紋次郎と日々の出来事

骨肉腫と闘った紋次郎と保護犬の正次郎との日々

最期に向けて3

2008年08月31日 21時28分43秒 | 父のこと
タクシーに乗っているとき、義兄から電話があり、よかったら乗せていこうかっと言われましたが、私たちのほうが場所的に早かったのです

病院に着くとタクシーの支払いを飼主1に頼みました。タクシーの運ちゃんに特に急いでと頼んだわけではないのに、チップを渡してねっといって
このとき病院に入っていったときにたぶん、醍醐の女将さんが私を見つけたのだと思います。
お父さんのいるICUは入り口から少し離れています。廊下を小走りしながら、本当にドラマのようだなっとまるで他人事のようでした


icuに行くと面会時間ではありませんでしたが私の顔を見て看護婦さんが中に入れてくれました

私が一番でした


お父さんの顔を見たとたん、涙があふれ出てきました

昨日までとはうって変わって穏やかな顔をしているけど頬から鎖骨にかけて静脈(紫色の細い血管)がいくつも浮き出ていました。とても、とても見れる状態ではなく、思わずわっと叫んでしまっていました
「お父さん、お父さん、今までありがとう、育ててくれてありがとう。大好きだよおとうさん」
思い浮かぶ言葉をただでさえ地声が大きいのに叫んでいました。
飼主1いわく、ICUの外まで聞こえたそうです

飼主1が私の背中をさすっていました
看護婦さんが2人見えて、座ってください、今ベットを倒しますから・・・。

このベットを倒したあたりから急に現実に戻されたような今でも疑問に思う出来事が起こりました

最期に向けて2

2008年08月31日 21時09分34秒 | 父のこと
我が家にとってはじめてのお盆。どんなことをするか、ほとんどわかりませんでした。お寺やおばさんに聞きながら、何とか始めてのお盆を終えることが出来ました

13日・・迎え火 漬物 ぶんどうがゆ 
14日・・朝   かぼちゃ とうがん ごはん
    昼   おはぎ
    夜   そうめん
15日・・朝   7色の食材
    10時おやつにすいか
    昼   うどん
    夜   5色の食材  お土産に だんご
    送り火

送り火、迎え火は初めてのことなのでまるで火事みたいに大きな火になってしまい、あせりました
初めてなのでなんとかがんばった感がありました。お父さんも納得してくれたでしょうね。我が家はこういう行事が苦手なことを知っているはずですから



会社について、なんとなく制服に着替えないほうが言いと思い、私服で業務を行いました。私の私服はお父さんが倒れてから2着の服を着回ししていました。まさかこんなことになるとは思っていなかったので、実家においてある服が2着しかなかったのです。恥ずかしかったけど、着る服がないので仕方がありませんでした。それほど急だったのです。
どうしてもやらなくてはいけない仕事を必死にこなしつつ、携帯電話をポケットに入れていました。

10時近く、会社の電話がなりました。

姉からでした。

『病院から電話があったから、すぐに行くように』

とうとう、とうとうだ・・・・・。
同僚に謝りつつ、飼主1へ内線をしました(飼主1とは同じ会社)
同僚や上司には火曜日に状況を伝えていたので、快く行かせてくれました
仕事は当然、途中で・・・。(こんな状態でも何とかなるものです。支払いが途中でしたが、支払先もわかっていただき、何とかなりました)

飼主1がいる営業部に行き中のいい男の子に病院まで送ってくれないかっとお願いしたところ、忙しいから無理。との回答。まぁしょうがないよね。
が、彼はほかの営業に頼んでくれました。本当に彼には感謝です!!
違う男の子に乗せてもらい、ずいぶん時間を短縮することが出来ました。
彼は病院の場所がわかりませんでしたが、簡単にタクシーが拾えて病院から近い金山総合駅に乗せてくれました
そこでタクシーに乗り換え、病院に向かいました

その時思ったことは
とうとう、私も親が亡くなるって事を体験するんだな・・っということでした。
子供のころ、親に怒られて「お父さんもお母さんも死んじゃえばいいのに!!」って思ったこともありました。その後はごめんなさいっと謝ったり、自然ともとどおりになったり、親に死ね!なんてこと考えてごめんなさいっとおもったり。

こんなに早く親の死に目に会うなんて思ってもいませんでした。

まるでドラマの中にいるよう・・・。タクシーに乗っている間は至って冷静でした


最期に向けて・・1

2008年08月25日 23時25分15秒 | 父のこと
眠れぬまま、起きなければいけない時間になりました。あわただしく過ぎる朝。
そんな中、母がトイレで粗相をしてしましました。こんなことありえません。

お父さんは癌になってから今までとは考えられないほど、母のことを気遣っていました。
お母さんがこう言うからこのようにする。お母さんが怒るからこのようにする。お母さんがこういうからこのようにしなさい。など・・母の希望をかなえるよう必死でした。

母はお父さんが闘病中、病院にはほとんど行きませんでした。目が見えにくいっと言うこともあり、行かなかったこともあったのですが、お父さんが倒れてから毎日病院へ行き、病院に泊まり、想像以上のお父さんの無反応を目の当たりにしてかなり疲れていたのだと思います。

粗相をしって、ふと、お父さんはお母さんがこれほど苦しんでいるので、そろそろ楽にしてあげようっと思っているのかもしれないな・・っと思いました
が、母の気持ちは違いました。意識がなくてもやはり生きてほしかったようです。後日わかりました。お父さんの誤算だね

会社に行く電車の中、電車から見えるお父さんが入院している病院を見ながら今日かもしれないな・・・っと漠然に思っていました

ドカベン先生から言われたこと

2008年08月22日 01時32分50秒 | 父のこと
ドカベン先生はいったいいつ寝ているのかわからないほど常にいました。
先生はとても一生懸命がんばってくれたと思います。
救急で運ばれたとき、最初に説明をしてくれたのに、私は救急隊員の一人だと思っていました。
『僕は蘇生が専門ですから』一番心に残った言葉です。
でも一番知識がある医師だとも思いました

13日の昼間にもう時間の問題ですっといわれたとき、本当にお父さんはがんばったっと言ってくれました。本来なら運ばれてきたときに死亡宣告をしなくてはいけない状態だったと。そして小細胞肺がんで3年以上生き延びたことをとても驚いていました。

本当に感謝しました

入院してから、主治医が4人も変わりました。本来ならありえません。4月には4人目の先生も辞める予定でした(実際やめました)ふあんもありましたが、お父さんを最期に見取ってくれたのがドカベン先生でよかったです


忘れない為に31

2008年08月20日 21時40分03秒 | 父のこと
このころには胸に刺したチューブからかなりの量の肺水が出ていました。
これを見たらお父さん、泣くだろうな~っと思いつつ、このチューブが延命を可能にしているんだっと言うこともわかりました。

家に帰り、各自それぞれ緊急連絡の再確認をしました。帰りがけ、ドカベン先生に再度、覚悟をするようにっと言われたからです。

なぜか、こう、実感がなかった気がします。落ち着いているというより夢を見ているよう。さめる事のない現実の夢。今も普通にお父さんは入院しているだけだろうと。何かが違うのはわかっているけどなぜか実感がなかったです

眠りについても普通に眠れましたが・・・その日は朝5時に目覚め、icuの部屋を思い、お父さんはicuのどこを見ているんだろうか?今、どう思っているのだろうか・・・っといろいろ、お父さんがいつも寝ていた場所に寝て考えていました。

当日の朝の2月14日は私が会社に行き、姉が会社を休み母と病室に行く予定でした



写真は・・・晩年、お父さんはあまり動けなくなりました。寝たきりとかではなく、ちょっと動くと咳が止まらなくなったり、だるくなってしまっていました。
普通の生活は大丈夫ですが、病気になってからは少しでも家族の役に立とうと思っていたようで、草むしりとかをしてくれていましたが、それが出来なくなり、母に謝っていたほどでした。
その中で、座ってでも出来る、洗濯時に洗濯物をとめる洗濯ばさみをそれはそれは沢山作ってくれていました。
洗濯ばさみに紐を通すだけのことですが、なかなか作る時間をとることが出来ません。それをお父さんは本当に沢山作ってくれていました。
少しでも家族の役に立つようにっと思って作っていたのでしょう。
その気持ちにまた号泣です
使われる前にこっそり一個持って帰りました。

私の宝物のひとつです


忘れない為に31

2008年08月19日 22時38分08秒 | 父のこと
私は、お父さんが倒れてからずっと、ずっと神様にお願いしてきたことがあります。少しでもいいので最後に会話が出来ますように・・・っと。しかしその後急変してからそれがかなわないことだとわかり、せめて、最後に目を開けてくれますようにっとお願いし続けていました。
誰にもこの願いは言っていませんでした。ずっとずっと心の中で思っていたのです。もう無理かも知れないけど、お願いし続けました

夜の面会のとき、集中治療室にはよほどのことがない限り一度に3人ほどしか入れません。丁度私と姪が面会していたとき、ふっとお父さんを覗くと
なんと!!片目を開けてくれていました!!!!!
びっくりしました。すぐさま姪を呼びお父さんに見えるように二人並び(このとき母はいませんでした)おとうさん、おとうさん、ありがとう!!っと何度も言いました。姪いわくその時涙が流れたそうです。(私はわからなかったです)そしてすぐに目を閉じました。

あのときの目は一生忘れられないです。何を言いたかったのか、チラッと私たちをいつものいたずらっぽく見ているようで、でもなぜか悲しそうで。。。お別れを言っているのでしょうか。

でも、最期に私の願いが叶いました
きっと無理だと思っていたので、お父さんと神様に感謝しました

やさしく、厳しいお父さん、ありがとう。本当にありがとう
もう覚悟を決めないとね。

家で迎える新盆

2008年08月19日 22時13分59秒 | 父のこと
13日から15日までの間、お父さんが帰ってくるということで初めてのお盆行事を行いました。
迎え火から始まって、食事、お土産のお団子、送り火と始めての経験でした。
子供のころ、おばあちゃんの家でナスやきゅうりで作った馬を見たくらいで、実際に行うと結構大変だなぁ~っと思いました
内容は後日また。

お父さんが死んだことによりいろいろな手続きをこのお盆休みに行うことにしました。印鑑証明も取得しました。
お父さんの戸籍も調べました。
私はお父さんの両親はもうずいぶん前に亡くなっていると思っていました。
実際お父さんは高知の母方のお母さんに育てられ、苗字も違っていました。
お父さんのお父さんは確かに早くに亡くなったようです。両親の戸籍に(亡)と書いてありました。
もう、私も大人です。お父さんのお母さんの欄には(亡)という字がありませんでした。思わずお母さんに「結婚したときにはお父さんのお母さんは生きていたの?」っと聞きました。答えは今から7年ほど前に亡くなったそうです
え?私ももうずいぶん前に亡くなったと聞いていたのに・・・・・
お父さんが隠したかったことだったのかもしれません。お母さんもそう思っていたそうですが、以前、お父さんと違う父親から生まれた(再婚先ですね)子供の助けがほしいっと電話がかかってきたそうです。
お父さんは捨てられたと思っていたようで、無視していたそうです。
そしてその後亡くなったそうです。
故郷の高知から電話がかかってきても無視していたそうです

両親がそばにいない、祖母、叔父叔母に育てられ、寂しい子供時代を送ったのでしょう。
黙っていたことを怒るより、お父さんのつらさがとてもわかった気がします
そして、いつも家族がそばにいたことを喜んでいたのに、私には子供がいないことをとても申し訳ない気持ちにもなりました
(そのことでお父さんに攻められたり、何か言われたことはありません。)

忘れない為に30

2008年07月25日 00時03分23秒 | 父のこと
点滴を足に変更したいっと言うことは、もう腕の血管はボロボロッということなのだろうか?お父さんの血管はたくましく、採血でも看護婦さんからほめられるほどだったのに。 看護師さんに言われると「はい、かまいません」というしかありませんでした。

私がトイレに行くために救急病棟隣接の入院室にいくとき、偶然、お父さんが呼吸器科で入院中、仲良くしてくださったボランティアのおばあさん(80代ですがとても見えません!!)を見つけました。すぐさま母に言って、ボランティアのおばあさんにお父さんを見てもらいました。彼女は何度も似たような場面に遭遇しているのでしょうか、とても冷静でした。
お父さんはよく、このおばあさんの話をしてくれました。「ボランティアのおばあが・・・」という具合。肺がんでしたがお父さんはこの病院の古株でした。
そしてこのおばあさんといろいろ話をしていたそうです。
平日は誰も面会に行かなかったからなぁ。。。。
そんなお世話になったおばあさんに挨拶をすることが出来たことは・・・
本当に旅立ちの準備をしているようでした。

もう、みんなに挨拶したし、大好きなお母さんの心残りもなくなったね。
そろそろ・・・・・なんだろうか???

日中の面会時間が終りかけ、一度家に帰ろうとしたとき、ドカベン先生が(彼は
いったいいつ寝るのだろうか??)「もうだいぶ心臓が弱っています。時間単位だと思ってください」っと言いました。
そうだね。そうかも。悲しいけど。準備は整い始めていると思う。

母の母、祖母は心筋梗塞で突然亡くなりました。64歳でした。
母はお父さんに「少しでも介護をしたかった」っと言っていたそうで、お父さんは突然たおれたけど、がんばっておばあちゃんのように突然、なくなるっと言うことはしませんでした。母への思いやりなのでしょうか?たとえ意識がなくても、動かなくても、血が通っている暖かい手を触っているだけでもうれしかったのです。

このとき、脳死っという意味がわかっていなかったことも幸いしたのかもしれませんが、お父さんは家族のためにがんばってくれたんだと思います。
少しずつ、ゆっくりと家族にお別れをする準備、覚悟をする時間をくれました。
そして、私に姉にかなわない6年間という時間を相殺してくれるような、とても貴重な時間をくれました

お父さんの誕生日

2008年07月23日 23時39分59秒 | 父のこと
7月22日はお父さんの誕生日です。我が家は全員7月生まれのO型です。
生きていたらお父さんは70歳でした。本当に悔しいです。もみじマークを付けたプロボックスで走るお父さんを見たかったです。最近もみじマークをよく見かけますが、うらやましいですね。こんなに長生きできるなんて・・気をつけて運転してくださいね。っと思います
22日は母のいとこが最近60代にして僧侶になったそうで、お経を読んでいただきました。母のいとこはとても母のことを気遣ってくださるのでとてもありがたいです。本当に母はブルーなんですよ。心配です

駐車場まで母を見に行くと、丁度車から出てくるところでした。半分怒っていましたが、母から先ほどの不思議な話を聞いて少しゆっくりお父さんのところに向かうことにしました

ICUにつくと、寝たきりのお父さんのひざに大きな枕を置いて足には大きなたらいがおいてありました。そして暖かいお湯。タオル。すべて準備してありました。
母は看護師さんに感謝しながら「蜂蜜と酢を入れると角質がよく取れるんですよ」っと言っていました。看護師さんは私たちの思いをかなえたいと思っていたのでしょうか、「ごめんなさい、蜂蜜と酢はないのですよ」っと言ってくれました。もちろん、母は催促したわけではないんです。
晩年、お父さんはお風呂に入るだけでも体がだるくなっていました。でも足湯だけは行っていました。
足湯は私が子供のころからよくやっていました。
子供のころは水虫予防で『ムトーハップ』を入れた足湯。晩年は蜂蜜と酢を入れていました。用意は母がいつもしていました。
お父さんはかかとや足の裏がすぐに硬くなるのです。これは私に遺伝しました(笑)

母はこのとき初めて「実はたおれた日に足湯をやるってお父さんと言っていたの。お父さんはずっと足湯をやってほしいっていっていたんだけど、なかなか出来なくって。前日は雪が降ったでしょ。だからたおれた日にやろうって話をしていて。
っと涙を流して足をもんでいました。
いつもはがさがさのかかとも今はなぜかみずみずしいいです。むくみでしょうか。

私はこの貴重な時間をお父さんと神様が与えてくださったことにとても感謝しました。母と一緒にお父さんの足をきれいにしている。とてもうれしかったです。「お父さん、気持ちいい?よかったね、本当によかった」とまたしても号泣。
毎回マスクをべちゃべちゃにします。

足湯をすることで母の希望がかないました。

本当によかったし、この時間に感謝しました。
そして何より、足湯を提案してくださった看護師さんに感謝です。ありがとうございます。

このころ、胸から入れた念のためのチューブから肺水がたまり始めました。

足湯が終わり、片づけをしているとき看護師さんが「腕からの注射が難しくなってきているので、足から点滴を入れても良いですか」っと聞かれました。


忘れない為に29

2008年07月22日 23時47分56秒 | 父のこと
先週の日曜日にお盆に出す提灯を姉と買いに行きました。子供のころこの提灯(灯篭)がある家に行き、きれいでよく見ていました。そのときはどうしてこんなきれいな物を飾っているのか、なぜ家にはないのか?意味がわからなかったのですが、今では買う立場になりました。
時期が遅かったのか、とてもお値打ちに購入することが出来、お父さんさんも喜んでいるでしょう


足湯の支度をしてくれるといってくれた看護師さん。そのときはこの看護師さんには担当の患者がいませんでした。ICUは少しでも状況が改善するとすぐ一般病棟に行くようで、常に人が入れ替わっていました。
あの泣き叫んでいた女の子もいなくなっていました(安心しました)
でもそれは出入りが激しいだけで・・・しばらくするとその看護師さんのところへ急患が来ました。その方はお父さんよりも状況がよく、意識がありましたが、ご家族への説明、患者さんへのケアなどで、とても忙しくなり、とても『足湯』のことを切り出す状況ではなくなり、ちょっと夢を見させてくれたかなぁ・・っと思いつつ、昼食をとりに母と出かけました

母はちょっと寂しそうでした・・

近くの喫茶店で昼食を取り、母は車へタバコを吸いに、私は病室に行きました。
私は足湯を本当に出来るのか、半ばそわそわしながら待っていました。看護師さんは急患で忙しそうでした・・・。

しばらくするとその看護師さんとお父さんの担当の看護師さんが来て、「ごめんね、遅くなっちゃって、足湯の用意をするからね」っといってくれました
即効、母を呼びに行きました

その間、母は車の中でタバコを吸っていました。車はお父さんの車です。母は母なりに何か思っていたことがあったのでしょう、さて病室に行こうか、っと車を降りようとしたとき、服の袖がありえない場所にひっかかって、ドアを開けないと取れない状態になったそうです。それはお父さんが、
そんなに急ぐんじゃないよ、もう少しゆっくりしていけよ
っと引き止めているようだったそうです。そして母はもう一服・・・


その間、私は母をおお捜ししていました