五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高記念館を一般公開したころ

2013-07-06 06:48:00 | 五高の歴史
記念館は五高の同窓生である故福島熊本県知事、故守住参議院議員等の要望で平成5年に公開したものである。

今でこそ五高記念館といえば熊本の歴史文化の発信地になっているが、当時は全くの無名で特に県の文化企画課が予算も補助してやるので開けないかということであり、学内に於いては何の為に公開するかと反対する学部も多かった。それを無視して見切り発車で一般公開に踏み切ったのは当時の局長の独断とそれに従う俺が肥後モッコスの管財屋であったかも知れない。特に当時の局長は文化庁の出身者であった

公開するに当っての予算はなく局長が本省に掛け合って特別に配当してもらった僅かの金だけであった。公開こそ平成5年10月を期して行ったものであるが、その時には掃除する道具さえ買えなくそれこそ清掃用具等は自身で持参してきたものである。現在までもこうして記念館に週一回ではあるが勤務しているのはこの辺りに基礎があったのかもしれない。

大学が独立行政法人になるまでは何のイベントを行うにも予算が伴うので歴代の館長はどうにかするだろうの考えであった。俺の仕事は先ず館内の掃除が一番の仕事であった。当時から館内を見学する観覧者はあったが、研究者が自分の研究のため資料を引き出しあとは適当にという人ばかりで全く困ったものであった。俺は研究者の助手ではないぞとの意気込みで保管されている資料の整理にあたった。資料項目に挙げた品目だけでも6000点に及んだ。史料は古いものは明治19年の創設時のものから昭和25年の熊本大学への移行時のものまで60余年分、まあよく残していたというより内容を確認しないことには仕方がなく週に1回の出勤ではままならなかった。

一般公開するまでにはただ関係者のみの館内を見学していることを思えば公開するにあたっての目標はすべての人が平等に見学出来る体制作りが主要なことであった。関係者はすべて教官であり事務を経験したものは俺一人で問題が起こっても常にあいつがどうにかするだろうの考えであり歴史文化の発信地の構想など及びもつかないことであった。


目的は熊本文化の発信地とすることを望んだものであったが、文科省も独立行政法人になりそれが実を結んだというべきである。