五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

皇国の道

2013-04-16 15:51:10 | 五高の歴史
龍南会雑誌を漁っていたところ龍南二百五十三号に池田長三郎先生の皇国の道と言う論文が載っていたが、その前段に同じ池田教授で以下のような文章があった今日はこれを転載して紹介する.

 この度独逸語の小島先生の御世話で、漱石の真筆に接することができた。これはまだ世に露われていないものだと思う。小島先生にかねて漱石の思い出を依頼してあったが、〆切期日までに玉稿をいただけなくて、友人の香村氏(元熊本幼年学校教授)から漱石の手紙を借り受けてくださった。それでわたしが先生に代わってお聞きしたところを伝える次第である。
 漱石は明治二十九年に来任し、同三十二年から三年にかけて教頭を勤められた。それから三十六年まで三年間洋行することになったが、向うで東京へ転任することに決まったので、そのまま永久に熊本を去ってしまったと。

 書信には、明治四十四年十二月二十八日と大正二年十二月二十三日との牛込消印のスタンプがくっきり押されている。前の葉書は佐世保へ、後の手紙は秋田へ出されている。いづれも歳暮の御礼らしい。佐世保からは鯨肉を贈られたらしい。秋田への御礼状には、東京牛込早稲田南町七夏目金之助の発信氏名も鮮やかに出ており、

 御地寒気殊に烈しからんと想像致居候スキー杯至極の遊戯に被存候東京中々の寒さにて既に珍しき降雪さえ有之候と弟子に対する手紙とも思へむ程丁寧に認めてある。名宛人、浜武元次氏は五高に於ける漱石及び小島先生の愛弟子にて、同窓会名簿には、明治三十五年(大学予科第十一回文科卒業)、その後台北第一師範学校長,死亡とある。

 五高時代には漱石から学資のお世話にまでなっていた。それ程篤学の士であり、またその士を育んだ篤志家としての漱石先生であったことを見落としてはならないが、お世話になり放しの学生も相当あったそうである中に、浜武氏のみはいついつまでも師の恩誼を忘れることなく借金を全部返済して後々も季節の音信を欠かさなかった。師弟の恩誼はかくあらまほしきものである。いくら世間がせせこましくなっても師弟の道に変わりはない。(教授池田長三郎)   龍南第二百五十三号より転載)

この二百五十三号が発行されたのは昭和十八年七月で、太平洋戦争の真珠湾奇襲攻撃から一年半日本はアッツ島玉砕、山本元帥の遭難とアメリカを中心とした連合国側から反撃に遭って、日本本土は窮乏生活に追い込まれてきた時期である。

Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/8538 / 皇国の道 / 教授 / 池田長三郎 / 7~33