昭和二十年一月一日からの主なる宿直者
緒方章 加藤忠喜 相部国彦 甲斐靭男 大塚徳嗣 牧奈良市 田上時義 増田貞雄 内村尊 中山勝基
先頃は教官所謂教育職の方々であったが今日は事務側所謂行政職の方々である。私が国家公務員文部事務官として採用されたのは昭和三十五年であった。
終戦から十五年経過しているが、緒方さん、加藤さん 相部さん、大塚さん、牧さん、田上さん、内村さん、の方々は熊本大学の事務の中枢として活躍されて居られた記憶がある。
これから考えることは俺も年取ったなあと言うことであろうか|
一月六日 宿直 増田貞雄
午前九時十分警戒警報発令 仝三十分空襲警報発令 午前十一時 空襲 警戒共に解除
一月十四日 加藤忠喜
入学試験問題受取に行く田上 内村両氏受領午後七時帰任 問題は倉庫の地下室に保管す
一月二十日 牧奈良市
一、 午後十一時まで大学受験準備のため図書教官閲覧室使用
三月一日 相部
一、 午後三時三十分空襲警報発令 仝四時五分空襲警報解除となる仝四時二十分警戒警報
解除さる
三月五日 牧
一、 午前零時と仝一時との間に於いて炭焼き釜より発火、仝被覆屋根を焼却、寮生の出動
により消火せり
一、 午前四時十三分警戒警報発令仝五時十五分解除
三月十五日 田中
一、 午後十一時警戒警報発令 仝十二時解除
一、 各自部署につく
三月十九日 田上
一、 午後七時西部軍管区情報注意報発令仝八時解除
一、 午前六時南九州地区情報注意報発令
三月二十一日相部
一、 午後一時西部軍管区情報注意報発令
一、 午後一時八分警戒警報発令仝一時五十分解除さる
三月二十七日中山
一、 午後十一時十分警戒警報発令続いて空襲警報発令各員出動並び警備
一、 午前二時解除
三月二十九日 田上
一、午後七時三分南九州全地区警戒警報解除
三月三十日加藤
一、 午前一時三十分警戒警報発令
一、 仝二時三十分警報解除
四月四日 牧
一、 三菱より工員十名校内部品監視のため来校寄宿舎小使い室にて待機せり
四月八日 田上
一、 午前十時五十分熊本地区注意報発令
四月十五日田中
一、 午後三時三十分より薬一時間警戒警報発令されたり
四月二十日相部
一、 二十一日午前六時四十分警戒警報発令 仝四十九分空襲警報発令
四月二十二日増田
一、 午前七時三十分空襲警報発令仝九時四十五分解除
四月二十五日 田中
一、 午前六時三十分警戒警報発令続いて空襲警報発令
四月二十八日田上
一、 二十九日午前六時五十八分熊本地区警戒警報発令
一、 奉安殿の鍵破損の事鍵箱の鍵止めを外す
四月二十日相部
一、 午前五時十三分情報注意報発令
五月十二日増田
一、 午後九時以降数回に渉り警戒警報発令あり
五月十三日
一、 終日警戒警報発令数回に及ぶ
五月十四日 河原端、牧
一、 午前一時頃警戒警報発令されたるも約一時間位にして解除
五月二十日鈴木 相部
一、 二十一日午前二時十五分警戒警報発令仝二時五十五分解除さる
五月二十二日増田
一、 午前一時三十分警戒警報発令仝二時十分解除
五月二十四日 高橋仁助 牧奈良市
一、 午前三時十八分警戒警報発令仝二十五分解除
六月十二日増田
一、 午後八時四十分警戒警報発令九時十五分解除
一、 学業成績の件照会海軍省人事局長
六月十七日内村
一、 十一時五十分警戒警報発令三時三十分空襲警報解除四時三十分解除
六月十八日田上
一、 午前二時熊本地区警戒警報発令仝三時解除
六月十九日前田
一、 午前十時十五分警戒警報発令仝三十分空襲警報発令一時五十分空襲警報解除
仝二時警戒警報解除大牟田方面に火炎天に昇るを見る
六月二十日加藤
一、 午前四時二十分警戒警報発令四時三十五分解除
六月二十八日 前田
一、 前一時頃警戒警報に引続き空襲警報発令仝二時三十分空襲警報解除仝四十三分解除
一、 夕刻より早朝にかけ七月一日入学式挙行の有無に付頻繁に電話照会を受く
六月二十九日 相部
一、 午後十一時半警戒警報続いて空襲警報発令二時半解除となる
七月一日 甲斐靭男
一、 午後十一時二十五分頃警戒警報発令、仝十一時三十五分頃空襲警報発令。
一、 天草より敵機北上中と放送を聞くより早く既に京町台方面より市の中央・東部にかけて焼夷弾攻撃を開始約二時間余り攻撃続き幸いにして本校に投下弾なく無事なるを得たるも市内は大火災を生じ被害大なるもの 教職員のお宅も被害を受けられし方三^~四名ある如し
七月二日 樋口 増田
一、 午後空襲警報発令数回有り前日の空襲にて寮総代高橋爆死せる死体引取りの為高森教
授現場の新屋敷町へ出張せられたり
七月三日 田中
一、 午前三時四十分突然敵の焼夷弾攻撃を受く直ちに学籍簿を取る午前五時三十分解散
七月四日 内村
一、 午前一時二十分頃警戒警報発令間もなく解除
七月九日相部
一、 午後十一時半空襲警報発令0時半解除となる
七月十一日増田
一、 午前〇時三分警戒警報発令仝五分空襲警報前二時半解除となる
七月十三日 相部
一、 午前〇時半空襲警報発令仝3時半解除さる
七月十四日 加藤
一、 午後十一時二十分警戒警報発令十一時四十分解除
七月十五日前田
一、 午後十一時十五分警戒警報発令仝十一時23分空襲警報発令仝三時三十分仝解除
仝三時四十分警戒警報解除
七月十六日甲斐
一、 午後十一時二十五分警戒警報発令間もなく解除
七月十九日加藤
一、 午後十時三十分突然空襲警報発令大型一機上空通過十一時四十分解除
七月二十一日加藤
午前〇時十分警戒警報発令天草上空北上長崎方面に飛来30分にて解除
七月二十四日増田
一、 午前三時十分警戒警報発令仝三時二十分解除さる
七月二十五日内村
一、 午後十一時三十分警戒警報発令次に空襲警報発令前一時頃解除
七月二十六日田中
一、 午後十時三十分より前三時頃まで空襲警報発令主として大牟田市に焼夷爆弾に依る攻撃を受く
七月二十八日 加藤
午後十一時警戒警報、前三時警戒警報発令ありて各員警備につきたるも熊本に來襲せず
七月三十日相部
一、 午後十時半警戒警報発令仝十一時解除となる
八月四日甲斐
一、 午後十時十五分警戒警報発令間もなく解除
八月五日田中
一、午後十時空襲警報発令午前一時解除
八月六日増田
一、 午前四時四十分警戒警報発令仝五時三十分解除
一、 午前三時半及び四時半の二回に渉り爆弾攻撃を行いたり
八月七日田中
一、 午前お〇時頃より午前四時三十分まで警戒警報発令さる
八月八日加藤
一、 午後九時空襲警報一機来襲熊本の北部一発投下十時頃再来襲二発投下二~三時警報発
故生徒高橋信造の子とにつ来長崎稔来訪
八月九日田中
一、 午後九時三十分より午前四時三十分まで僅かの解除を除き警戒警報続く
午前〇時より午前四時三十分まで数回に及び空襲警報発令せらる
八月十日加籐
一、 午後十一時敵機一機来襲退避午前一時亦一機来襲退避午前四時爆音しても敵機来ず
八月十二日内村
一、十時頃より警戒警報発令十二時頃解除前二時頃より空襲警報発令四時頃解除
八月十三日甲斐
一、 午後九時過ぎより翌日三~四時まで数回の警空警報発令せられたり
八月十四日増田
一、 午後八時警戒警報発令仝九時解除
以降八月十四日より記事無し異状なしが続く
八月二十八日加藤
一、 学校長宛電報古閑修三より
一、 学校長宛文部省より電報(動員に関する件)
一、 中野繁喜宛電報一通
八月二十九日相部
一、学校宛 速達封書 小野 弥八
九月十三日前田
一、 阿蘇兵団兵器部より返却受領す
望遠鏡一台付属品トランシット二個双眼鏡一個
九月十四日 田上時義 から十一月四日までは記事なし
十一月四日 田中国雄
一、書状 本島一郎宛 村上堅固
学校宛二通 九州帝國大学 青木秀雄
学校長宛二通 文部省体育局長 文部省
樋口兼雄 高木尚文
河原畑教授
会計課三通 磯村昌弘 森戸外策 九州配電
教務課一通 日本特殊鋼
同窓会館宛
十一月十一日 増田貞雄
一、 会計課宛 書留
一、 生徒主事宛書留
一、 今津博文宛
十一月十八日 前田猪馬雄
一、 学校長宅 書留封書 大日本育英会
一、 学校長 封書 熊本県警察署長
一、 学校長 開封 文部省
一、学校長 封書 熊本県
十一月二十四日 甲斐靭男
その後は全く手紙受付簿になっている
十二月二十八日 御用納めにて各課午前十一時に退庁す
その後は十二月三十一日まで特記事項なしということで記事はない
緒方章 加藤忠喜 相部国彦 甲斐靭男 大塚徳嗣 牧奈良市 田上時義 増田貞雄 内村尊 中山勝基
先頃は教官所謂教育職の方々であったが今日は事務側所謂行政職の方々である。私が国家公務員文部事務官として採用されたのは昭和三十五年であった。
終戦から十五年経過しているが、緒方さん、加藤さん 相部さん、大塚さん、牧さん、田上さん、内村さん、の方々は熊本大学の事務の中枢として活躍されて居られた記憶がある。
これから考えることは俺も年取ったなあと言うことであろうか|
一月六日 宿直 増田貞雄
午前九時十分警戒警報発令 仝三十分空襲警報発令 午前十一時 空襲 警戒共に解除
一月十四日 加藤忠喜
入学試験問題受取に行く田上 内村両氏受領午後七時帰任 問題は倉庫の地下室に保管す
一月二十日 牧奈良市
一、 午後十一時まで大学受験準備のため図書教官閲覧室使用
三月一日 相部
一、 午後三時三十分空襲警報発令 仝四時五分空襲警報解除となる仝四時二十分警戒警報
解除さる
三月五日 牧
一、 午前零時と仝一時との間に於いて炭焼き釜より発火、仝被覆屋根を焼却、寮生の出動
により消火せり
一、 午前四時十三分警戒警報発令仝五時十五分解除
三月十五日 田中
一、 午後十一時警戒警報発令 仝十二時解除
一、 各自部署につく
三月十九日 田上
一、 午後七時西部軍管区情報注意報発令仝八時解除
一、 午前六時南九州地区情報注意報発令
三月二十一日相部
一、 午後一時西部軍管区情報注意報発令
一、 午後一時八分警戒警報発令仝一時五十分解除さる
三月二十七日中山
一、 午後十一時十分警戒警報発令続いて空襲警報発令各員出動並び警備
一、 午前二時解除
三月二十九日 田上
一、午後七時三分南九州全地区警戒警報解除
三月三十日加藤
一、 午前一時三十分警戒警報発令
一、 仝二時三十分警報解除
四月四日 牧
一、 三菱より工員十名校内部品監視のため来校寄宿舎小使い室にて待機せり
四月八日 田上
一、 午前十時五十分熊本地区注意報発令
四月十五日田中
一、 午後三時三十分より薬一時間警戒警報発令されたり
四月二十日相部
一、 二十一日午前六時四十分警戒警報発令 仝四十九分空襲警報発令
四月二十二日増田
一、 午前七時三十分空襲警報発令仝九時四十五分解除
四月二十五日 田中
一、 午前六時三十分警戒警報発令続いて空襲警報発令
四月二十八日田上
一、 二十九日午前六時五十八分熊本地区警戒警報発令
一、 奉安殿の鍵破損の事鍵箱の鍵止めを外す
四月二十日相部
一、 午前五時十三分情報注意報発令
五月十二日増田
一、 午後九時以降数回に渉り警戒警報発令あり
五月十三日
一、 終日警戒警報発令数回に及ぶ
五月十四日 河原端、牧
一、 午前一時頃警戒警報発令されたるも約一時間位にして解除
五月二十日鈴木 相部
一、 二十一日午前二時十五分警戒警報発令仝二時五十五分解除さる
五月二十二日増田
一、 午前一時三十分警戒警報発令仝二時十分解除
五月二十四日 高橋仁助 牧奈良市
一、 午前三時十八分警戒警報発令仝二十五分解除
六月十二日増田
一、 午後八時四十分警戒警報発令九時十五分解除
一、 学業成績の件照会海軍省人事局長
六月十七日内村
一、 十一時五十分警戒警報発令三時三十分空襲警報解除四時三十分解除
六月十八日田上
一、 午前二時熊本地区警戒警報発令仝三時解除
六月十九日前田
一、 午前十時十五分警戒警報発令仝三十分空襲警報発令一時五十分空襲警報解除
仝二時警戒警報解除大牟田方面に火炎天に昇るを見る
六月二十日加藤
一、 午前四時二十分警戒警報発令四時三十五分解除
六月二十八日 前田
一、 前一時頃警戒警報に引続き空襲警報発令仝二時三十分空襲警報解除仝四十三分解除
一、 夕刻より早朝にかけ七月一日入学式挙行の有無に付頻繁に電話照会を受く
六月二十九日 相部
一、 午後十一時半警戒警報続いて空襲警報発令二時半解除となる
七月一日 甲斐靭男
一、 午後十一時二十五分頃警戒警報発令、仝十一時三十五分頃空襲警報発令。
一、 天草より敵機北上中と放送を聞くより早く既に京町台方面より市の中央・東部にかけて焼夷弾攻撃を開始約二時間余り攻撃続き幸いにして本校に投下弾なく無事なるを得たるも市内は大火災を生じ被害大なるもの 教職員のお宅も被害を受けられし方三^~四名ある如し
七月二日 樋口 増田
一、 午後空襲警報発令数回有り前日の空襲にて寮総代高橋爆死せる死体引取りの為高森教
授現場の新屋敷町へ出張せられたり
七月三日 田中
一、 午前三時四十分突然敵の焼夷弾攻撃を受く直ちに学籍簿を取る午前五時三十分解散
七月四日 内村
一、 午前一時二十分頃警戒警報発令間もなく解除
七月九日相部
一、 午後十一時半空襲警報発令0時半解除となる
七月十一日増田
一、 午前〇時三分警戒警報発令仝五分空襲警報前二時半解除となる
七月十三日 相部
一、 午前〇時半空襲警報発令仝3時半解除さる
七月十四日 加藤
一、 午後十一時二十分警戒警報発令十一時四十分解除
七月十五日前田
一、 午後十一時十五分警戒警報発令仝十一時23分空襲警報発令仝三時三十分仝解除
仝三時四十分警戒警報解除
七月十六日甲斐
一、 午後十一時二十五分警戒警報発令間もなく解除
七月十九日加藤
一、 午後十時三十分突然空襲警報発令大型一機上空通過十一時四十分解除
七月二十一日加藤
午前〇時十分警戒警報発令天草上空北上長崎方面に飛来30分にて解除
七月二十四日増田
一、 午前三時十分警戒警報発令仝三時二十分解除さる
七月二十五日内村
一、 午後十一時三十分警戒警報発令次に空襲警報発令前一時頃解除
七月二十六日田中
一、 午後十時三十分より前三時頃まで空襲警報発令主として大牟田市に焼夷爆弾に依る攻撃を受く
七月二十八日 加藤
午後十一時警戒警報、前三時警戒警報発令ありて各員警備につきたるも熊本に來襲せず
七月三十日相部
一、 午後十時半警戒警報発令仝十一時解除となる
八月四日甲斐
一、 午後十時十五分警戒警報発令間もなく解除
八月五日田中
一、午後十時空襲警報発令午前一時解除
八月六日増田
一、 午前四時四十分警戒警報発令仝五時三十分解除
一、 午前三時半及び四時半の二回に渉り爆弾攻撃を行いたり
八月七日田中
一、 午前お〇時頃より午前四時三十分まで警戒警報発令さる
八月八日加藤
一、 午後九時空襲警報一機来襲熊本の北部一発投下十時頃再来襲二発投下二~三時警報発
故生徒高橋信造の子とにつ来長崎稔来訪
八月九日田中
一、 午後九時三十分より午前四時三十分まで僅かの解除を除き警戒警報続く
午前〇時より午前四時三十分まで数回に及び空襲警報発令せらる
八月十日加籐
一、 午後十一時敵機一機来襲退避午前一時亦一機来襲退避午前四時爆音しても敵機来ず
八月十二日内村
一、十時頃より警戒警報発令十二時頃解除前二時頃より空襲警報発令四時頃解除
八月十三日甲斐
一、 午後九時過ぎより翌日三~四時まで数回の警空警報発令せられたり
八月十四日増田
一、 午後八時警戒警報発令仝九時解除
以降八月十四日より記事無し異状なしが続く
八月二十八日加藤
一、 学校長宛電報古閑修三より
一、 学校長宛文部省より電報(動員に関する件)
一、 中野繁喜宛電報一通
八月二十九日相部
一、学校宛 速達封書 小野 弥八
九月十三日前田
一、 阿蘇兵団兵器部より返却受領す
望遠鏡一台付属品トランシット二個双眼鏡一個
九月十四日 田上時義 から十一月四日までは記事なし
十一月四日 田中国雄
一、書状 本島一郎宛 村上堅固
学校宛二通 九州帝國大学 青木秀雄
学校長宛二通 文部省体育局長 文部省
樋口兼雄 高木尚文
河原畑教授
会計課三通 磯村昌弘 森戸外策 九州配電
教務課一通 日本特殊鋼
同窓会館宛
十一月十一日 増田貞雄
一、 会計課宛 書留
一、 生徒主事宛書留
一、 今津博文宛
十一月十八日 前田猪馬雄
一、 学校長宅 書留封書 大日本育英会
一、 学校長 封書 熊本県警察署長
一、 学校長 開封 文部省
一、学校長 封書 熊本県
十一月二十四日 甲斐靭男
その後は全く手紙受付簿になっている
十二月二十八日 御用納めにて各課午前十一時に退庁す
その後は十二月三十一日まで特記事項なしということで記事はない