紋次郎と日々の出来事

骨肉腫と闘った紋次郎と保護犬の正次郎との日々

本当の3年

2011年02月11日 00時37分02秒 | 父のこと
お父さんが天国に行って3年になりました。
母は相変わらず寂しそうです
お父さんはたまに夢に出て来てくれます。いつも「どうして死んじゃったの?」と
聞くのですが、そのことについてはいつも黙っています。
3年前の今日、お父さんが倒れて今頃は病院の雑談室でソファーを並べで母と姉、3人で寝ていたっけ。
今日、会社の後輩のお母様が交通事故で亡くなりました。2日ほど、がんばってくれたようです。まだ63歳。
人の死って本当にわからないです。
今を一生懸命生きないといけないですね。








お父さん、元気ですか??こちらはいろいろ大変です。
やっぱりお父さんがいないとだめです。
時々、家で一人のとき、『お父さん!!』って呼んでいるの聞こえていますか??
『なんだぁ?!』って帰ってこないのが寂しいです。

無事三回忌を終えました

2010年02月10日 23時25分00秒 | 父のこと
2年前の今日、お父さんは倒れました。2年前の今頃は一体何が起ったのかいまいち理解できず、不安の中、病院のソファーに布団を引いていたころだと思います。

先週、無事三周忌を終えました。早いものです。
最近、お父さんは夢には出てきませんがなぜか思い出して涙が出ます。

12歳から毎年行っていた大晦日の除夜の鐘付きをやめました。
なんとなく。でも初詣には行きました。

今頃お父さんは何をしているのだろうか?と思います。『無』になったと思うのですが
なぜか・・・そう思いたいです。


無事、一周忌をおえました

2009年02月11日 21時38分47秒 | 父のこと
2月8日に無事、一周忌と納骨を終えました。
母が選んだお墓にお父さんは新しい家として入っていきました。

一周忌のお経をいただいている間、隣で母がお父さんのお骨をしっかり握り締めて
いる姿を見て、この一年の出来事や、一年前の出来事を思い返していたら不思議と
涙があふれてきました。

いまだ、信じられない気持ちです

この一年の間に、沢山の方が亡くなってしまったり、新たに闘病生活に入ったり・・
がんの研究が早く進んでほしいと思います

一周忌のとき、義兄のお父様が遠方から来てくださいました。彼はすい臓がん4年
目に突入しています。今は抗がん剤を打っていて、頭もはげてしまい、げっそり
やせていました。見ていてもつらそう・・・。

その時、ふっと思いました
きっとお父さんもそうだったのだろうっと。横浜に行ったとき、電車の中で沢山の
方に席を譲っていただいたそうです。関東の人はやさしいぞっと言っていましたが
私としてはあの力強いお父さんが席を譲ってもらうなんて・・どうして??
っと思っていましたが、ほかの人から見ると一周忌の義兄のお父様のようだった
のかもしれませんね。闘っている本人や家族にはわからないのかもしれないです
そばにいるから?必死だから??
でも、周りの方の心遣いにほんとうがうれしかったです。お父さん、本当はたって
いるのも、つらかったみたいでしたから


一年、経ったんだな・・・・・

最近

2009年01月23日 00時33分46秒 | 父のこと
もうすぐ一周忌です。
昨年の今頃はもう使う抗がん剤がないっといわれ、小細胞肺がんなのに、非小細胞肺がんで使う抗がん剤を打っていました。どうもこの抗がん剤が合わなかったようです。
非承認の抗がん剤を使えばよかったといまさら思うのですが・・・後の祭りですね


死亡宣告の後、ドカベン先生が母に『小細胞肺がんで4年近く生きた例はまれなのでよろしければ解剖をして今回の試飲の原因等を調べたいのですが、もちろん、断ってもかまいませんよ』っと母に言っていました
母はお父さんがちょっとでも腹を切ることを嫌がっていたのを知っていたので『主人は盲腸を切ってからメスを体に入れるのを嫌がっていましたので(事実、腎臓癌を疑われていましたが、きるのを嫌がっていました)解剖はやめます』
ドカベン先生は説得することもなく「解りました」っとおっしゃっていました
看護婦さんが「管などを抜くのでこちらに・・」っと応接室に案内してくれました。

外には晴れているのに雪が降っていました。銀色にきらきら光ってとてもきれい・・・義兄が「義お父さんはかっこいいことが好きだったからね」っと言っていました。お父さんは死んだんだな・・・・・・・・・・・


子供のころ、友達の家で遊んでいるとき救急車が通ると「私の家かもしれない!」っとあせったことが何度もありました。家族が長生きするように毎年願っていました。がんっとわかって覚悟をしていたけれど、こんなに早くこのときを迎えるなんて思いもしなかったです。
きらきら光る雪を見ながら、いまいち実感がわかず、夢を見ているよう。とりあえず会社に連絡、飼主1の親に連絡、そんなことばかり考えていました


闘病記2
2005-4-17
母、姉、私、姪といつも行くスーパー銭湯に行った。
そこで家族で話し合った。私はしばらく実家に寝泊りしようと思うと言った。
母、姉は何も言わなかった。
肺がんである確立は70%だと医者に言われていたので、母は「悲観的にならなくっても
大丈夫だよ」っと言っていた。
家族ではお父さんは100まで生きるだろうって言っていた。お父さんの両親はお母さんと
結婚する前に病気で亡くなっている。でも親戚は80代まで現役で元気。
ガンには無縁の家系だと思っていた。それもあったのだと思う。

4センチ大の腫瘍、これがあったら末期だから痩せたり食欲不振だったり出るよっと。
確かにお父さんは咳以外元気で食欲もある。胸が痛む以外何も症状がない。でも私は
どうしても悲観的に考えてしまう。それではいけないんだけどね。

多治見に帰ると飼主1の前で泣いた。飼主1は焼肉に連れて行ってくれたけど・・
不安はぬぐえない。

闘病記(知らせ)

2009年01月04日 21時13分34秒 | 父のこと
闘病記については別のホームページに記したものをそのまま掲載します
今肺がんと闘っている方のご参考とまではいきませんが
これまた私の思い出として記したいと思います


2005-4-14
足が震えた

今朝、携帯を見ると親から電話があった。
留守電にも無言の電話があった。たまたま紋次郎の散歩に行っていて気付かなかった。
ああ、会社に行く途中で電話をしよう、と思っていて忘れてしまっていた。
会社の昼休み、電話をすると母が『本当は顔を見て話そうと思っていたんだけど、
あんたも娘だから知る必要があると思って』っという。
すごく不安になった。「言いたいことはちゃんといってよ!!」というと、
今、お父さんの検査入院の帰りの車の中だと。私は検査入院をすることすら知らなかった。
お父さん、肺がんかもしれない。結果は21日に出る。
足が震えた。とうとう私にもこういう試練がきたのだと、最初に思った。
それから仕事にならず、会社で肺がんについて調べた。
同じ会社の飼主1に報告して、今日は実家に帰ることを告げた。
 
実家に帰るといつもと変らない家族。聞けば2月からお父さんの咳がおかしかったと。
私はまったく気付かなかった。私は実家を離れているからこんなことがないよう
に、月に一度は必ず実家に行っていたけど、叔父叔母、母の友達も検査入院をする
ことを知っていたのに、私だけが知らなかった。
4月の上旬の旅行のときも電話をしたが、そのことにはまったく触れなかった。
すごく悔しかった。結婚なんかするんじゃなかったと思った。
健康自慢の父、母と違って血液検査も良好で、肺の検査もしていることは知って
いたけど、痰がとれないから検査が出来ないんだわ、っとまったく問題がないよう
なことを言っていた。
それなのに、こんなことが・・・明日は午後から休むことにした

無題

2008年11月11日 23時09分13秒 | 父のこと
筑紫哲也さんの追悼番組を見ました。
奥様が棺にタバコを入れなかったというエピソードからお父さんと同じ小細胞肺がん
かな?っと思っていましたが、やはりそうでした。
丁度筑紫さんが癌の告白をしたとき、まさしくお父さんは闘病中でした。
同じ肺がん、テレビで見るだけの方でも、ともにがんばって行きたいと思っていました。
残日緑によるとかなり闘病生活は大変だったようで、オプソ等痛みを抑える薬の
名前も出ていました。しかし彼は仕事を全うしていました
男性はそうかもしれませんね。お父さんも最期まで仕事をしていました。
本業を廃業し、委託の仕事をしていたのですが、一時帰宅のときでも委託した方と
一緒に現場に出て指示をしていました。病院に何度も請求書や図面を持ち込みました。(写真は倒れる半月前、仕事に使うからと近くのホームセンターへ部品を買いに行ったときの領収書、私の宝物です  日付は1月26日 体がだるいので頼まれました)
抗がん剤の副作用やずっと病院で寝ていたため、体力低下で運転もうまく出来なかったのにね。咳ももちん止まりませんでした。筑紫さんもそうだったと思います。そんななかレポートをしているなんてすばらしいと思います


そして、昨日、お隣のおじさんが肺がんで亡くなりました。

小細胞肺がんはタバコが原因です。

きちんと健康的な生活をされていた方でも肺がんにはなります。その方々からすれば『自業自得』でしょう。そうですね。
でも私のお父さんなんです。
私たち家族を愛してくれていたんです。
なに不自由なく育ててくれれたんです

それだけです

最期に向けて6

2008年11月09日 22時11分54秒 | 父のこと
姉はずっとお父さんをさすっています。周りでみんなが泣いています。
お父さんは変わらない、さすると心拍数が上がり、やめると0になるという状態です。
私は一体いつ死亡宣告するんだろう??どのような状態になったら死亡宣告するのだろう?っと冷静でした。
いつも間にかベットの回りはカーテンがひかれていました。
するとおもむろにドカベン先生がやってきて、「そろそろ死亡宣告をします
って・・・そろそろってなんだ??
っと思いましたが、
「あの時計は正確ですから、あの時計で言いますね。10時40分です」
その言葉を聞いたらなぜか疑問はすべて吹っ飛び、思わず口から出た言葉は
お父さん、行ってらっしゃい
でした。
なぜそんな言葉が出たのかわかりませんが、きっと違う世界にお父さんは行って、生まれ変わるのだと思います。または私たちを待っているのだろうと。。

お父さんがいなくなってしまうなんて、お父さんの死んだ姿をこんなに早く見なくてはいけないなんて・・・癌とわかったときにそれなりに覚悟をしていましたが、いざ現実になると子供のころの思い出ばかりが浮かんできます。

実年齢、69歳 享年71歳 平成20年(2008年)2月14日のことでした。


久方ぶりです

2008年11月09日 21時55分08秒 | 父のこと
ああ、もうずいぶんと更新していませんでした。記憶もちょっと薄らいだり。
更新していないプログでも訪問者はいらっしゃるんですね。うれしいやら、恥ずかしいやら。自己中心的なプログですみません

プログを更新していない間、一周忌に向けてお墓を選んでいました。
父は早くに両親が他界し、父方のお墓は何処??状態。母は地元ですがお嫁に
出ていますからね。
生前に場所だけは確保していました。その場所は法事をやっているお寺にあるのですが、なにぶん急な坂を上らなければなりません。今は簡易墓(木のお墓)を立ててあるのですが、お墓参りも大変です。特に母が。
そこで場所の移動をお寺にお願いしたり、墓石を決めたりといろいろでした

なんせ、お墓を決めるのも大変・・・石から選ばないといけないのですから。
中国の石からインドネシア、いろいろです。
外国の石はいやだからと、日本の石から選んだのですが九州やら四国やら、沢山!
最初はお父さんの出身の高知の石にしようと思ったのですが値段が破格!!
結局地元の石から選ぶことにしたのですが、岡崎やら稲武やらこれまたいろいろ
大きさも9寸8寸、形も今風や昔からある普通のもの。平凡な形でもまたいろいろあって・・・

結局、石屋さんと母と住職とで回りになじむような稲生の石に決めました。
形も平凡な一般的なもの、そして名前をついでいなくても全員が入れるものに
しました。
私は子供がいないので散骨でいいやっと思っていましたが、なんかここに入ろうと
思います。

子供のころ、家族4人でいたころをふっと思い出しました

最期に向けて5

2008年09月23日 22時45分06秒 | 父のこと
甥がお父さんの顔のそばでお別れを言っていたようでした。
私はひたすら心拍数が0になったり1から5になったりを繰り返しているのを
疑問に思いながら見ていました

母が来ました。姪と一緒に。とても冷静だったと思います「お父さん」っと言ったきりだと思います。
そして心拍数は0ではありませんでした。
母と姪を乗せてきた姉が取り乱して「こんな顔じゃあお父さんがかわいそうだ」っと紫色の血管が浮き出た顔をさすりながら「おとうさん、お父さん!!」っと叫んでいました。
私も一緒に顔をさすっていたのですが、もうなんかすごく冷静になってしまって。
お父さんは無理やり生かされているのではないのか?
私たち全員間に合わなかったのではないのか??
そう思っていました

最期に向けて4

2008年09月18日 23時15分44秒 | 父のこと
間があいてしまいました。
最近、思うことは、もしあの時心不全にならなかったらお父さんは生きていただろうか?っと言うことです。
きっと生きていたと思います。でも治療も限界にきて、緩和ケアに移っていたと思います。私はそれを希望していました。
家族で死を受け入れる準備が出来るのが癌だと思っていたので。
決してお父さんをないがしろにしていたわけではないのですが、一緒に受け入れる準備が出来ると思っていました。でも現実は違いましたね・・


ベットを倒すと飼主1は病室を出て私の家族に電話をしたそうです。
『間に合わなかった』っと・・。
後で聞いてはい??っと思いましたが、あまりにも私が泣くので間に合わなかったと思ったそうです。そして私が疑問に思っていることも見たっと言う理由もあります。

座ってくださいって言われてもそうそう座っていられません。お父さんはベットを倒して垂直にベットを戻しました。
そうすると・・・・・今まで数値が出ていた心拍数がいきなり”0”になりました!!テレビとかで言うピーピー状態。もうどうしていいのかわからなくて、「お父さん!!0の数字を見るとお母さんが悲しむから、もう少しがんばってよ!!」っと悲鳴ではなく、どうしてこの状況が起こっているのか疑問の声で言いました。すると、0~5のあたりをふらふら。ベットを倒す前は20~30はあったのに?!すると看護師さんが「今朝、急に調子が悪くなって、出来るだけ早く知らせようと思って電話しました」っと笑顔。
疑問の渦の中「ありがとうございます」っと言うしかありませんでした。

一体どうして“0”っという数字になるのか、不思議でならなかったとき、甥が駆けつけました。

甥は共働きの両親に代わってお父さん、お母さんに育てられた子供です。
彼は彼なりにお別れをしていました。