分の人生で色々な良いことで豊かにし、それを感謝の心で神様にお返しし、やがて出てきた故郷に戻ることになっています。皆さんが経験したように、故郷の思いはいつでも私たちの人生全てを不思議な光で照らしています。故郷は私たちに懐かしい思いを与えてくれますし、いつでも戻れるような希望をも与えてくれます。故郷は自分の心、自分自身の一部ですから自分自身のように愛するところになっています。さて、その皆の最終的な故郷は神様の心です。大きな希望を持ちながら、誰でもこのような里帰りを憧れています。そして秋に向かい、大自然も私たちの心もカラフルな色で染まっていきます。大いに愛された者、何でも許された者は感謝の心をもって、いつでもどのように良い行いで神様の恵みを返すことができるのか考え、祈りながら豊かに良いことで染まった人生を送ります。
「マルコ福音書7・1-23」
 神様の前で大切にされるのは儀式よりも人間の心です。神様のお住まいになった人の心からも良い思いも、悪い思いも出てきます。神様は大きな愛情で人間に結びついて、愛の約束としていくつかのルール(十戒)を定めました。しかし時間が経つにつれて人間は神様との愛の約束のことを忘れて、ルールや法律を拡大しながらその数だけを増やしてきました。そしてその法律の目標を忘れ、その心の表面的な正しさを現わす形の方へ走るようになりました。その時に人間は神様との深い関係を忘れてしまいました。イエス様の話は人間の心の内側と外側を、その有り様を強調します。日本語の独特な言い方を使えば本音と建前の事です。イエス様にとって建前のこと、あるいは外側のことは、評価されないことです。人の目につく所だけから人の誉れと賛同を求めるからです。神様と係わるところではありません。人間の心は神殿であり、神様が宿るところで、良いことも悪いことも決める場です。そこで神様がご自分の愛情を現してご自分の姿を見せて、密接に人間の人生とかかわっています。ファリザイの人たちは、汚れた手を洗わないイエス様の弟子を責めています。確かに当時、このようなやり方は珍しく信じられないことだったようです。たとえば、数年後牢獄に入れられたラビ・アキバは手を洗わないで食べるよりも、ずっと食べないことはまだましであると言っていました。しかし、心の改新を求めるイエス様の答えは、預言者イザヤの言葉で答えようとします。その中にイエス様が求めるのは人間の心が神様に近づくことで、人間的な決まりによって離れないようにと勧めています。人間の心は神殿なのです。その中に聖霊が宿り、そこで神様を探し求めるところであり、美しさが存在するところ、光り輝いているところです。神様の御胸のように、良い計画、情熱、希望、決心も発生するところです。だから建物と違って、神様が肉でつくられた神殿です。つまり、イエス様に従った者にとってかかせない目標は、心と言葉、行いも一致させることです。                         モヨリ神父     

B年 第21主日 

2015年08月17日 | 神父様からメッセージ(B年)


 キリスト信者は楽しい時も、苦しい時も感謝の心を忘れないようにしています。ミサは感謝の祭儀と言われていますが、その感謝は一緒にいるものに対する感謝であり、この宇宙を創造された神様に対する感謝、いつでもパンとしてご自分の体をくださるイエス様に対する感謝です。キリスト信者はイエス様の知恵を受けて、パンのような生き方を模倣しています。典礼暦では8月22日が天の元后聖マリアの記念日にあたり、私たちも天国の喜びを味わいます。そして教会が模範的な2人の聖人の祝日に向かいます。聖アウグスチヌスとその母である聖モニカです。美しさを探し求めた聖アウグスチヌスは、自分の心の中にそれを発見しました。一方天国で生きることを憧れていた聖モニカは、この世でも自分の心、自分思い、自分の夢はずっと天国にありました。自分の人生の目標として、天国に行くことだけを望んでいました。このような聖人たちの足跡は私たちにも参考になると思います。
「ヨハネによる福音書6・60-69」
 当福音書のテーマは、人間の人生の計画を神様の思いに合わせて、神様の観点から正しく送るということです。自分の人生の中で神様の存在に気付いた人は、神様のために生きる、神様の方に進んで行く、このように生きるのが絶対的な人生の方針です。神様は時代を通して、色々な時に人間にご自分の愛の約束を授けました。しかし皆さんが自分の人生で経験したように、人間の反応は様々でした。当福音書でパンについて、食べ物、肉となったイエス様の体の話を聞いた弟子たちも、信じ難く、戸惑ったとあります。「誰がこんな話を聞いていられようか。」このようなイエス様の話は聖霊の光によらなければ理解できないと思います。その光なしでは確かに無理だと思います。さて、そんな私たちのために、ペトロがイエス様に向かって大変綺麗な祈りを祈ります。「主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」人間の心の中で信仰と理性はよく戦うものですが、救いを求める人間は、最終的にイエス様の言葉を受け入れるのです。使徒ペトロは使徒たちの代理として、自分の心の信仰を告白し、永遠の命をくださるイエス様は唯一の先生であることを宣言します。このような言葉で、使徒ペトロはイエス様の思いと一致して、完全にイエス様に従うように心の決意を現わしています。同時にイエス様は弟子たちに下さる永遠の食べ物について、神の聖者であるご自分の正体を現わしています。イエス様は人を集めるために自分のメッセージを和らげようとはしていませんでした。信仰と勇気のある人の心に呼びかけて、自分と同じように神様の思いに溶け込み、皆の食べ物になって生きるように勧めています。        
                          モヨリ神父

B年 第20主日 

2015年08月11日 | 神父様からメッセージ(B年)

     キリスト信者にとっても亡くなられた親族、友人、恩人は、まだ生きている私たちに天国の方に大きな窓を開いてくださり、そこからこよなく美しい風景を紹介してくださいます。その中に天に上げられたマリア様の姿を見せてくださいます。マリア様は神の母であり、私たちに神様の姿、神様の心を示してくださいます。それだけではなく、仲介者として一人一人を見守っています。さてこの時、その普遍的な絶景のような天国に入るのを期待しながら、マリア様の取次を願い、涙をこぼし続ける人々のために祈ります。天国の神様の懐で、マリア様のほほえみ、私たちの愛情込めた祈りがご先祖に届くように期待されています。
「ヨハネによる福音6・51-58」
 イエス様の時代の律法学者たちは、メシアの食卓の客であると思われています。聖体をいただくのはイエス様と一緒に食卓で食物を食べるだけではなくイエス様自身、イエス様の体、イエス様の心をいただくことになっています。そうする人はイエス様と同じ運命に従って復活して永遠に生きています。イエス様は神様の心の知恵が肉となった「しるし」(秘跡)です。イエス様の肉を食べるものは神様自身の知恵とその心を受け入れ、神様自身をいただくことになります。ヨハネ福音書の命のパンについての長い章の中心になった言葉は「私は…天から下ってきたパン。」「私は…命のパン。」「私は…生きるパン」です。このパンは神様の肉、イエス様なのです。神様は苦しんでいる人に永遠の命を与えるために自分の肉、自分の知恵を食べ物とされました。イエス様の時代の人々にとっても私たちにとっても「イエス様の肉を食べ、血を飲むこと」という表現はとても厳しくて、驚くべきものです。しかし初代教会の時から今に至るまで、キリスト信者はその言葉を受け入れて信じてイエス様の命で生きることになっています。イエス様はこのような硬い話を和げようとはしません。イエス様の肉を食べること、イエス様の血を飲むことは人間的な世界では受け入れがたいものですが、神様の神秘的な世界の経験です。イエス様の時代の人々にとって肉と血のことは「命」そのものでした。今日でもこのように神様がご自分の命を与え続けています。現代こそ、今までのどんな時よりも人間が命を憧れているのではないでしょうか。自死する人は本当はより多く、深く、命を憧れています。神様はイエス様の体を通して人類と一致することによって、ご自分の心、ご自分の知恵、ご自分の命を私たちの心の中に永遠に注ぎ続けておられます。
                         モヨリ神父

B年 年間第19主日 

2015年08月05日 | 神父様からメッセージ(B年)
  とても暑い時期に入ります。平和の旬間において欠かせない理想として世界の平和を祈りながら、教会の暦と信仰に関するいくつか大変素晴らしい祝日を迎えることになります。主のご変容の祝日(8月6日)、聖ドミニコの記念日(8月8日)、聖ラウレンチオの記念日(8月10日)、聖クララ記念日(8月11日)、聖マキシミリアノ・マリア・コルべ司祭殉教者の記念日(8月14日)、ご聖母の被昇天の祭日(8月15日)です。聖人たちの祝い、そして教会の祭日も、天国の方に歩んでいく私たちにとって、灯のようにまた矢印とも支えともなり、私たちに残された聖人たちの足跡は神様の方へ行く確かな道を示してくださいます。復活されたイエス様が贈り物のようにくださった平和の心は、この頃特に強く考えるように勧められて、次の世代のためにこの大切な価値観を築くように誘われています。そのために支えてくださるのは、丁度この頃お祝いする聖人たちの立派な生き方です。
さて、中でも聖母の被昇天はマリア様の祝いであり、私たちに天国の方に一つの窓を開いてくださいます。ぜひそちらの方に目と心を向けましょう。人生を鮮やかに色どる理想を見出すことができます。
「ヨハネによる福音6・41-51」
 キリスト信者にとって人生は巡礼に似ています。信仰がこの歩みを支えながら、永遠の命に導く道を照らします。ヨハネ福音記者がイエス様のことを、永遠の命の方に不思議に歩み続ける私たちの人生を支える天から降ってきた食べ物として紹介します。このように巡礼のような人生を送るのは、神様のことを知って憧れた人だけです。たとえば旧約聖書では、預言者エリアがオレブ山の方に歩んでいた時に、神様のパンに支えられて歩き続けました。当福音書の中心的なイエス様の言葉は:「わたしは…です!」このような表現は神様がオレブ山の上でモーセに伝えられた自分の名前を思い起こしています。次にイエス様が自分の正体を現わしながらつけ加えるのは「私は…天から降ってきたパン。」「私は…命のパン。」「私は…生きるパン。」当時の人々はイエス様のことを、その親戚やその出身もよく知っていたつもりで、イエス様が神様の権威をもって(私は…です!)と言われても、天から降ってきたことは分からなかったのです。神様が派遣してくださったイエス様を知る人、そしてそれを信じる人だけが永遠の命を得られます。荒野でイスラエル人たちが食べた食べ物はあくまでも食物であり、神話・伝承の中でいただいた食べ物でした。イエス様が伝承と現実的な世界を超えて、天から降ってきた食べ物であり、人間に命をくださる心の食べ物として現われています。このようなイエス様の姿を見せることで、私たちがイエス様を人間として、また言葉とメッセージとして、すべて受け入れるために呼びかけられているのです。天国の方へ旅の途中の教会は、天から降ってきた普遍的な食べ物に支えられて、イエス様の言葉において信仰を守りながら、いつか神の御顔を仰ぎ見る時に達することが出来ます。

B年 年間第18主日 

2015年07月30日 | 神父様からメッセージ(B年)
あちこち夏祭りで賑やかなこの頃、近くの祭りに出かけて金魚すくいの水の中をじっと見ていましたが、目は金魚に向いていても心は違うことを考えていたりします。父母への懐かしさ、恋しさがこみ上げてきます。幼い頃、両親と仲良く金魚すくいをした思い出はありませんか。一人でいる日暮れの寂しさに蘇る風景があります。祭りの喜びは花火のように一瞬華やかで心踊るものがありますが、それはすぐに消えて、より寂しさがつのったりするものです・・・・・
 しかし、キリスト信者は毎週、主の日に神聖な祭りを迎えます。キリスト信者はその時に味わった喜びをずっと、心の中に保ちながらより普遍的な喜びを味わい、その時、その後もずっと日常生活を喜びが染めていきます。キリスト信者は主の日に神聖な祭りの中でイエス様を通して神様に感謝し、イエス様と共に神様に自分の人生を奉献し、イエス様から頂いた命で生きるのです。
 さて、今週8月6日から平和旬間が始まります。この間に求める平和は戦争のない世界です。けれども、戦争のない世界は正義の土台の上に建てられて、自己中心的な考えを超えた広い心を持った社会の上に立っています。そのために私たちに何が出来るかが欠かせない課題になっています。まず、人類が皆、誰でも神様が告げられたようにお互いを愛すれば、人を愛する心が平和な世界への一歩になります。しかし何もできない私たちは、世界の平和のためこの頃に特に祈るように勧められています。なぜならこの様な平和は、人の力の対立によっては得られず人の心の憐みと弱さによって実現するものだからです。
「ヨハネによる福音6・24-35」
 イエス様のパンも旧約聖書のマンナと同じように天から降っています。命のパンであるイエス様自身、天から降っています。天から降っている神様のパンは世に命を与えます。実は人間の心は自分を満たすものを探し求めています。それは私たちに与えてくださった御言葉を通した神様の命です。当福音書で注目すべきことは、イエス様に対する群衆の質問です。「ラビ、いつ、ここに来られしたか。] 「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか。」「どのようなしるしを行ってくださいますか。」イエス様が心のこもった言葉でこの群衆の願いに応えようとします。群衆の質問は思い違いから発生しているとイエス様が気付きます。群衆がイエス様に求めているのは口にできる、飢えを満たす食べ物です。イエス様の答えは群衆の思いを超えて、手にとって食べられる物をしるしにして、その中に含まれた永遠の命の贈り物のメッセージを語っています。砂漠を歩き渡っているイスラエル人に、マンナが無償で神様から与えられた食べ物であり、当時の人類にたいする神様の憐みの象徴的な食べ物になりました。イエス様は全く同じように天から降ってきて、無償の神様の命を与える贈り物として人類を支えてきました。人間はイエス様に出会うことによってイエス様を天から降ってきた贈り物として受け入れ、信じるしかありません。信じるとは神様の業であり、それを受け入れる心が特別な幸せに達しています。モーセがイスラエル人の指導者として受け入れられるためにマンナのしるしを提供しました。イエス様も同じようなしるしになって人の注目を集め、最終的なマンナ(食べ物)であり、指導者であることを示しています、同時にマンナのような食べ物になったイエス様は、人類を満たされる命、人生の知恵であることを明らかにされています。  
                                モヨリ神父 

B年 第16主日

2015年07月16日 | 神父様からメッセージ(B年)
  当福音書では宣教活動から帰ってきた弟子たちに対して、イエス様が大きな注目を示しています。同時に指導者のない群衆にも大きな憐みを感じておられます。神様は派遣された者たちを通して人類に対するご自分の慈しみと憐みを身近に示してくださいます。さて、当個所は三つの部分に分けられています。1)12人の弟子が宣教活動から帰ってきてイエス様に報告します。2)弟子たちはイエス様と一緒に人里離れたところで休息をとります。3)イエス様が群衆に対して大きな憐みを感じられます。
弟子たちがイエス様に自分たちの活動について報告した時、行ったことと教えたことについて話しました。その教えは、イエス様の教えと全く同じでした。宣教した時に弟子たちはイエス様自身の口、手、足、になりました。活動の後、イエス様に誘われてイエス様がされたように弟子たちも静かな所に行き、キリスト信者にとって欠かせない思いと世界を示しました。つまり、イエス様が指示した場所は静かな所であり、自分の故郷(神様の懐)です。弟子たちは祈りの中で、自分ができたことに対して感謝し、自分のことを新しく見つめ直します。実は活動できたのは弟子達の力ではなく、彼らを通した神様ご自身によるものでした。最後にイエス様が指導者のない群衆を深く憐れみ、自分の言葉を与え続けられています。また明らかにされたことは、弟子たちにとって、休むことはイエス様の憐みを身にまといながらイエス様と一緒にいるということなのです。
                               モヨリ神父

B年 第15主日 

2015年07月09日 | 神父様からメッセージ(B年)
    昔のロシアのご絵は皆さんも知っていると思いますが「イコン」と言われ、天国の方に開いた窓とも呼ばれています。キリスト信者にとって、大自然の小さな美しい存在も神様の方に開いた窓になっています。
ところで、いったいキリスト信者は誰であるか、どのようなものであるか、イエス様の言葉で答えましょう。物事を完璧に行える者と思われますか、人生の中で間違わない人でしょうか、いいえ、そうではありません、イエス様の言葉や行いによってキリスト信者は赦されて、癒されたもので、イエス様の命で生かされているものです。

「マルコによる福音書6・7-13」
 どんな人間でも、その人生に神様から与えられた使命を持っています。皆が神の国を告げ知らせる為であり、それぞれに違った形でしかし、神様との結びの深さによって一人一人が派遣されています。このような使命で、全世界にイエス様の12人の弟子も派遣されました。旧約聖書では預言者アモスがそうでした。羊飼いだったアモスは、神様から預言者として派遣されました。では、イエス様はどうしてご自分の弟子を二人ずつ派遣されたのでしょうか。実は、当時の哲学者たちもそうしていました。確かに二人だと助け合えるという利点がありますが、二人だと一人が相手の証人になるように思われていたそうです。つまり、一人を通しての神様の働きにもう一人がその証人になったということです。イエス様に派遣された弟子の目的は、神様の教えを伝えること、悪霊に対する戦い、癒しの油を塗って病人を癒すことです。「汚れた霊に対する権能を授けました。」という言葉で、悪と戦う力と権利、すべての悪に対する支配権力をもっての派遣でした。実際的に勧められたのは、まず、宣教する権利について、つまり与えられた権利をどのように行使すべきか、そして貧しい中で携行する物、最後にいろんな所を訪れる場合、宣教活動の中でどのようにすれば良いかなど、暖かい言葉で教えられました。イエス様に派遣された弟子も先生と同じように神の国を宣べ伝えて築くのです。それを第一目標として、人の病む体と心を治したり、心の開心を勧めたりして、教えを広げようとしています。派遣された弟子たちは、あくまでもイエス様の権威を分けてもらい、イエス様の名によって人に心の救いを告げ知らせながら働いています。
                         モヨリ神父

B年 第14主日 

2015年06月30日 | 神父様からメッセージ(B年)
教会のお聖堂に入ると、飾りが少なく目立つのは司祭の緑の衣服だけです。ローマカトリック教会の典礼から選ばれた色はいくつかの意味が含まれていますし、私たちもこの色の意味によって未来に目を向けるように勧められています。典礼では緑の色が年間の季節を示しています。今は特別な典礼の時期ではなく、イエス様の神秘を黙想する時、「希望」の中で生きる季節を示しています。キリスト信者はどのような希望をもって生きるのでしょうか。まずイエス様との再会を望んで生き、死後も永遠に普遍的な喜びの中で生きます。深い愛情に支えられた希望をもったキリスト信者は、神様との出会いを求め望んでいます。そしてキリスト信者に欠かせない希望はもう一つあります。この世への神の国の到来です。その国は、キリスト信者の心に常に描かれていたものですから、どんな事より期待される出来事です。
「マルコ福音書6・1-6」
 ここではイエス様にとって悲しい出来事が語られています。イエス様がご自分の身内、親戚から退けられています。けれどもこのような悲しみはイエス様がなさった奇跡、語られた知恵に対する一般の人の驚きによって慰められています。このような出来事はイエス様の弟子の運命を暗示しています。旧約聖書の預言者のようにイエス様も弟子たちも、神様の使いとして神様の言葉を語られても、何度も人に拒否される目に遭いました。よく考えてみると、どんなキリスト信者でもイエス様の心を現すときに退けられることがあります。この時一番悲しいのは、自分の友達や親しいものから退けられることです。ナザレの集会堂はイエス様が生まれた故郷の中心部にあり、イエス様が特別に好まれた場所で、よく訪れたところでした。そこでイエス様が神様の心を写しながら教えていました。そこで地元の人々はイエス様のことをよく知りながら、イエス様を知らないと言い、イエス様の気が違っているのだと思ったのです。イエス様の知恵と奇跡についても悪魔を通してなしとげられたものと疑っていました。イエス様を拒否した者たちは、同時に神様とそのメシアを拒否したのです。狭いナザレの人々にとってイエス様の身分は明らかでしたから、メシアであることはありえないことと思いました。しかしイエス様の心は限りなく広く、神様の心を語る使命を示していました。当時のナザレの人々は、神様が身近に、しかもとても素朴な姿で来られたことに気付かなかったのです。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。」人の不信心を驚き、孤独であること。それは預言者とまったく同じ運命に従われる決意を示しています。イエス様は人間の賛同を求めず、ここでは神様のみ胸だけを果たすようにお示しになりました。             
                                    モヨリ神父

B年 年間第13主日

2015年06月24日 | 神父様からメッセージ(B年)
  さて、梅雨の時期は日々の蒸し暑さに体力が衰えがちです、けれども心の喜びはそうではありません。神様はいつも私たちの人生の流れを飾ってくださいます。6月21日から司祭の年が始まりました。司祭職を高める時になっています。今年は皆さんの司祭に対する憐みと慈しみの心を高める一年であればと願います。神様は人類との間に、人間として司祭を選び道具のように用いられご自分の声、ご自分の体を見せたのです。その謙虚な存在を通して、神様はご自分の限りない愛を示しています。それによって司祭に対する憐みの目をもった人だけが神様の姿を見ることができ、神様の声が聞こえるようになります。そして6月28日に使徒パウロの年を終ることになりました。使徒パウロは私たちの理想として残りますが、私たちの弱さを実感しながら、それを神様の手に委ねることにしましょう、神様はマリア様のように弱いものによって偉大なことをなさいます。
「マルコ 5・21-43」
 この長い福音書の中に、より素晴らしいイエス様の言葉と行いを見つめましょう。「しるし」つまり「奇跡」を通してイエス様がご自分の心を見せてくださいます。旧約聖書では命は神様からの贈り物です。それに従って小さな病でも、命の衰えは死の闇の世界の広がりとなっています。命のない死は「汚れ」と呼ばれています。福音書の中に出てくる、患いで出血の止まらない女は命を失いそうでした、(出血とは命を失うこと)だから病人は汚れたものと言われています。同じようにヤイロの娘は死んで命を失いましたが、イエス様が死に勝って命を取り戻すことによって、悪に対して死に対してご自分の勝利を示しています。神様は生きるものの神であり、神様に反するものだけが死の闇を求めています。しかしイエス様は死より、汚れより強いものです。またモーセの法律によると、イエス様が出会った女性たちは汚れたものに過ぎなかったので、イエス様も彼らに係わって汚れたものになったはずでした。しかし命であるイエス様は彼らに触れることによって命を与えました。命を探し求めるものはイエス様に触れようとすればその命を得られます。出血の止まらない患いの女や、ヤイロの娘も命を失うところでしたが、命を深く求めていましたので、イエス様が神様のあふれ出る命を彼女らの心に注がれます。この「しるし」によって、イエス様は奇跡そのものよりもご自分の正体を明らかにします。その「しるし」によって私たちはイエス様が誰であるかを身近に理解できます。神様に創造された万物を改善するのではなく、しるしによって天国はこの世に入り込み、永遠の命はこの世の限られた時間の中に入りました。神の国は人間の間にやどるようになりました。死の世界にしばられた人間は、命であるイエス様によって解放されたのです。今日もイエス様の力強い言葉に目を覚ますように勧められています、そうすることによって死は恐れることではなく安らかな眠りとなります、そしてイエス様が手を置くことによって新たな命が与えられます。私たちの洗礼の時に同じことが起ったのではないでしょうか。病気の時もそれがイエス様に触れる機会になれば、その時に私たちの目がより大きな光に開かれて命であるイエス様を見、病気を通してより素晴らしい喜びにまでに導かれることも経験します。病気が冶るのは、病気が消えるのではなく、病気を通してより素晴らしい真実をみることなのです。
                                   
                              モヨリ神父 

B年 年間第12主日

2015年06月16日 | 神父様からメッセージ(B年)
6月21日に父の日を迎えます。通常通り、6月の第3主日になっています。1940年、J.B.ドット夫人が男女同権の見地から、母の日に対して提唱し、その後アメリカの年中行事となり、父に感謝する日として定められたのが始めとされます。このような祝いが優しく美しく私たちの日曜日の祭りや感謝の祭儀を飾りながら、私たちに父である神様の姿を思い起こさせます。私たちを造られた、私たちの心をよくご存知のお父さんは頼む前に私たちに必要なことはすでに知っておられますから、私たちの善、私たちの喜びをいつも求めてくださいます。自分の子供を忘れている親はいても御父である神様はみ摂理であり、私たちに必要なことを常に準備してくださいます。人間である私たちはお父さんである神様を見たことはありませんが、イエス様が私たちに鏡のように神様の心を映して私たちにその愛、その憐れみ、その赦しを反射するように見せてくださいます。今日この家庭的なお祝い(父の日)を楽しみながら、再び天におられる私たちの親しい父である神様の姿を、イエス様の言葉と行いによって仰ぎみましょう。
「マルコの福音書 4・35-41」
 人間は思いの中で神様の存在を見失うと、心に恐怖と失望がわいてきます。しかし信仰をもった人は神様の姿が見えなくても、神様に対する自分の思いを信頼に変えて安心します。当個所は凪になった湖の嵐の奇跡と言われていますが、実はこのエピソードの内容はより深く豊かです。イエス様が奇跡を行う人であるだけではなくそれよりも、宇宙万物の創造の時の神様と同じように、自分の言葉の力によって大自然に命令をします。それを見た弟子たちは、イエス様の不思議な動作に驚きながら、イエス様が一体どういう方であるか自らの心の中で深く問いかけています。弟子たちにとって、イエス様が行われたことは神様に等しい行いとみられ、弟子たちは驚いただけではなく、信仰の深いところまで問われて、大自然に命令するイエス様の正体について考えこんでいます。「この方は一体どなたなのだろうか。」当福音書のながれでは、弟子たちの発言によりイエス様が自分達の知っている方として見えていますが「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか。」同時に弟子たちにはとても不思議な人物とみられています。「いったいこの方はどなたのだろう。風や湖でさえも従うではないか。」けれども信仰の中で謙虚な心でイエス様を知ることが出来ると、福音書の言葉によって明らかにされています。イエス様が弟子たちと乗っている船は教会(共同体)を象徴しています。イエス様の眠りも象徴的な意味につながっています。場合によっては神様の沈黙、またはイエス様のメッセージに対する弟子の無関心です。だからイエス様は弟子たちを叱り「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか。」とおっしゃつています。しかし、イエス様がいつも弟子たちと共におられたように、より強い力で、いろんな悪質な力から私たちをいつでも救ってくださいます。
                               
                               モヨリ神父


B年 年間第11主日

2015年06月09日 | 神父様からメッセージ(B年)


 「カトリック教会の教え」から
「カトリックの典礼」
 神様と人間とが一緒に生きるようになって、典礼はイエス様に従う者にとって、信仰生活の欠かせない恵みの場となっています。カトリック典礼には人間が行動を通してイエス様に一所懸命に願って、神様にとりなしていただくだけではなく、教会で会衆と共に典礼を行うと神様が主役として人間と一緒になって、ご自分の赤心を表しながら人間の幸せと喜びを求めて導いてくださいます。 典礼は言葉と所作で歴史を渡って、民衆の習慣と文化に対話しながら、定められています。典礼に特別に注目すれば、神様によって人間がより高い世界に吸い込まれています。そこで呼びかけられる聖霊は、典礼を行うところに降り、その場で言葉に特別な力を与えて、行動により大きな効果の恵みをもたらして、語られることを実現します。二千年の歴史を渡って作りあげられたカトリック教会の典礼の中で新たな目で、つまり神様の目で世界に対する神様の愛と慈しみの歴史を見ることができます。誰でもそれぞれの自分の人生の歴史を、素晴らしい刺繍のように、神様自身の愛の約束の計画を見ることができます。全世界で同時に、どこででもまったく同じようにカトリック教会の典礼を行う時に、神様が特別に人間の人生に入り込んで、始めから成し遂げられたように人間を救われた時と場所を記念します。つまりイエス様自身がされたこととまったく同じように、典礼の中で今でも聖霊の働きによって神様が人間の生活の中において、イエス様が教えられたみ言葉の恵みと喜びで人の人生を満たしてくださっています。
                                       モヨリ神父

B年 キリストの聖体の祝日

2015年06月03日 | 神父様からメッセージ(B年)
このような季節の推移の中、カトリックの典礼は私たちにとって欠かせない祝日を迎えます。それは「キリストの聖体」です。キリストの聖体が何であるかをきちんと述べれば紙数が足りませんが、簡単に言えばキリストの聖体とは、私たちキリスト信者にとって麦で例えられている欠かせない食べ物です。イエス様が最後の晩餐の時にパンを手にとって「これは私の体です。」と言われました。その言葉によって今でも毎日その出来事を記念する私たちにとって、祭壇に置かれたパンはイエス様ご自身です。イエス様の愛、イエス様の命です。その聖なる体をいただく私たちに、まずそのパンの作り方はキリスト信者の人生を例え、人生の支えと食べ物であり最高の愛のしるしになっています。「それを食べる人は永遠に生きる。」
さて、菊池教会のキリスト信者私たちは、当主日、初めてキリストの体をいただく3人の女の子を祝います。その姿を見て自分たちの初聖体を思い起こすことでしょう。その時の感動、その時の喜び・・・、同時に捧げられた麦は、祭壇の上に輝いているキリストの体がどのように作られてあるかを教えてくれます。そのキリストの体は素朴なパンであり丸い形にされ、それは日本の思想による神様の普遍的な丸い心を示してくださいます。
「マルコ14・12-26」
 今日のマルコの福音書の個所は二つの部分に分けられています。イエス様と弟子たちの最後の晩餐の準備の物語とイエス様がご自分の体を記念として残されたパンの意味を示すところです。このような課題が、今日の福音書の箇所で並ぶことによって、キリストの聖体は神様と人類の間の愛の約束と見られています。最後の晩餐の準備は神様との愛の約束の準備になり、最後の晩餐の時に渡されたパンは聖体であり、イエス様の復活によって皆と神様との愛の約束になっています。キリストの聖体はイエス様自身であり、私たちと神様の間の欠かせない結びであり、永遠の愛の約束です。最後の晩餐の時イエス様の言葉で、十字架上の出来事をどのように解釈すればよいのかを教えてくださいました。イエス様の十字架上での死は愛の約束の生贄でした。イエス様の時代には、二人の間に結びの約束を決める時には、まずお互い共に納得した文章を読みます、次に納得し同意した二人が最終的な約束として一緒に生贄を捧げました。その後、約束を決めた二人の間に深い結びを定めてそれを祝うために、共に晩餐をいただくことになっていました。カトリックの典礼から、キリストの聖体は愛の約束のしるしとして紹介されています。ですから、言葉の意味からキリストの聖体は祭壇の上に置かれたパンというだけではなく、神様と一致したキリスト信者のことも現わしています。神様と人間の間の愛の約束の中で、上記のような神秘的な事実をみつめれば、神様と人間との間に食事の交わりをみることになります。
                            モヨリ神父

B年 三位一体の祝日

2015年05月27日 | 神父様からメッセージ(B年)
カトリックの典礼では、イエス様のみ心を捧げられた月を迎えることになりました。イエス様の「み心」に表される神の愛を思い起こし、イエス様の無限の愛のしるしである「み心」について考えましょう。愛の心はイエス様の生き方全体ですが、特に十字架上の死、槍で刺し貫かれた脇腹(心臓=み心)を仰ぎ見て神の愛を思い起こすことです。それだけではなく6月の間にとても綺麗な祝日を迎えます。生き生きとした神様の姿を語ってくれるお祝いです。それは、6月7日、キリストの聖体の祝日です。神様の姿を語る祝日であり私たちと神様との新たな親しみ、つながりを築く祝日です。ではマタイによる福音書を通して私たちを大きな愛で包んでくださる神様を観想してみましょう。聖トマスアキナスが言うように、神様は沈黙の中で拝むべきです。このように神様のことについて考え、探し求めるのは当然です、しかし神様に対する私たちの知識はあくまでも神秘の世界を超えるものではなく、それを最後まで貫くことができません。いろんな学者が神様について考えめぐらしましたが神様は私たちに小さな光を与えながら、同時に神様のことが何であるかはまだまだ理解することが出来ないことも見せてくださいました。カトリック典礼でも上記のような思いで神様の神秘を完全に理解できなくとも、観想して体験することを勧めてられています。
「三位一体」という言う言葉は聖書によるものではありませんが、しかしその意味と内容はむしろ人間のためになさったことで全く聖書の思いの通りです。神の言葉である聖書は神様の姿について細かく話してくださり、神様がどのようにして人間と関わり、どのように人類の救いを成し遂げたかを語ってくださいます。その話に耳と心を傾ける信者は時代を通して神様の愛、人間と一緒に築いた救いを経験します。その愛に満ちた救いは神様を信じる者が御父、イエス様、聖霊の働きによって身近に神様の存在を発見します。
「マタイ5・1-12」
 イエス様はご自分の弟子たちにいくつかの使命を与えています。行くのは全世界です。いろんな所、行ける所は限りがありません。人がイエス様の弟子になるということは、神様の命を知らせること、言葉と行いを通して示されたイエス様の愛を人々に豊かに与え経験させる使命をもつことです。イエス様が皆と最後まで一緒にいると約束され、自分の熱心な弟子だけではなく、疑う人にも全人類全てに神様の素晴らしさを告げ知らせることを命じています。このようにイエス様に派遣されたキリスト信者は、三位一体である神様に出会い、神様を知り、神様の世界を味わい、それを世界に告げ知らせます。信仰のない人にとって、三位一体は矛盾に満ちたことにすぎないかもしれませんが、キリスト信者にとっては満足できる、永遠に導かれる神様の愛です。それは頭で理解できることではなく、心で体験できる神様の素晴らしさです。
                                モヨリ神父  

B年 聖霊降臨の祝日

2015年05月20日 | 神父様からメッセージ(B年)
父大自然の観察の中で神様のこと、聖霊のことも風のように例えられています。激しい突風ではなくそよ風のように、聖霊は私たちの心の中に吹き込み神様の心を語ってくださいます。聖霊は風のようにイエス様に従うものの共同体の中にも降って、個性の違った人たちを一致させたり見事な動きと行いを起こさせます。聖霊降臨祭を迎えることになりました。この日は聖霊の風、火、力によって教会の誕生の祝日になり、大きな喜びを味わう日となっています。聖霊は弟子たちの上に降られた時のように、私たちの心の中にも入り込んで、七つの賜物をくださいます。それは知恵、理解、判断、勇気、節制、神を愛する恵み、神を敬う心です。このような賜物によってイエス様の教会は成長し、教会の欠かせない目標である神様の心を全世界に告げ知らせることを果たします。
「ヨハネの福音書 20・19-23」
 当個所の背景は宇宙、全体的に神様の霊、聖霊で満たされています。聖霊に特別に注目しましょう。慰め主である聖霊は真理の霊とも呼ばれています。イエス様に従った者たちはイエス様でさえ拒んだ世界の中で証しするように召されています。けれども弁護者、慰めるもの、誰にも支えである聖霊がキリスト信者の心に宿られています。だからキリスト信者が話す時には聖霊の言葉になり、聖霊の働きとキリスト信者の働きも別々のものではなく一つの神秘的な神様の働きの証になります。同時に、この世で聖霊に満たされてイエス様に従う者の拒みはこの世の歴史の中に訪れた神様を拒むことです。真理である聖霊は忠実である神様の愛の証です。その愛は普遍的であり、徹底的で、確実であり、信頼で包まれた愛です。愛と慈しみを知らないこの世界の中で、聖霊が神様の愛を知らせ、その温かさを感じさせながらイエス様に従った者たちを導いています。ずっとイエス様と一緒に歩んできた弟子たちは、イエス様の心をいつも理解してきたのではありませんが、弟子たちの心に降った聖霊がイエス様の言葉、行いの意味を悟らせています。真理の霊である聖霊は神様の愛の救いの計画を明らかにされ、イエス様の言葉や行いによってその愛を身近に体験させ、それを生かすように導いています。イエス様と御父である神も一つであるように、私たちもイエス様と一つであることを知らされています。それに未来のことも語ってくださいます。未来は恐ろしい暗い雲のようなものではありません。聖霊の光によって特別にイエス様に従った者たちには、神様の美しさを見ることができ神様と出会い、神様の愛の中で永遠に生きることになるのです。
                            モヨリ神父