紋次郎と日々の出来事

骨肉腫と闘った紋次郎と保護犬の正次郎との日々

死亡診断書と入院証明書

2008年04月29日 22時12分18秒 | 父のこと
28日は会社が休みだったので母に頼まれ、J○共済の保険のため、死亡診断書と入院証明書を取りに行った。姉が説明を受けていたので、姉から書類の説明を受けて病院にいった。
通いなれた道。本当なら今も通っていたかもしれない道。見慣れた病院。そして、チラッとICUの前を通ったけど、相変わらず面会時間以外は中が見れない状態でした。
前もって電話をしていたのでお父さんが亡くなった最期の場所、救急科の受付に行って死亡診断書と入院証明書の依頼をした。両方ともJ○の指定用紙だったが、お父さんは死亡する前の1月にも呼吸器科で入院していたのでそのことを伝えると「科が違うので呼吸器科にも入院証明書がいりますよ」っといわれ、売店でコピーをしたが、ちょっと心配になったのでJ○大○支店にコピーでもよいかという問い合わせをしたところ、『確認しますので後で電話します』と、私は『今病院なので今回答をお願いします』というとなんと!!30分も待たされ、結局わからず仕舞い!!頭にきて本部の電話を教えてもらい、本部に電話をすると『死亡診断書に入院期間を各場所があるのでそこでは入院証明書はいりません。』と的確な回答。


さすが農協の支店!!たまたまあまっていたテレホンカードでかけたからよかったものの、携帯ならいったいいくらかかったことか!!あまりのお馬鹿すぎにあきれてしまいました・・・。



看護婦さんに案内されて救急外来の一角に行くと、お母さんがぽつんと座っていた。なんとお父さんは運ばれている間に自発呼吸が出てきたそうで、持ち直したらしい。
さすが!!お父さん!!うれしかった

それを聞いて救急が依頼に来ている方を冷静に見ることが出来た。
透析に来ている人やインフルエンザの人・・・ただ、意識不明なのはお父さんだけのようで・・・
なんか、気楽そうに見えてしまった・・(申し訳ないけど・・)

忘れない為にⅨ

2008年04月24日 23時59分01秒 | 父のこと
救急車に乗り込むお父さん。それを見送って、残った姉夫婦と私で車で病院(かかりつけの病院、午前中に診察した病院)に行きました。姉が前もって「そちらに運びますから」っといっておいたからだ。
道中、まったく救急車の音は聞こえなかった。国道23号線は相変わらずの渋滞。ここをお父さんが乗った救急車はサイレンを鳴らして通っていったのだろうか・・。
全員が無言の中、だれかが「昨日じゃなくってよかったね、あの雪だったら救急車はこんなに早くこれなかったし、病院にも行くことが出来なかったね」
そう、なんとなく仕組まれた状態だった。家族全員が家にいたのだ。いつもは誰かが家にいない週末。、甥も帰ってきていた。不思議だ・・。

病院について休日夜間窓口に行き、救急外来待合室に行った。するとインフルエンザ患者がたくさんいたけど、そのときはうつるとか、そんなことまったく考えなかった。

救急外来に行くとお父さんの姿も母の姿もなかった。
救急外来の中を甥と姪でさ迷う。カーテンで個々に仕切られた部屋がいくつもあって、そのひとつの前に救急隊が立っている場所があった。そこのカーテンを開けることも出来ず、ただ、お父さんはどこ??っと言っていると看護婦さんに、ここにはいてはいけないから待合室で待っていてください、といわれ、追い出されてしまった。そして姉を見つけて、姉が看護婦に聞くと「今、処置をしていますから」っと言われた。姉はすぐさま私たちに「死ぬための処置をしているみたい」っといった。
力が抜けた・・・。ああ、終ったんだなっと。こんな終り方、本当に思っても見なかった・・・・。自分の親が死ぬなんて・・・こんなに早く、どうしても納得が行かなかった。
放心状態で病院のロビーで姪と座っていた。姉はどこかに行ってしまった母を探しに行った。姪と二人、そう、私と姪はお父さんにうっとうしいほどかわいがられていた。私が姪に「もう少し、やさしくすればよかった」というと姪も「うん・・」っと泣いていた。
姉はどこかに行ってしまった母を捜しながらうろうろしていた。そこに看護婦さんが私たちを呼びに来た。今処置をしていますからこちらに・・・
姉が勇気を振り絞って「父は死んだのでしょうか?」
すると看護婦さんは「え???生きていますよ!!」力強く言ってくれた。

腰が抜けた・・・

周りが見ているけど思わず「よかった!!!」泣き崩れてしまった



後日この看護婦さんにはいろいろお世話になった。ありがとうございます

忘れない為にⅧ

2008年04月21日 23時28分25秒 | 父のこと
お父さんを日本間から広い廊下に移し周りをレスキュー隊が囲み一人のレスキュー隊が電話から支持を仰ぎながら何か処置をしていました。
私たちはただその場をうろうろするしかありませんでした
ふと、お父さんの手を見ると・・・
それは・・・生きた人の手の色ではなかったのです
白い・・でも黄色い・・血が流れていない、硬い感じのする、まるで蝋のような生気がまったく感じられない色でした。しかし顔は普通の色でした
お父さん、死んじゃった!!!」   その時思ったことでしたがレスキューの人はあきらめていませんでした。
ぼーーっとしている横で一人のおっさんレスキューが電話をしながら支持を仰いでいる若いレスキューの人に向かって『もう、だめだ』っと言わんばかりに手を横に3回続けて振りました。隣で見ていた私はただ、その人と電話かけている人を交互に見ながら、どうしてこの親父は家族の前でそのような態度をするの???と思いつつ、その手を横に振っている意味はいったいなんだ?!!っと問い正そうとしてもなかなか声に出来ませんでした。

が、電話をしていた人が「数値が上がりました!!今から搬送します」っと言ってくれました。その時、うれしいというか・・よく解りませんでした

救急車には一人しか付き添いが出来ないので母が乗ることに、そして私たちは後を車で追っかけることにしました
その時、再度母が「延命治療はどうしますか?」っと聞かれたそうです。もちろんお願いしますと。このとき延命治療っという重みをよくわかっていませんでした。2回も聞かれているのにね。

外に出ると近所の人が見に来ていました。

お父さんが気に入っていた庭からお父さんが担架に乗せられて救急車に乗る光景はずっとずっとこの家で育ってきた私にとって想像が出来ない景色でした。動かないお父さん。この家で家族4人で暮らしてきた思い出がよみがえってきます。きっと母も姉も同じ気持ちだったと思います。本当に夢を見ているようでした
前日とうって変わってすばらしい晴天。普段人が来てもまったく鳴かない実家のボンゴがなぜかいつも違う鳴き方でウオンウオン鳴いていました。紋次郎と同様、何かを感じ取っていたのでしょうか
その中お父さんは意識不明のまま家を出ました。

(結局お父さんは心肺停止状態になりました。チアノーゼはその前兆だったようです。幸い、後から来たレスキュー隊(電話をしていた方)が心臓を動かす薬を打てる免許を持っていた方だったようで不幸中の幸いだったことを後日、病院の看護婦さんに聞きました)

忘れない為にⅦ

2008年04月20日 17時15分47秒 | 父のこと
お父さんは北海道が大好きでした。永住したいとも言っていたくらい。先日母と6月に北海道へ行こうかと話をしていましたが、予約をする段階に来てなんとなく1周忌が終っていないになんかな~っと不に落ちずキャンセルしちゃいました

レスキュー隊が来ると早速機械を出してなにやら始めました。
そしてまず電話をした姉に、『延命処置をしますか?』とたずねたらしい。姉はすぐに『お願いします』っと言った事を家族に報告した。当然だと思ったが、後になりその選択がよかったのか、思うようになりました。

人工呼吸や心電図、心電図から聞こえる機械的な声「計測中です、人工呼吸は不要です」その声がとても冷たく、寂しく聞こえました。
震える声でここで夫(飼主1)に電話をして速攻、来てもらうことになりました。
飼主1も驚いて、自分の親だと思ったほど。それほど癌でもとても元気がよかったのです。
何回も聞こえる心電図計測の声。
そうしているうちにやっと救急車が到着。総勢10名近くのレスキュー隊がお父さんを助けるために努力をしてくれました


私は・・・癌についていろいろ調べていたこともあり、ずっと、ずっとお父さんの最期は呼吸器科の病棟で個室に移って、しばらくは病院で寝泊りをして、最期はモルヒネで眠るように・・っと思っていました。病院の近くにはスーパー銭湯もあるし、病院から会社は結構近いので大丈夫と。家族もそう思っていました。最期は個室で看病。
こんな突然、心の準備も出来ないというカードを渡されるとは、まったく想像していませんでした。
明日は休日なのに、私は今日、上長に訃報の電話をしなければいけないの??どうして??とても納得できなかったです。

その間、紋次郎も心配だった様で何度もお父さんのそばに行ったそうだが、レスキュー隊の人に怒られたそうで、いやいや、紋次郎もお父さんの様子がおかしいことをわかっていたようでした

2回目の月命日

2008年04月15日 23時57分30秒 | 父のこと
昨日は2回目の月命日でしたが、まぁお参りしなくてもいいかなぁ~っと軽い考えでいたが、朝になってなんとなくお父さんが呼んでいるような気がして実家に行くことにしました。
実家に行くと姪が塾のため早々にご飯を食べていました。お仏壇に手を合わせ、ちょっと会話をして、姪が鼻血を出した話を聞いて、姪を送り出したところ、しばらくして姪が戻ってきました。なんと大量の鼻血を出して
送ってくれる近所のお母さんに先に行ってもらい、何とか鼻血を止めて塾に行ったのですが・・・。もし、私が実家に来ていなく、母と姪だけであったらきっと塾は休みだったでしょう。もっと二人でおろおろしていたでしょう。母は年末目の手術をして、夜の運転はほぼ不可能なので。
生前、お父さんは姪に「勉強しろ!!」っと言っていました。お父さんは今日のことを知っていて私を呼んだように思えます。本当に起きるまではスポーツクラブに行くつもりでしたから


自発呼吸をしているんだ!!
後から聞いた話だと、母が人工呼吸をしたそうです。1,2回は口から息を入れると横からふーーーっと抜けてしまったが、3回目にはちゃんと入ったと。その時お父さんが が!!っと目を開けたそうです。母と姪だけが見ました。
姉は自宅用と会社用(自営なので)の2台の電話でかかりつけの病院と119にかけていました。119にかけたところ、地元の救急車は出払っているけど、レスキューが行きますから、救急車は2つ先の隣町からくるとのことでした。

それは滝ノ水っという場所ですが「滝ノ水!?すごく遠いじゃん!!」っと言いました。
姪はそれもパニックで、かかりつけの病院と話していた電話を切ってしまって119にかけようとしていました。
私は救急車が迷ってはいけない・・いや本当は強いお父さんの今の状況から逃れたい一身で外に出て救急車を待っていようと思い、外に出たら義兄が外で待っていて「僕が救急車を待っているから中にいなさい」といわれ、甥も帰ってきたんだと確認しました。
その間、母がお父さんの胸をさすっていたところ、甥が「おおまま、やり方が違う!!」とたまたま保険体育の時間に習った人工呼吸を始めたそうだが・・
反応はなかった。

甥は悲しみで違う部屋にいた。私がお父さんのそばに行くとまったく反応がなかった。母はひたすら無言でお父さんの胸をさすっている。そして一言「救急車はまだなの?」私は再度外に見に行くと大きい消防車が止まっていた。地元のレスキューが到着したようだ。

少し・・・安心しました。たぶん119をしてから10分程度ですがとても長い時間でした

忘れない為に(PartⅥ)

2008年04月13日 20時29分58秒 | 父のこと
お父さんが横になると同時に、隣にあった翌週入院予定のための準備していたものの中から大き目のタオルを取り出し、お父さんの頭の下に引いた。
気がつくと、犬の紋次郎が見に来ていた。これは遺憾と、紋次郎を隣の部屋に連れて行こうと追いかけた。今思うとこのときにお父さんの意識はなくなったのだと思う。
隣の部屋に犬の紋次郎と連れて行くのと入れ替わりに母と姪がお父さんのそばにいった。私もすぐに駆けつけて・・・驚いた

痙攣していた・・・

母はただひたすら背中をさすっていた。私はうつ伏せになっているお父さんを「上を向いて!!お父さん!!」っと母と一緒に仰向けにさせた。そのときのお父さんの顔は・・表現できないけど意識はなかった。
姪が悲鳴を上げる。私は「お父さん!!口をあけて!!息を吸って!!」っと指をお父さんの口の中に押し込もうとした
(これは子供のころ、近くで救急車が止まり、私より幼い男の子が口先にガーゼを巻いた割り箸が入っていて、後日それは何か??と質問したところ、ひきつけを起こすと舌をかむからその予防だっときいてそれを思い出して舌をかまないように手を入れようとした)
すごい力で歯が閉じている。何とか口を開けようとする。姪は「大パパ!息を吸って!口を開けて!!」っと泣きながら叫んでいた。母はひたすら胸を無言でさすっていた。姉はどこかに電話をしていた

本当になかなか口を空けてくれなかった。親指には歯型がしばらく残ったほど。でも口を空けてくれたと思ったら・・舌が出てきた。そうしたら口にあれだけ力が入っていたのにふーーーっと抜けていって口が開いた。
母は人工呼吸をしだした。
姉が病院に電話をしながら来た。チアノーゼが出ています!!。そうか、あの首の紫色はチアノーゼだったんだ。聞いたことがある。このとき思った
「自発呼吸がありますか?」の問いに姉はお父さんの口に手を当て「あります!!」と答えた。母はこの間ずっと口から空気を送っていた
私はこの間、あまりの現実に目を向けられず一度その場をたった。どこへ行ったのか覚えがないのだけど、受け入れられなかった

自発呼吸があるときは人工呼吸をしないで気道をまっすぐにするように。との事でタオルを何枚もあてて首をまっすぐにしようと試みた。
姪が「救急車!!」を連発。号泣だった

忘れない為に(PartⅤ)

2008年04月13日 15時48分21秒 | 父のこと
久々の更新となりました。 桜も散りかけ、青い葉が出てきています。お父さんは
それほど桜に興味はなかったものの、すこし寂しくなりますね・・


トイレから出てくるといきなり「暑い!!」っと言いながらみんなのいる四畳半の部屋に体操すわりで座り込んでしまった。とても調子が悪そうだった
座った場所は丁度ガスファンヒーターがあたる場所でしたが、それでも私たちにとって暑すぎることはなく、ちょっと寒いくらいの温度でした。
姉が「暑いか?そんなことないよね」といいつつファインヒーターを消そうとした間もお父さんはなぜか「暑い!暑い!苦しい」と連呼していました。
そして「この部屋は暑すぎる!!」っと言って違う部屋に行きました。その部屋は普段使っていないお父さんが一番気に入っている日ごろ日本間と私たちが呼んでいる客間に走っていきました。後を追いかけると、入り口に座り込みました。
私が近寄ると「背中をたたいてくれ」っというので、後ろに回り背中をたたきました。息が出来ない、苦しい。肩で一生懸命息を吸いながらいつの間にか息が吸えな一途言っていました。
姉と姪が駆けつけ、「病院に行こう」っと何度も説得しましたが、一度病院にいったので「さっき行ったばかりだから行かない」「○○、(姉の名前)うるさい!!」っと頑なに拒否しました

しかし、ふと首元を見ると今まで見たことのないような紫色・・いや黒っぽい紫。

「お父さん、首が紫色だよ。これは救急車だよ」続けて姪が「おおぱぱ(お父さんのことをそう呼びます)、唇が真っ青だよ」・・・。もう返事がありませんでした。姉が電話をかけに、母に病院の診察券はないか聞いていました。姪は母を呼びに行っていました。
二人っきりのとき少し落ち着いたのかお父さんが「ちょっと横になる」と横になりました。これが最期の言葉になりました。