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順道制勝行不害人の扁額は教育者と言うより日本柔道会の父としての方が有名である嘉納治五郎の書である
第五高等学校第3代校長として嘉納校長の着任は明治24年10月で時に31歳での単身赴任であった。
同年は龍南会の創設の年でもあり、それを記念として揮毫を請われたもので、明治25年の作と言われている。若々しく雄々しい筆致は嘉納校長のがっちりした体躯を彷彿させるものである。
ラフカジイオ・ハーンを招いたのは明治25年であった。ハーンは嘉納校長を心から敬愛していたと思われ、嘉納校長が明治26年1月文部省参事官として転出したのでその後を追うように熊本を去ってしまった。その理由として佐久間教授を始めとして同僚と打ち解けなかったこと等の不仲説を云われているが、精神的支柱であった嘉納校長を失ったこと、熊本に対する期待が叶えられないことも手伝って五高を去る決心を固めたとも云われている。
柔道は「攻撃」の手段ではないと言う嘉納校長の柔道精神に感動したハーンは英文による「柔道」を著し欧米に紹介した功績は評価されるべきものであるが、その以前に嘉納校長の心の広さと細やかな情愛が一外国人教師の心に深い感銘を与えたことは否めないことであろう。
20日の土曜日にカナダのいとこ一行を記念館に案内したが日本語の会話はちょこちょこ出来るが読んだり書いたりの日本語は全くできない。五高記念館にも外国人向けに英訳文をはじめとし
て外国語の表示があることは一々説明しなくとも彼らが自分の興味のあるところは熱心にそのキャプションを読んでいたことはとても興味があった。