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2024-06-15 11:40:19 | 食事

   

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芸大の敷地内及び周辺

2024-06-15 10:17:48 | 日記

    

 貝摺奉行所跡(カイズリブギョウショアト)
Site of the Kaizuribugyousho
王家御用、献上・贈答用などの漆器製作にかかる事務及び職人を指導・監督する首里王府の役所跡。相国寺跡(所在地不明)から1745年この地に移設された。
琉球王国 では、15~16世紀には馬・硫黄のほか献上品として漆塗りの腰刀(鞘)などを中国へもたらしており、早くから漆芸品を製作していた。1612年毛氏保栄茂親雲上(もううじびんペーチン)盛良が貝摺奉行に任じられ、貝摺師・絵師・檜物師・磨物師・木地引などの職人を監督したといわれ、この時期にはすでに貝摺奉行所が組織されていたと思われる。奉行所では中国皇帝や日本の将軍・諸大名への献上用の漆器の形態・図案が決められたほか、数量及び材料などにかかる金銭の出納など生産管理事務が行われた。
漆器製作は民間の手で続けられ、1912年(明治45)には漆器産業組合も結成されるなど、漆器は本土への移出品、記念品としてもてはやされた。沖縄戦(1945年)の後は米兵・本土観光客のお土産品として復興し、1980年(昭和55)通商産業大臣(当時)から伝統的工芸品として「琉球漆器」が指定された。

 

    

 琉球国内の新開田畑の石高や貢船の貨物などに関する事務を扱う首里王府の役所跡。

 

    

 

    

沖縄師範学校の跡で、現在の沖縄県立芸術大学の敷地内の一角にある。沖縄師範学校は1943年に設置され、唯一戦後の新制大学への継承関係を持たない師範学校であったが、沖縄戦で校舎を失ってしまった為、後身校を持たず廃止となった。沖縄師範学校の起源は、1880年に設立された会話伝習所であり、標準語や小学校教育を教えていたとされている。沖縄戦では、師範学校生徒の多くからひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が構成され、たくさんの犠牲者を出している。

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