紋次郎と日々の出来事

骨肉腫と闘った紋次郎と保護犬の正次郎との日々

忘れない為に30

2008年07月25日 00時03分23秒 | 父のこと
点滴を足に変更したいっと言うことは、もう腕の血管はボロボロッということなのだろうか?お父さんの血管はたくましく、採血でも看護婦さんからほめられるほどだったのに。 看護師さんに言われると「はい、かまいません」というしかありませんでした。

私がトイレに行くために救急病棟隣接の入院室にいくとき、偶然、お父さんが呼吸器科で入院中、仲良くしてくださったボランティアのおばあさん(80代ですがとても見えません!!)を見つけました。すぐさま母に言って、ボランティアのおばあさんにお父さんを見てもらいました。彼女は何度も似たような場面に遭遇しているのでしょうか、とても冷静でした。
お父さんはよく、このおばあさんの話をしてくれました。「ボランティアのおばあが・・・」という具合。肺がんでしたがお父さんはこの病院の古株でした。
そしてこのおばあさんといろいろ話をしていたそうです。
平日は誰も面会に行かなかったからなぁ。。。。
そんなお世話になったおばあさんに挨拶をすることが出来たことは・・・
本当に旅立ちの準備をしているようでした。

もう、みんなに挨拶したし、大好きなお母さんの心残りもなくなったね。
そろそろ・・・・・なんだろうか???

日中の面会時間が終りかけ、一度家に帰ろうとしたとき、ドカベン先生が(彼は
いったいいつ寝るのだろうか??)「もうだいぶ心臓が弱っています。時間単位だと思ってください」っと言いました。
そうだね。そうかも。悲しいけど。準備は整い始めていると思う。

母の母、祖母は心筋梗塞で突然亡くなりました。64歳でした。
母はお父さんに「少しでも介護をしたかった」っと言っていたそうで、お父さんは突然たおれたけど、がんばっておばあちゃんのように突然、なくなるっと言うことはしませんでした。母への思いやりなのでしょうか?たとえ意識がなくても、動かなくても、血が通っている暖かい手を触っているだけでもうれしかったのです。

このとき、脳死っという意味がわかっていなかったことも幸いしたのかもしれませんが、お父さんは家族のためにがんばってくれたんだと思います。
少しずつ、ゆっくりと家族にお別れをする準備、覚悟をする時間をくれました。
そして、私に姉にかなわない6年間という時間を相殺してくれるような、とても貴重な時間をくれました

お父さんの誕生日

2008年07月23日 23時39分59秒 | 父のこと
7月22日はお父さんの誕生日です。我が家は全員7月生まれのO型です。
生きていたらお父さんは70歳でした。本当に悔しいです。もみじマークを付けたプロボックスで走るお父さんを見たかったです。最近もみじマークをよく見かけますが、うらやましいですね。こんなに長生きできるなんて・・気をつけて運転してくださいね。っと思います
22日は母のいとこが最近60代にして僧侶になったそうで、お経を読んでいただきました。母のいとこはとても母のことを気遣ってくださるのでとてもありがたいです。本当に母はブルーなんですよ。心配です

駐車場まで母を見に行くと、丁度車から出てくるところでした。半分怒っていましたが、母から先ほどの不思議な話を聞いて少しゆっくりお父さんのところに向かうことにしました

ICUにつくと、寝たきりのお父さんのひざに大きな枕を置いて足には大きなたらいがおいてありました。そして暖かいお湯。タオル。すべて準備してありました。
母は看護師さんに感謝しながら「蜂蜜と酢を入れると角質がよく取れるんですよ」っと言っていました。看護師さんは私たちの思いをかなえたいと思っていたのでしょうか、「ごめんなさい、蜂蜜と酢はないのですよ」っと言ってくれました。もちろん、母は催促したわけではないんです。
晩年、お父さんはお風呂に入るだけでも体がだるくなっていました。でも足湯だけは行っていました。
足湯は私が子供のころからよくやっていました。
子供のころは水虫予防で『ムトーハップ』を入れた足湯。晩年は蜂蜜と酢を入れていました。用意は母がいつもしていました。
お父さんはかかとや足の裏がすぐに硬くなるのです。これは私に遺伝しました(笑)

母はこのとき初めて「実はたおれた日に足湯をやるってお父さんと言っていたの。お父さんはずっと足湯をやってほしいっていっていたんだけど、なかなか出来なくって。前日は雪が降ったでしょ。だからたおれた日にやろうって話をしていて。
っと涙を流して足をもんでいました。
いつもはがさがさのかかとも今はなぜかみずみずしいいです。むくみでしょうか。

私はこの貴重な時間をお父さんと神様が与えてくださったことにとても感謝しました。母と一緒にお父さんの足をきれいにしている。とてもうれしかったです。「お父さん、気持ちいい?よかったね、本当によかった」とまたしても号泣。
毎回マスクをべちゃべちゃにします。

足湯をすることで母の希望がかないました。

本当によかったし、この時間に感謝しました。
そして何より、足湯を提案してくださった看護師さんに感謝です。ありがとうございます。

このころ、胸から入れた念のためのチューブから肺水がたまり始めました。

足湯が終わり、片づけをしているとき看護師さんが「腕からの注射が難しくなってきているので、足から点滴を入れても良いですか」っと聞かれました。


忘れない為に29

2008年07月22日 23時47分56秒 | 父のこと
先週の日曜日にお盆に出す提灯を姉と買いに行きました。子供のころこの提灯(灯篭)がある家に行き、きれいでよく見ていました。そのときはどうしてこんなきれいな物を飾っているのか、なぜ家にはないのか?意味がわからなかったのですが、今では買う立場になりました。
時期が遅かったのか、とてもお値打ちに購入することが出来、お父さんさんも喜んでいるでしょう


足湯の支度をしてくれるといってくれた看護師さん。そのときはこの看護師さんには担当の患者がいませんでした。ICUは少しでも状況が改善するとすぐ一般病棟に行くようで、常に人が入れ替わっていました。
あの泣き叫んでいた女の子もいなくなっていました(安心しました)
でもそれは出入りが激しいだけで・・・しばらくするとその看護師さんのところへ急患が来ました。その方はお父さんよりも状況がよく、意識がありましたが、ご家族への説明、患者さんへのケアなどで、とても忙しくなり、とても『足湯』のことを切り出す状況ではなくなり、ちょっと夢を見させてくれたかなぁ・・っと思いつつ、昼食をとりに母と出かけました

母はちょっと寂しそうでした・・

近くの喫茶店で昼食を取り、母は車へタバコを吸いに、私は病室に行きました。
私は足湯を本当に出来るのか、半ばそわそわしながら待っていました。看護師さんは急患で忙しそうでした・・・。

しばらくするとその看護師さんとお父さんの担当の看護師さんが来て、「ごめんね、遅くなっちゃって、足湯の用意をするからね」っといってくれました
即効、母を呼びに行きました

その間、母は車の中でタバコを吸っていました。車はお父さんの車です。母は母なりに何か思っていたことがあったのでしょう、さて病室に行こうか、っと車を降りようとしたとき、服の袖がありえない場所にひっかかって、ドアを開けないと取れない状態になったそうです。それはお父さんが、
そんなに急ぐんじゃないよ、もう少しゆっくりしていけよ
っと引き止めているようだったそうです。そして母はもう一服・・・


その間、私は母をおお捜ししていました

忘れない為に28

2008年07月15日 22時20分33秒 | 父のこと
最近、婦人病のがん検診を受けました。
そんなんことない、っと思っていましたが女性は(特に私と母)ストレスがたまると婦人に特徴的な症状が出るようです。
ストレスって自分では感じていないのに体は敏感に感じているようです。以前闘病中にリフレッシュ休暇をいただき、飼主1の感謝の気持ちをこめて盛大な旅行を計画していました。心には常にお父さんのことがありながら。
自分ではストレスなんてまったく感じていないのに、婦人病になり、先生から「何か悩みがある?」っと聞かれました。私はまったくストレスなど感じていなかったのに、どうやら体はストレスで一杯一杯だったようです。

あれほど念入りに計画した旅行がまったく楽しめませんでした。

飼主1に喜んでもらいたい、英語がまったく出来ない、こんな時期に旅行してもいいのだろうか??いろいろ考えていたようです。体は正直です



口からはチューブが出ていて、鼻からもチューブが出ていて、何か汚いものが出てきていました。手には血圧と心拍数を測る機械、点滴がつながれていました。
血圧を測っている手は常に包帯で固定されていました
家族はただ足をさするしかありませんでした。本当にドラマを演技しているようでした。
そこに看護師さんが来ました
「私は最初の電話をとった看護婦です。途中で電話が切れてしまってとても心配していたんですよ。」と。電話を切ったのは姪でしょう。そういえば「お父さんは生きていますよ」っと運ばれた日に言ってくれた看護婦さんに似ていました。
元気そうでよかったわ!!っと豪快な笑顔をしてくれました
このとき初めて「救急車に心臓を動かす薬を打てる人がいて本当によかったですね」っと聞いた。運がよかったんだ。
その看護師さんはお父さんの担当ではなかったのですが、とても気にかけてくれました。

私が足をさすっていると、「あら、足をさすっているなら足湯をやってくれない?足を洗えばお父さんも気持ちいいし、私たちも助かるから」
私と母はただ突然のことで黙るしかありませんでした。そんなこと集中治療室で出来るなんて思っていなかったですし。
もじもじしていると「私たちも助かるからやってくれる??」っと半ば強引でしたが、本当に思い出になる出来事になりました。