五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

民生委員の父 林 市蔵像について

2013-05-19 05:42:07 | 五高の歴史
熊本城へ頬当御門から入るには行幸橋を渡らねばならない、この行幸橋の麓に加藤清正の銅像が設置されている。

その右側横にひっそりと昭和三十三年に設立された林市蔵の胸像がある。
加藤清正が熊本城を造ってから400年になるので清正像は熊本城への入場口へのシンボルとして観光客もすぐ注目するものである。

しかしその横にある林市蔵の胸像に気がつく人はまず少ない。無いと言った方が適切かもしれない。城内巡りするときには櫨方門からの入城の場合も多くこの清正像の前付近が集合場所である。

特に 小学生の修学旅行班別学習では見学地を加藤清正像を見学としている学校も大変多い。清正像は熊本城観光のシンボルであるからだろう。

修学旅行の生とはこの林市蔵の胸像を発見した時には、このおじさんはどんな人ですかという質問もよく行う。

ここでは林市蔵についてその略歴等を紹介する。

林市蔵は慶応三年(一八六七)十一月二十八日熊本市横手(当時は飽田郡横手村高麗門)に細川藩士の子として生まれた。
済々黌から第五高等中学一部法科を明治二十六年第二回卒業生として卒業した。
この第二回卒業生には同級生に赤星典太もいた。後には林と赤星は熊本が生んだ傑物といわれた

林は明治二十九年東京帝国大学法学部を卒、帝大卒業後は内務官僚として広島県・新潟県の内務部長を務め、又三重県・山口県の知事を務めた。
大正六年大阪府知事に就任した大正六年頃は米騒動の最中で、物価高で民衆の間に貧富の差を招いた。米価の高騰で明日の飯さえ食えないと言う者が多くあった。
林知事は町内の世話を無報酬で行う方面委員の制度を創立して、隣人愛のための方面事業を始めた。
所謂現在の民生委員制度の発足である。大阪府知事在任期間二年半の間に公設市場を設けて、民生委員の事業の振興を図った。

官僚辞任後は財界へ転じて日本信託銀行頭取、大阪米穀取引所理事長、熊本電気会長などを歴任した。昭和二十七年二月十七日死去。民生委員の父といわれる。熊本県近代文化功労者、雅号は一象