嘉納治五郎校長と龍南会の設立
五高の校長十四名のなかで最も派手に世間に知られた校長は嘉納治五郎である。五高着任の様子については江口俊博氏の「龍南古事記」を転載すれば、十一日新校長嘉納先生が着任された、われわれは中門から表正門へかけ参列して先生の来着を歓迎した。先生はあの横の広いような体格で、鉄柄の洋傘を引摺りながら、我々の前を通過された。最近ロシアから帰る船上で、大のロシア人をデッキの上にいやと云うほど投げつけて、而も頭を打たないように、手のはらで頭を支えられた、という勇猛な校長であるので、ハーン先生から九州シンプリンデーとよばれた我々は夢中で歓迎した
五中着任当時の嘉納校長はまだ三十歳を過ぎたばかりの新進気鋭の校長であった。まだ高等学校令が交付されていない時代で第五高等中学校と呼ばれていた時代である。 嘉納校長によって授業時間外は生徒の希望に応じ柔術を練習した。道場には生徒控え所の四十畳敷を修理してこれに充て、嘉納治五郎、肝属兼寛がこの指導に当った。。弓は以前から練習はしていたが、大雨で道場が破壊されたので再建し、団哲雄を師範として、撃剣は和田伝が指導していた。五高スポーツは校長嘉納治五郎の下で一層盛んになった。今までの弓弦は竹刀の声に変わり、嘉納を迎えたことにより第五高等中学校は武道興隆の気運が膨らんできたことは事実であった。
柔道場の前に立つ石削の表札
現在の中門周辺の様子
記念館に展示している「順道制勝行不害人」は治五郎の書で講道館柔道の極致を表現したもので、「逆らわずして勝つ」を表したものである。生徒たちには文武両道に秀でた人物として人望を集め、この「逆らわずして勝つ」の説明に感嘆したラフカジイオ・ハーンは英文で[柔術]を著し欧米に柔道を紹介した。嘉納は柔道を奨励し「端邦館」をつくり、武道振興に貢献した。
開校以来独自で活動していたサークル団体、雑誌部、演説部、撃剣部、柔道部、弓道部、戸遊戯部の各部を一本に纏めて五高龍南会を設立させた。この五高龍南会が学問において、スポーツおいてその後の五高隆盛を貫く剛毅朴訥の精神的支柱にとなって行ったことは否めない。
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五高の校長十四名のなかで最も派手に世間に知られた校長は嘉納治五郎である。五高着任の様子については江口俊博氏の「龍南古事記」を転載すれば、十一日新校長嘉納先生が着任された、われわれは中門から表正門へかけ参列して先生の来着を歓迎した。先生はあの横の広いような体格で、鉄柄の洋傘を引摺りながら、我々の前を通過された。最近ロシアから帰る船上で、大のロシア人をデッキの上にいやと云うほど投げつけて、而も頭を打たないように、手のはらで頭を支えられた、という勇猛な校長であるので、ハーン先生から九州シンプリンデーとよばれた我々は夢中で歓迎した
五中着任当時の嘉納校長はまだ三十歳を過ぎたばかりの新進気鋭の校長であった。まだ高等学校令が交付されていない時代で第五高等中学校と呼ばれていた時代である。 嘉納校長によって授業時間外は生徒の希望に応じ柔術を練習した。道場には生徒控え所の四十畳敷を修理してこれに充て、嘉納治五郎、肝属兼寛がこの指導に当った。。弓は以前から練習はしていたが、大雨で道場が破壊されたので再建し、団哲雄を師範として、撃剣は和田伝が指導していた。五高スポーツは校長嘉納治五郎の下で一層盛んになった。今までの弓弦は竹刀の声に変わり、嘉納を迎えたことにより第五高等中学校は武道興隆の気運が膨らんできたことは事実であった。
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記念館に展示している「順道制勝行不害人」は治五郎の書で講道館柔道の極致を表現したもので、「逆らわずして勝つ」を表したものである。生徒たちには文武両道に秀でた人物として人望を集め、この「逆らわずして勝つ」の説明に感嘆したラフカジイオ・ハーンは英文で[柔術]を著し欧米に柔道を紹介した。嘉納は柔道を奨励し「端邦館」をつくり、武道振興に貢献した。
開校以来独自で活動していたサークル団体、雑誌部、演説部、撃剣部、柔道部、弓道部、戸遊戯部の各部を一本に纏めて五高龍南会を設立させた。この五高龍南会が学問において、スポーツおいてその後の五高隆盛を貫く剛毅朴訥の精神的支柱にとなって行ったことは否めない。
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