五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

2015年も半年暮らした

2015-07-01 10:19:44 | 日常生活について
今日からは2015年も後半を迎えることになる。自分の体は特にどうと言うことはないが何か疲れが多い気がする。年取った証拠のようだ。昨日は火曜日で五高記念館へ出てきた。朝は日吉校前七時二九分の都市バスで辛島町まで行き、八時前後の大津行きか何かに乗り換える。五高記念館に到着するのは八時四〇分からある。五高記念館への出であるので昔の資料を復習してみる。



五高時代の習学寮自炊制度について復習して見る。明治二十四年の学校便覧には「生徒はすべて習学寮に寄宿すべき」ことが規定されている。学校側としては原則として全寮制を目指していたようである。五高の剛毅木訥の校風はこの寮生活を通して育まれてきたものである。五高五十周年史の中には「我が校風の維持拡張に最も大きな貢献したものは習学寮の生活であった」とあるように習学寮の各時代の卒業生が述懐していることからも想像出来る。
習学寮の自炊制度の実施は明治二十三年からで第一回入学生藤本充安・武藤虎太等の提唱により自主管理、運営の制度が確立している。その主体は炊事委員であり、調理職員の採用から日々の物品購入、保管、経理、献立表まで作らねばならず授業の片手間に行うことは並大抵ではなかったことであったろう。そのためか炊事委員長や炊事委員の独断から寮生の反対、改革の意見が多くなりついには明治四十五年に請負制度に代わった。

しかし習学寮では大正二年の真冬に疫痢が蔓延し十名の死者を出した。その後寮は解体処分され一時期にはその存在さえ危ぶまれた。しかし大正四年には改修されたり又新築されたりして寮は復旧した。その後生徒は寮の自主管理を望み昭和三年には再び自炊制度に帰っている。終戦を挟んで習学寮は食糧危機・食料欠乏にと時代の波に翻弄されながらも昭和二十五年の五高の閉校まで存続した。

熊本大学になって熊本大学習学寮として存続したが昭和二十八年五高から熊本大学に進学した学生が大学を卒業することで習学寮の名前は完全に過去のものになった。