五高校生の丸坊主について調査している、現代では小学校へ入学する時も男の子の坊ちゃん刈りはあたりまえであるが、戦中から戦後の我らの時代では丸坊主が当たり前のことであった。特に五高生の長髪は明治・大正・昭和と続いてきたものであり、昭和十四年になると世情が長髪など許さず、丸坊主の時代に突入することになったもので、兵隊は丸坊主であったので総てが兵隊に倣ったものであったようである。、
五高生の長髪にマントそして高下駄・腰には汚れたタオルをぶら下げた風体についてはまだまだ記憶に残って在られる方もあるかと思われるが、この長髪禁止はこの昭和十三年ごろから始まっている、長髪等については軍事教練上軍人の眼からは不都合と見做されていた。昭和十四年の天長節の渡鹿練兵場における分列式には長髪者数名が列外に出され注意を受けている。しかし、昭和十七・八年頃のようには長髪も白眼視されてはいなかった。
「高校生活はその環境上価値関係と最も希薄な聯関の社会で最も純真なる崇高な目的下のゲマ員シャフトである。この恵まれた三年間、赤裸々であり人間としての生活をすべきである。純粋に考え純粋に行動することこそが高校生活にのみ可能な美しい生活である、虚偽なる生活を捨てて自己を凝視せよ」というにある。
五高生の丸坊主について習学寮日誌から掲げて見ると。六月十三日、断髪が行われるといううわさに当局の命を待たず自発的、積極的に断髪を採用し・・・当時二年生の田代友禧氏(昭和16理乙卒)の話によれば、「委員会は開催され、この日三年生は全員断髪して丸坊主になって出席した。髪を切るか長髪のままでいいと討議する委員会に三年生だけが初めから結論を決めていて自分たちの頭で示して出席した。この点について二年生から反対意見が続出した。しかし当時の総代の態度が強硬で三年生間にまとまった断髪の意見に従わない者は睨まれることを覚悟しなければならない空気であった。委員会の結果は記名投票ということになり、断髪には仕方なく賛成だが、総代側の態度が悪かったという結論になり全寮生断髪することが決議され二年生の長髪組は新市街に出かけて惜髪の痛飲会を行い森山写真場で記念撮影を行った」ということであった。
五高生の長髪にマントそして高下駄・腰には汚れたタオルをぶら下げた風体についてはまだまだ記憶に残って在られる方もあるかと思われるが、この長髪禁止はこの昭和十三年ごろから始まっている、長髪等については軍事教練上軍人の眼からは不都合と見做されていた。昭和十四年の天長節の渡鹿練兵場における分列式には長髪者数名が列外に出され注意を受けている。しかし、昭和十七・八年頃のようには長髪も白眼視されてはいなかった。
「高校生活はその環境上価値関係と最も希薄な聯関の社会で最も純真なる崇高な目的下のゲマ員シャフトである。この恵まれた三年間、赤裸々であり人間としての生活をすべきである。純粋に考え純粋に行動することこそが高校生活にのみ可能な美しい生活である、虚偽なる生活を捨てて自己を凝視せよ」というにある。
五高生の丸坊主について習学寮日誌から掲げて見ると。六月十三日、断髪が行われるといううわさに当局の命を待たず自発的、積極的に断髪を採用し・・・当時二年生の田代友禧氏(昭和16理乙卒)の話によれば、「委員会は開催され、この日三年生は全員断髪して丸坊主になって出席した。髪を切るか長髪のままでいいと討議する委員会に三年生だけが初めから結論を決めていて自分たちの頭で示して出席した。この点について二年生から反対意見が続出した。しかし当時の総代の態度が強硬で三年生間にまとまった断髪の意見に従わない者は睨まれることを覚悟しなければならない空気であった。委員会の結果は記名投票ということになり、断髪には仕方なく賛成だが、総代側の態度が悪かったという結論になり全寮生断髪することが決議され二年生の長髪組は新市街に出かけて惜髪の痛飲会を行い森山写真場で記念撮影を行った」ということであった。