五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

さわやか大学大学院講座が4月12日開催された。

2013-04-13 10:13:48 | 雑件
さわやか大学大学院講座が4月12日開催された。ここの講座は当初からあまり面白くないと言う感じで関わっていたが昨日は3月29日に白川公園で開催された桜祭りの風景を数枚写していたので、最初にそれを必要な人は採ってくださいと班員に配っておいた。皆さんどう感じたのかわからないが挨拶もなく、物も言わないという此処の風潮は全然変わりない。写真の配布など自分の趣味でやっているのであるので、各人の心までは判らないが、今年初めて大学院に入ったYさんさえ全然面白くないと昨夜に電話をくれたようなことで俺と同じように考えているのだと思った。

今日の講座は宇土あみつ常連寺住職高川実玄さんとかで、寺の場所は宇土半島の熊本よりの平原(ひらばる)とか、既に半世紀前になるか、鎮西高校の同級生にあみつから来ていた高川といった人が居った記憶があるが、多分その子供さんであろうか、講師は昭和36年の11月7日の生まれと言ったのでそのように解釈した。寺の手前300メータ―のところにあじさい湯という温泉センターがあるそうで、寺の創立は1641年で歴史は古いとか、自分はかかりつけ僧侶としての生活が主である。毎月第一日曜には午前7時よりふきあげ講習を行っている。門徒は長浜や城塚等が多い。全国各地の法要を頼まれ今日まで2泊3日で小国高校から菊池高校で講演を行ってきた。ここ20数年保護司として頑張っている。宇土高校のボクシング部監督も行っている。以上のようなことの紹介があった。、


以下本日の題は命でメモしたものをそのまま転載した、仏教に関することはどうもよくわからない。

命どう生きねばならないか?私の生きていることは?命そのものに眼を向けて行くことが宗教である。命に眼を向けること。これが浄土真宗、本願寺派の在家である。出家というものがある。これは自分の欲望を全部捨てて落飾することである。たたき説法に対する在家、自分は在家の立場に身を置いている。仏教の御釈迦さんは迷いを捨てて悟りを開いた。転開迷悟、器に合わせての説法である。それではさとりとは?迷いとは?悟りとは縁起で法に目覚められた。さとりのまなこで・・因然縁起・全てのものは全てのものが交じり合って依って成り立っている。玄奘法師は印度から経典を持ち帰り九万樹と玄奘はこれを翻訳した。自分も平成5年印度へ行って17日間、カルカッタ・から僧院の後理などを見学してきた。マリアテレサとも会い言葉を交わしてきた。伝承の秤であり、因縁と縁起結ばれて繋がっている。日本で忌み嫌われるものは四である。四は死に発音が直結しているからと思われる

全ても物を見極め第一原因を立てるな、創造元を立てない物はこの悟りを悟られたもの、この悟りを悟られた御方が,未知の完成者がインドの仏陀である。縁起に目覚められた。
宗教には原始宗教と民族宗教がある。三大宗教は仏教。キリスト教、ヒンズー今日である。迎合宗教と普遍宗教がある。迎合宗教はお願いします型でようこそ都合がよかったときすべての欲をかなえてもらう宗教で、普遍宗教はありがとう型又感謝型で人生の欲を引き受けて試練を与える。

宗教の分類には一神教と多神教にわかれる。神なるもの、仏教は多神教と与えられる。日本には神の考え方はなかった。一神教は西洋文化が入ってきてからである。この神は神道とは全く別の神である。ごきげんを取るに伴う行為は雨乞い太鼓これば自然を敬いいわゆる八百万の神の信仰である。神道になってからの考えである。西洋の一神教は翻訳が出来なかったのでそのように考えられた。西洋の一神教の信仰は砂漠で生まれた、イエスしかりユダヤ教、一神教アラブのマホメット然りで指導者は人間をリードするタイプである。引率するタイプである。神の正義に順じたものは正義にこれが一神教の考えでイラク戦争、フセイン国王の聖戦絶対的なもので進行を貫く考えである。
一神教は神の創造を考える神は人間に命、優れた命を与えた。クリスマスパーテイ、時期として儲かる商戦。バースデイと満年齢を作った。これは東洋的なる考えでなく印度にはこの考えは存在しなかった。例えば12月31日の生まれは正月で2才になる。じぶんは昭和36年11月7日の生まれである。昨日生まれた子は年はふたつで名はみつこと言うことわざの通りである。還暦の考え方にしても数え年が主流であった。命と言うものはあらゆる因縁が集まって出来たものである。自分は自分の意志で生まれたのか?気が付いてみると両親をはじめとして育てられた。命はご縁が集まって成り立っている。両親、父と母、先祖を計算してみると親の代、2代前になると6人。3代前になると14人、10代前になると1024人の2倍で2064人になる・・これは煩悩の世界である。

生命の元になるのは宇宙の様々なものが交じり合って、生まれてこの方様々な方々の集まったもの・・あなたの命を・いただきます・ごめんなさい・食事前の頂きます・沢山の命の不可思議なる因縁である。

諸法無我に物の根底にあるあらゆる縁があつまったもの・・諸行無行・・は物悲しい響きである。桜が咲くのも無常の感じである。…全て命を懸けてありがたいことである。
野口雨情のしゃぽんだまとんだは人生のはかなさを例えたものでしゃぽんだまとんだ やねまでとんだ やねまでとんで 壊れて消えた。人生の長さははかなき命縁あって老いた者、幼き者、蓮如の考えである。無常なる命縁あって此処に無銘する 智慧、仏の智慧慈悲あるがままに平等に一つに私の味方である。
無明我執・・我にしがみ付く 自己中心いわゆる自己中、根源的な姿、自分の撫命で分別する。これが仏教の教えであるこれに対する無分別の智慧、色分けしている見方、分別・・煩悩の世界である。なみあみだぶつ・・・・