紋次郎と日々の出来事

骨肉腫と闘った紋次郎と保護犬の正次郎との日々

忘れない為に27

2008年06月30日 23時48分28秒 | 父のこと
翌朝、今日は私が会社を休んで母と一緒にお父さんのそばにいる日です。
私は運転が苦手なのであまり大きい車を運転することが出来ず、いつもお父さんのプロボックスを運転しています。今回、財産分与としていただきました。
実際は1年ほどしか乗っていなかったのでお父さんの思い出は薄いのですが・・。

プロボックスで病院に行きました。通いなれた道。

母が車内でタバコを吸ってから行くっというので、先にお父さんに会いに行きました。
お父さんを見ると・・・ますます顔がむくんで本当に土偶のよう・・。
もう旅立ちの準備ならば、せめてかっこいいお父さんのままでいてほしいのに・・。
髪の毛が抜けていました・・・。

今までは抗がん剤にすべてをかけて『効いてほしい!!』っとせつに願ったものですが、今では『こんな状態になってもまだ抗がん剤は効いているの?もういいでしょ!?きれいなお父さんのままでいてほしいからもう髪の毛を抜かないで!!』っとまったく違う考えになっていました。
いつになったら抗がん剤の作用が消えるのか、聞こうと思ったほどです。

人間って自己中ですよね。

大好きな姪のコンサート

2008年06月29日 22時42分11秒 | 日常
姪はお父さんが育てたような子供です。
私たちのときは、お金の事等あり、子育てより家計のほうを優先して、確かにそれほど子供のころの思い出はありません
姪は、自営をやめ、赤ちゃんのころからずっとそばにいました
そんな姪が、金管バンドっという金楽器をつかったクラブに入り、演奏を運動会で行ったときは、涙を流して喜んでいました
実の子供である私たちの時には運動会なんて見にも来なかったのにね。

そんな姪が、お父さんが亡くなってから始めての大きなコンサートを行いました。
イオン大高でのコンサート、ホールは吹き抜けで、音がまるで天まで届いているような感じでした、
最初のころは音もまともに出なかったのに、今では心地よいハーモニーを奏でています。
お父さんも泣いて聞いているでしょう。
思いっきり拍手しているでしょう。「手を振るとさやか(姪)に怒られるから」
っときっと柱の影で聞いているんだろうな・・・
生きていたら絶対はってでも行っていたコンサート、無事に終了したよ

きっと天国できいていたよね


忘れない為に26

2008年06月29日 22時30分48秒 | 父のこと
区役所に諸手続きをおえ、甥、姪を待ち午後の面会に行くことに。
今日は飼主1も会社から見舞いに来てくれました

そろそろ身内に報告しないといけない時期になりました。

身内といってもお父さんは高知県出身で、すでに両親は亡くなり、高齢の叔父が2人残っているため、そちらには連絡しませんでした
母方の両親も戦争等で亡くなっているので、母の弟だけに連絡しました。
お父さんの晩年、母の弟とはとても仲が悪く、心配でしたが、お父さんのことを見に来てくれました。
今住んでいる場所は母の実家からとても近く、私にとっての叔父の家も歩いて3分ほどの距離で、幼いころからとてもお世話になっていました。
ちょっとした理由から仲が悪くなり、私たち姉妹はとても悲しい気持ちになったのですが、叔父がお父さんを見舞ってくれて本当にうれしかったです

お父さんは相変わらずで、目も開けず、ちょっと体位を変えてもらったくらいでした。生きているのか死んでいるのか・・・でも倒れたときに見たあの血の気を示さない手の色のことを思えば、血が通っている暖かい手を触っているだけでもうれしかったです。

姪が、もっとお父さんに優しくすればよかったっと泣きました。しつこいくらい大好きってお父さん言っていたもんね。年頃の女の子にはうっとうしいよね。
甥に比べ、のんびりしている姪の味方はお父さんだけでした。
それは私も一緒です。前にも書いたかもしれませんが、私と姉は6歳、年の差があります。お父さんはよく、『姉は6年、紋ママよりお父さんたちと一緒にいられるから、それは変えることは出来ないから、紋ママはかわいそうだ』っと言ってかわいがってくれたことを忘れられません。

みんな、慣れてしまっていたんですよね。きっとお父さんは大丈夫っと思っていたんですよね。飼主1が出張のとき、お父さんの病院に行ってお弁当を食べました。
結構楽しかったです。ちょっとした時間ですが、何もするわけではないけど、楽しかったのに、最期は自分のための時間に使ってしまっていました。まだ大丈夫だろうっと思って・・・後悔です・・・


翌日、私は会社を休みました。
、『姉は6年、紋ママよりお父さんたちと一緒にいられるから、それは変えることは出来ないから、紋ママはかわいそうだ』
の言葉のとおり、お父さんは私のために大切な時間をくれました。

旅立ちの準備が徐々に整っていきました

高額医療について

2008年06月25日 23時11分37秒 | 父のこと
お父さんの闘病の続きになりますが、高額医療について、
癌等、医療費はとても高いです、各市町村で高額医療の補助が受けられますが、
まず自分で立替払いをしなければなりません。
お父さんは死後の書類整理で、きちんと市に請求した領収書、最期に請求するはずであった領収書が見つかりました。

家族のことを考えていたんだなっと号泣

呼吸器科の先生が変えられて、日中の面会が終ろうとするころ、病院の事務員さんが見えて、高額医療の話をしました。
私は上長からかなりのお金がかかるっと言う話を聞いていたので、きっともどりの話をするのかと思いきや、今年から先に市に申請すると支払い時に年収に応じた、高額医療補助額を引いた金額を病院に支払うことが出来る制度(名前は忘れましたが調べます)が出来たっという話でした

高額医療は確かに市から戻りがありますが、まず自分で立替をしなければなりません。これも癌となるとかなり高額。
お父さんが入院している間も医療費が払えず、国からの補助の回答待ちっと言う患者さんが結構いました。

癌しかもICU。かなりの高額です。

その当時はそんなこと、考えていませんでした。私は・・。
でも病院の事務員さんに言われ、今なら間に合うからっと、名古屋市緑区役所に走っていきました。
結果はその後、3日後に亡くなりました支払いは高額医療費補助金を除いた小額の医療費ですみました。
かなり助かりました。あの状態で後日高額医療返済を申請するのは難しかったほど落ち込んでいましたから。

医療費を払わない方がいるっと言う中で、医療関係者もそういった方の補佐を何とかしようとしています。本当にすばらしいことだと思いました。
モラルはきちんと守ってほしいです

その事務員さんは後日もいました。
ICUって本当に入れ替えが激しいです

偶然ってあるのですね

2008年06月22日 23時44分51秒 | 父のこと
今日、お父さんのお気に入りのお店のひとつ、南区にある醍醐というお蕎麦屋さんにお父さんが亡くなってから初めて行きました
ついたとたん、女将が、「お父さん、どうかなさった??」っと聞いて来ました。
女将は丁度お父さんが召された日に同じ病院で退院をしたそうです。
その病院は入金を確認しないと退院が出来ないので、大将がお金を持ってくるのをロビーで待っていたそうです。そこで私、その後母が青い顔をして走っていったので、もしかして・・っと思ったそうです

お父さんは醍醐のおそばがとても好きで、家から病院へ行く途中にお店があるっと
言うこともあり、しょっちゅう行っていました。もちろん!!味もお墨付きです!!
病気になる前から自慢げに醍醐のそばを自慢していました

『虫の知らせ』・・っと言うほどではないですが、なにか思うことがありました。

帰り際、女将が「お父さんにお供えして・・」っと、蕎麦がきをいただきました。
もう、私と母は号泣!!本当にうれしくって、感謝です。


帰りの車で、高知の田舎から出てきて45年、こうして皆さんからお悔やみをいただいて、本当にうれしい。っと母が言っていました。

カメラを持っていかなかったのですが、名古屋市南区の醍醐!とてもおいしいので
ぜひ、訪れてください。

お父さん、よかったね。

忘れない為に25

2008年06月19日 00時05分00秒 | 父のこと
その後、呼吸器科の先生とお父さんを見舞いました。
お父さんには肺気腫のため、胸から空気を抜く管を通していました。
以前にも肺気腫を起こしたときにも管を通したのですが、その管(その先の機械)は肺に水がたまったときにつける機械と同じものです
お父さんの最初の癌友達の水野さん、私と同じくらいの30代の男性です、彼が最期につけていたのがこの機械で、機械には血が混じった水が出ていたそうで、どうもそれがトラウマになっていてとても嫌っていました
現在、その機械には空気が出ている様子もなく、水も出ている様子もありません(看護婦さんに聞きました)
そこで先生にこの機械を取ってほしいとお願いすると「いや、今後これが役に立つから今は取らないほうがいい」といわれました。そのときはお父さんが嫌がっているのではずしてほしかったのですが、これが延命に役に立ったのはその後わかりました。
先生はお父さんに声をかけて退室しました。この日もドカベン先生はいました
たしかこのときだと思うのですが、脳死判定はとても大変ですからやりませんが・・・大変厳しい状態ですっと言われました


忘れない為に24

2008年06月18日 00時18分56秒 | 父のこと
先生は倒れる前に病院に行ったときのレントゲンを見せて説明してくれました。やはり肺気腫があるそうです。本当にこんな状態になるとは驚いていますと。1月の終わりには元気で退院したのに。といってくれました。
私たちにしたら元気というか、退院後は体調が悪かったんですがね。
呼吸器科の婦長さんとICUの担当の看護婦さん(毎日担当が替わります)が一緒にいました。
私は先生にもし、このレントゲンを見たらすぐに入院させますか?っと聞くと、『はい』っとはっきり言いました。
私は思わず号泣して、『悔しいです、何とか説得して病院に行かせたのにこんな結果になって、本当に悔しいです』っと言いましたが、もちろん先生は無言でした。
姉や母がいろいろ聞いていましたが、もう自分が聞いたことしか覚えていません。母は先生にとても気を使っていたことを覚えています。

私はこのとき、まだお父さんは助かると思っていました。ICUの先生が肺がんよりまず意識を取り戻すほうが先です・・っと急変する前に言っていたので、先生に「もしこのまま意識が戻らなかったら抗がん剤は打てないのですよね」先生「はい」「もしこのまま意識がもどらず、癌が進行した場合、お父さんは痛いとおもうのでしょうか??」という質問をしたとき、先生は「??}みたいな顔をしました
私には意味がわかりませんでしたが、今となればカルテを見て『脳死状態』と把握していたのでしょう、痛みなどないっと言いたかったのでしょう、それ以前にそんなにもたないっと思ったのでしょう、ですが、しばらくして「きっと大丈夫ですよ、痛みを抑える薬はありますから」っと言われました。

その後、お父さんは決してあきらめなかったという話、抗がん剤を打っているときに病室でビールを飲んでいて先生に怒られた話などをされました。ビールは私たち娘が差し入れしていました。せめてお酒ぐらいは・・っと思っていたのですが、今ではそれがいけなかったのかもしれませんね。元気で入院していたころの院内での話をしました。
私はただ終始涙が出て仕方がなかったです。悔しくって悔しくって、せめて誤診した内科医!!!謝りに出て来いよ!!!っとずっと思っていました
今でも思っています。訴訟するつもりとかまったくないけどせめて医療ミスは認めて謝罪してほしかったです。

訴訟してもお父さんは帰ってこないです。でもせめて謝罪ぐらいはしてもいいのではないでしょうか??姉は肺気腫があるってわからなくて機嫌よく帰ってきたからよかったじゃないの、というけど、私は行きたがらないお父さんを説得したし、そういう問題じゃないと思います。
本当に悔しいです

忘れない為に23

2008年06月15日 21時45分59秒 | 父のこと
そろそろ病気がわかったころのことを話したいと思いますが、キリのいい7月ごろからっと言うことで・・・

病院に行くとまだ母と姉はいませんでした。
お父さんに会うと・・これまた昨日異常にむくんでまるで『土偶』のようでした。
顔の下のほうがむくんでいるんです。重力で水分が下がっているのでしょうね。
その顔を見てまた号泣でした。
看護婦さんが来て、今日は誰が来ますか?と聞くので、母と姉と私です。というと主治医を呼びに行ってくれました。

ちなみに、今回は4人目の主治医です。その主治医も4月で中京病院を辞める予定でした。4年弱で主治医が4人も代わるとは異例のことです。ですが最後の先生は最初から部長としていらっしゃったお父さんにしては一番信頼していた先生でした。
この先生が辞めたら違う病院にも行ってみる・・といっていた矢先でした。

私は初めてお目にかかる先生です。
やがて母、姉が到着してICU近くの個室で話をしました

私たちはまだお父さんが脳死って事、脳死の意味を知りませんでした
昔テレビで見た『植物状態』で何年も意識もなく生き延びるのだと思っていました

忘れない為に22

2008年06月11日 00時41分51秒 | 父のこと
写真は100カ日法要を行った料亭です。母がいろいろ店のリストをあげましたが、お父さんが病気のとき、夏になるとこのお店の『そうめんランチ』が好きでよく行っていました。
それもあり、お父さんが知っている店でっとことでここになりました。
ここの女将に話をすると覚えていていつもお父さんが食べていた場所で食事をさせていただけました。
お父さんもきっと満足だったと思います。

なんとなく寝れたのか寝れないのかよくわからない状態で会社へ。飼主1が私があまりにも涙が出るので頼んでおいたコットン状のハンカチを机においてくれていた。
部長と同僚に、父親が危篤状態なので今後うまく仕事が出来ないと思う・・っとつげたとたん、涙が出た。今日は状況を聞くために半日休暇をとりたい旨も報告した。私のただならぬ状況に部長も「わかった」っと言ってくれました
とりあえずやるべきことを半日でやらないといけないので必死でやっていました。もちろん部長は状況を聞いてきました。

日曜日に倒れて、今集中治療室に入っていることを言うと部長が母親が集中治療室に入ってその後すごい請求が来たよ、後日戻ってくるけどとりあえず立て替えないといけないからとても大変だよっと教えてくれた。
部長が就任してしばらくしてお母様が亡くなられた事は知っていたけど、そうなんだ。やっぱり当事者じゃないと解らないんだなっと納得しました

取り急ぎ仕事を追え12日の午後と13日の全休をお願いして、いざ病院へ。
今日は呼吸器科の主治医との面会の予定です。
たくさん聞きたいです。
名古屋の金山駅へ行き、バスに乗り換えました

忘れない為に21

2008年06月04日 20時56分27秒 | 父のこと
2月11日の夜、明日から会社です。そして明日は呼吸器科の主治医と話しをすることになっていました。午前中に会社に説明をして、午後から休みをもらい病院に行く予定です。
姉と休みの調整をしました。私が13日に休み、姉が14日に休む。その後は話し合って決めようということになりました
姉に会社になんていう?と聞くと、「父が危篤だからっていう」といわれました

ああ、お父さんは危篤なんだ・・・・・

私が小学生のとき、母の友達が事故にあい、その電話を取ったのが私でした。
『お母さんに○○さんが危篤だからって伝えて』その時私は危篤という言葉を知らず、丁度習い始めた国語辞典で調べた思い出があります。そしてびっくりして
母の友達は亡くなりました

危篤・・・つらいです。悲しいです。認めたくないです