紋次郎と日々の出来事

骨肉腫と闘った紋次郎と保護犬の正次郎との日々

忘れない為に20

2008年06月01日 22時36分23秒 | 父のこと
姉夫婦を病院近くのレストランに呼び出して今後の延命処置について話し合いました。
母は看護婦さんに言われた言葉と合わせて自分の目で見た癌でショックを受けていました。姉は・・・きっとそれほど長くはないってわかっていたのかもしれません。頭が良いから。お母さんの好きなようにすればいいっと言っていました。でもお父さんはあきらめていないと・・・。

家族で決めたことをドカベン先生に話をしました。先生は自分が非番でいないときのためにきちんと引継ぎをしておきますねっと、とても親切にしていただきました。
お昼の面会時間が終わり、午後の面会の間、丁度母と姪が一緒になる時間があり、その時姪は「もっとお父さんに優しくしていればよかった」っと号泣だったそうです。
その気持ちは私も一緒でした。癌とわかって最初はyesmanで何でもお父さんに言われることを聞いていました。でも最期の方は・・咳をするお父さんに口に手を当てればいいのに・・とか、だるくてお風呂に入れないのに・・・・・ちょっとにおってきたよって言ったり・・・。私はお父さんの癌に慣れていました。最期がこんな形で急に訪れるとは思っていませんでしたから。
後悔です・・・・・。でも出来ることはやってきたとも思っています。

ただいえることは。。。十人十色。癌は自分の細胞なので癌も十人十色なんだなっと。油断は出来ないんだってことです。

お父さんは人生を満足してくれたんだろうか???

忘れない為に19

2008年05月27日 23時03分21秒 | 父のこと
健康食品・・っと言いましょうか、お父さんは退院、もしくは一時帰宅のたびにうなぎを食べていました。もちろん輸入ではなく、こちらで言えば三河産のうなぎです。一人で行くことはなく、必ず誰かが一緒でした。家族がなにか用事があると、一緒に食事をしたくないっと言っていた義兄を誘ってでも必ず行っていました。体力をつけていたんですね。全部食べれるときもありますが、時には食べれないときもありましたが、ジョッキビール一杯とうなぎ定食をいつも食べていました。家族はカロリーオーバーでしたけどね・・


姉に会う前、延命処置についての話がしたいと電話した後、私と母は病室に戻りました。その時、ちょうど肺の内視鏡をしている最中でした。ドカベン先生が相変わらずの申し訳ないような顔をして、説明してくれました。

気管支を通るカメラ・・・・・。肺の入り口の近くの気管支の一部が盛り上がっていました。先生はこれは癌が気管支を押しているのです。と教えてくれました。気管支はきれい。そして癌のある肺へ。右の入り口はちらりとしか見えませんでしたが、ちゃんと入り口がありました。
癌がある左・・・・・もう入り口の時点で癌が見えていました。
はじめてみる癌。白くて白子というより白い風船のよう。気管支まで盛り上がっていました。これは今までの抗がん剤でも生き残っていた強い癌細胞です。説明してくれました
気管支にも盛り上がって入り口をふさいでいるように盛り上がっていました。これ以上カメラを入れると出血して大変になりますから・・っと引き上げました
癌の大きさにも驚きましたが私は普通の人が気管支鏡をするときは麻酔をしても大変な思いをするのに、麻酔なしのお父さんはピクリともしなかったことです。
もちろん先生は痛がらない患者さんなのでやりやすいでしょう。後日調べたことですが植物状態の方はいつ意識が戻るかわからないので麻酔は行うそうです。でも脳死の場合は行わないそうです。

そういったことがあり、先生が何を言ったか覚えていませんが、私は本当に涙が出て、「先生のおっしゃっている意味がわかりません」っと聞いた覚えはあります。先生は申し訳ない顔ばかりしていました。母は目の当たりにした癌に驚いたようで、言葉もありませんでした
(私もこんな癌があってよく転移がなかったなぁっと驚きました・・・)
お父さんの頭をなでて・・・抗がん剤で髪が薄くなってきているけど、お父さん、今までがんばってきたんだね、ありがとう。私を育ててくれてありがとう。大好きだよ、お父さん。冷たくしてごめんね。でもわかっているよね。ありがとう。本当にありがとう。

このとき初めて感謝の言葉を言いました。今なら聞こえるかも。姉がお父さんは天井を指してこの辺にいるよ、っと言っていたので。いつも言いたくてでも言うのも照れくさい、言ってしまってどうなるっと言う言葉を言いました。

忘れない為に18

2008年05月25日 22時55分52秒 | 父のこと
健康食品の続き、それと野菜ジュースを飲んでいました。これは普通に市販されているものではなく、通販のもの。必ず一日1本は飲んでいました。
今ではすべてが在庫となってそのまま残っています。悲しいです
私が紹介した健康食品はくれぐれも癌が治るのではなく、ただ、免疫があがってのかなぁっと思う程度のもです。病は気からっと言いますしね。

看護婦さんがお父さんの歯磨きを始めました。今日は先生が気管支鏡をしますから
と教えてくれました。
意識のないお父さんにどうやって歯磨きをするのかな?と見ていると、歯ブラシに歯磨き粉をつけて普通に洗い、買ってきた歯茎マッサージ用の歯ブラシも使い、最後に普通は水を飲ませるために使う容器から水を口に入れてバキュームで吸い取っていました。
お父さんすっきりしたね・・なんていってみたもののとても事務的で、意識がないので仕方がないのですがなんか悲しくなってしまいました

この間とても重要な話をしました
あまりにも衝撃的でどういう話から始まったのかまったく覚えていません
まだ希望を持っていた私と母におもむろに話し出したのです

お父さんは瞳孔が昨日から開きっぱなしです。生体反応(痛みによる反射反応等)もありません。自発呼吸もありませんっと。ただ私たちが最初に延命処置をお願いしたのでいくらでも生かすことは出来ますが、それは本人にとってはつらいことだと思います・・・

え??でも昨日はまだ望みがあるっていったのに??!!確かに昨夜、急変したとき、先生は普通の人が打ったら心臓が逆に止まってしまうほどの注射を打っていますが、これはまだ強くすることが出来ます。
っと言っていた。それで私たちはまだ大丈夫なんだと思っていた。
どうして??
昨日は自発呼吸があるって言っていましたよ?というと、看護婦さんが人工呼吸器をはずして空気の入り口に手を当てていた。機械から警告音が鳴る・・・
看護婦さんは首を振って「やっぱり自発はありません・・」っと。遠まわしにあきらめてくださいっと言っているようだった・・・。もう涙が出て仕方がなかった。
母が看護婦さんに「昨日倒れたときがもう死んだときなんですね」というと看護婦さんは「はい・・」っと。

うそ!!菅原文太似の強いお父さん・・・。そんな事無い!!お父さんは癌になってもあきらめなかったし、一度は復活したじゃない!!絶対そんなことない!!絶対それはない!!これは今でも母と論争になりますが、私は最初はお父さんは絶対あきらめなかったと思います。だって自発呼吸も瞳孔も閉じてきたんだから、ただ神様がお父さんを呼んでしまったから、神様に呼ばれてしまえば行かなければ行けないから・・。姉は気がついたら手足が思うように動かないのでこれなら死んだほうがまし!!(これはよく言っていたしそういう人だった)と思ったからというそれぞれの展開だけど、絶対あきらめてはいなかったと思います。

看護婦さんはもうこれ以上の延命処置は意味がないのではないでしょうか?そういっていた。今思えばその時お父さんは脳死状態だったのだと思う。植物状態と脳死状態、同じと思っていましたが、いろいろ調べたところまったく違い、植物状態は奇跡が起こることがあるが、脳死状態は2~5日で死にいたるそうです。このことを話してくれた看護婦さんはこの後一度も会いませんでした。きっと看護婦どうしで話し合って遠まわしに家族に覚悟をするようにと教えてくれる役目だったのだと思います。

チューブにつながれて顔はむくんでしまっているお父さん、私と母は延命処置をお願いしてよかったのか?っと思うようになりました。一旦お父さんの病室を出て、万が一のために家を片付けに帰った姉を呼び出し、これ以上の延命処置はやめようという話になりました。延命処置をやめても家族がそろうまでは大丈夫ですと看護婦さんは言っていました。


忘れない為に17

2008年05月24日 22時43分43秒 | 父のこと
健康食品の続き、プロポリスと、これは病院にボランティアできていたおばあさんから勧められて飲んでいました『にんにく卵○』これはとても飲みやすいです。2錠でいいところを3錠飲んでいました

あふれる涙の中、買ってきた歯ブラシ等を看護婦さんに渡し、激しく倒れたわけではないのになぜか口の周りに擦り傷が出来ていたのでオロナインを塗ってあげました。唇は昨日の倍に膨れ上がっていました
血圧や呼吸数が出ているモニターを見ると昨日まで数字があったところが0になっていました。これはいったいなんだろう??っととても心配になったのですが看護婦さんに聞くことも出来ず、母とおろおろしてしまいましたが、心配するなら聞いてみようと思い、聞くと、胸が上下する回数です。0でも大丈夫ですよ・・・
それって胸が上下してないって動いていないって事??その後その数値はたまに1から5ぐらいになることがあってもほとんど0でした。

手は点滴がつけられ、指先は脈拍を測るためになにががつけられていました。鼻からもチューブ、口には人工呼吸器、尿管、胸には肺から空気を抜くためのお父さんが大っ嫌いだったチューブがつけられていました。これは昨日から変わりません。早くひとつでもなくなってくれればっとこのときは思っていました

何もついていない足をただ、ただマッサージすることしか出来ません。
本当にドラマのよう。足は不思議とむくんではいませんでしたが、なぜかみずみずしかったです。

そして看護婦さんが歯磨きをしますっとやってきました

忘れない為に16

2008年05月22日 22時49分18秒 | 父のこと
健康食品について、これは最初の入院から最期までずっと飲み続けていました。でも決して癌が治るのではないので、よろしくお願いします
それはプロポリス。免疫が上がるそうで、朝晩2錠。抗がん剤を使用しているときは3錠飲んでいました。これがまた高価で臭くってとても飲めないです。
しかし、義兄のお父様も2年前、すい臓がんで余命3ヶ月といわれていました。癌の先輩(?)の父は義兄のお父さんにプロポリスを薦めて、今も健在です。
しかし癌が消えたわけではないです。そして私は決して業者ではありません。
母は半年に1度行われるとあるファミリーフェアーでいつもプロポリスを買っていました。4年近くなるので業者さんとお友達になり、かなり安くしてくれました。
プロポリスで出来た飴は、なかなか咳が止まらないお父さんにとても重宝しました。プロポリスのおかげっというか自己満足もあると思います(私も飲みましたが臭くってずっと口の中でそのまずい味がしていて・・でも体調変わらずでした)抗がん剤にも絶えれたのかなっとおもいます。
今年もそのファミリーフェアーがあります。母は「お父さんのために買うものが多かった、たとえば下着とか寝巻きとか。毎年お金を持ってプロポリスを買いに言ったけど、もう必要ないし、自分のものも買っても着ていくところもないし・・」こう聞くと本当に悲しくなります。早くたちなおってほしいです。

って、プロポリスは決して癌が治るわけではないですよ!!


朝、一睡も出来ず起きたところ、病院のばたばた音でみんな起きました。今日が祝日で本当によかったです。
話し合って姉がここに残り、私と母は一度家に戻りました。
飼主1もいて、その夜はそれぞれがそれぞれの思いで明かしたようです。
面会時間がたしか・・11時からでしたので、その間に家のことをして、長丁場になると思い、漫画を持って再度病院に行きました。
行きに、病院側から用意してくださいといわれた、歯ブラシ(普通の歯ブラシと歯冠ブラシをドラックストアーの人に薦められました。)と寝たきりの人が水を飲むために使う給水道具(?)をかいました。飼主1は帰りました

病院に行くと姉がいて、とりあえず帰って万が一のために家を片付けるために帰りました。(たぶん・・この辺の記憶がちょっと途切れています)

お父さんに会いに行くと・・・・・・・・
すごく顔がむくんでいて・・・まるでお父さんじゃないようでした

お父さんを見たとたん、ものすごく涙が出て、どうしようもありませんでした。
昨日とは状況が違う、明らかに違う、何が起こったの?????
お母さんはまだ冷静でした


100ヶ日法要

2008年05月20日 23時24分59秒 | 父のこと
5月18日にすぐ近くのお寺で無事終りました。これで一通りの法要が終りました
お父さんも喜んでいると思います。
中学校から結婚するまで毎年大晦日にはこのお寺にお父さんと鐘を突きに行っていた思い出深い場所です


看護婦さんが「今日は急患が多くて仮眠室が全部詰まっているのでこちらで部屋を
用意しますね」。前日の大雪で倒れた人が多かったのでしょうか?
看護婦さんに案内されて一階の応接室に案内されました。そこで布団を貸していただき、ソファーをくっつけて姉と母と3人で寝ることにしました。
何かありましたらこちらの電話で呼びますからと・・。
電話が鳴らないことを祈りつつ、今日の激動の一日を振り返りました。

本当に現実ではないドラマを見ているような一日でした
このとき私と母はきっと復活するであろうっとまだ思っていました。姉は病院に泊まることになったということはどういうことか、とても危ない状態には変わりはないんだよっと言っていましたが、きっと明日にはしゃべれなくても運ばれてきたと同じくらいに瞳孔も閉じてくると思っていました。

とりあえず寝ようっと言うことで横になったのですが
まったく寝れません!!
なんか落ち着けないっというか、なんかが立っていたらどうしようとか、電話が鳴ったらどうしようとか、それより外の扉の開閉音がすっごく気になって、しかも結構頻繁に。見に行こうかと思ったのですがやめておきました
(後で知ったのですが、廊下を挟んだ反対側は霊安室の入り口でした)(その扉が
何度も開閉したかどうかはわかりませんが・・・)

姉が急におきだしてお父さんを見に行こうっと言うことになり、見に行ったのですがICUなので当然入れてもらえることはなく、何かありましたら電話しますから
との回答でした。

また応接室に戻って寝ることにしましたが、やっぱり寝れないし・・・
結局朝まで起きていました


忘れないために15

2008年05月13日 22時36分35秒 | 父のこと
そろそろお父さんお肺がんの闘病状態を書こうと思います
闘病記の前に、お父さんが飲んでいた健康食品を紹介します。
決して行者ではないですよ。そしてこれらを飲んだからって決して癌が消えるわけ
ではまったくありません!!
お父さんは最初のころ、アガリスクを煎じた汁を飲んでいました。すっごくまずくてよく飲んでいるなぁっと思ったものです。
結局闘病中、何の効果もなく、逆に癌を誘発しかねないという記事を読み、3ヶ月
ほどでやめました。
次の健康食品は次回


急になった電話。もしかして病院じゃないのでは?と不安になったが、結果、病院からでした。「血圧が下がってきていますのですぐに来てください」
こんなときでも私は『みんなでお父さんが闘っているのにご飯を食べに行っちゃって怒っちゃったかな?』程度の考えでした。
が、ほかの家族は終始無言
ICUに行くと帰るときにはがらがらだったベットがすべて埋まっていた。いったいどうして運ばれたのか、小さな女の子の「いたいいたい!」の悲鳴が響いていた

お父さんを見るとさっきとは変わりがないが、モニターを見ると明らかに血圧が下がっていた。するとドカベン先生が来て悲しそうに「急に血圧が下がって、今心臓を動かす薬を打っています。普通の人がこの薬を打つとショックで死んでしまうことがあるほどの強い薬です」
現実を見せ付けられた・・・。
家族全員でお父さんに呼びかけた。交代で。義兄たちは足の裏に血圧が上がるつぼがあるからとずっと足をもんでいた。
看護婦さんが「会わせたい人はそろっていますか?」っと聞くので「あと一人いるのですが」というと、二人の看護婦さんが声をそろえて「すぐに呼んでください」と。
すぐに飼主1に電話をした。まだ最終電車が出ていなくて本当によかった
「お父さん、がんばって!まだ大丈夫だよ」
全員で呼びかけ続けた、結構うるさかったと思うけど看護婦さんたちは何も言わなかった。
みんな、泣いていた

すると11時過ぎ、急に看護婦さんが「血圧が安定したし、もう遅いので今日は泊まっていってください」どうやらお父さんはまたがんばってくれた。持ち直したのだ!!
が、家族が泊まる部屋が今日は一杯なので違う部屋に案内します
つまり家族が病院に泊まるって事はまだ安心は出来ないって事で・・・
母と姉、私3人で泊まることにしました

忘れない為に14

2008年05月11日 21時51分34秒 | 父のこと
母がかかりつけの病院にお父さんが亡くなってから始めていきました。母は高血圧をわずらっていて、常に健康体のお父さんと比べて心配でしたが、意外な結末にびっくりです(いつも母のことばかり心配していたので・・)
そこでその病院が開業以来ずっといらっしゃる看護婦さんに「患者さんでご主人が病気ででも本人は五木○ろしの大ファンでご主人をそっちのけでコンサートに行っていた方がご主人が亡くなったら3年ほどコンサートも行かず、ずっと落ち込んでいたが、3年たつと旅行とか行きだして以前より元気になった80代の方がいますよ。やっぱり3年はだめみたいね」っと言われたそうです。
まぁ3年ならいいよ。元気になってくれるならね


何を話をしたのか覚えがありませんが、飼主1を除く全員で午後の面会に行きました。お父さんはやっぱり涙を流してました。それは『こんな状態になってくやしい』っと言っているようでしたが、私たちはそれでもよかったのです。
救急隊が救命処置をしていたときのあの手の色。今はちゃんと血が通っている人間の手をしています。うれしかった!!が、あの状態でここまで回復する医学にびっくりもしましたが、今は暖かい手を握っているだけでもうれしかったです。
落ち着いているのでとりあえず面会終了時間前に引き上げました。
そして夕飯を母が「今日はみんな疲れたから手羽先でも食べに行こう」ということで反対していた姉夫婦を押し切っていくことにしました。

今日は本当にびっくりしたとてもとても長い一日だったと、そしてこれからのことを話し合いながら家路に。
家に帰ってから普段飲まない義兄が、今日は飲みたい気分だからと自分が社員旅行で買ってきた日本酒を取り出したところで・・・

電話がなった・・・・・・・

忘れない為に13

2008年05月08日 22時30分30秒 | 父のこと
先生の質問が終わり、再度お父さんに会いに行きました。
お父さんは最近知ったのですが、片目が(右か左かわからないですが)子供のころ
がけから落ちて神経を切ったためによく見えなかったそうです。まったく知りませんでした。
そちらの目かはわかりませんが左目をうっすら開けて涙が流れていました

お父さん、がんばったね、これからみんなでがんばって行こうね!!

つらくてつらくてたまりませんでした。でもたとえ寝たきりでもがんばっていこう
救急科の隣には救急科専用の病室があってそこには口からチューブを入れたいわゆる寝たきりの方が割りといらっしゃいました。この方たちは呼吸器科にいた口をぽかーんと開けて生きているのかわからない人たち(失礼な言い方ですが)とは違い意識がありません。でも奇跡が起こる可能性がある方たちです。お父さんもそうなると思い、奇跡を信じて看病をしていこう、介護をしようと決めていました。家族全員が。

それから日中の面会時間が終了したので、いったん家に帰りました。
ひとまず落ち着いたので飼主1と紋次郎を帰らせることにしました。
これから長丁場になると思っていました。




忘れない為にⅫ

2008年05月06日 23時48分53秒 | 父のこと
ドカベン先生はまず、瞳孔が閉じてきている事と、自発呼吸が出てきている事を教えてくれました。この二つのことの重大さをそのとこはわかっていませんでしたが、とても喜びました。お父さん!!がんばっているんだって!
だから『脳死状態ではありません』っと言いました。
今朝、撮ったレントゲン写真を見せてくれて、「ここに肺気腫があります、心臓が止まった原因がこれではないかと肺に穴を開けて空気を出していますが、どうもこれが原因ではないようです」・・・・・
私だったか姉だったか、先生に「今朝の先生は肺気腫はないって言っていたんですが」 「普通の先生が見ても肺気腫は確認できます」本当に申し訳なさそうにドカベン先生が言った。ただ無言の私たち。涙だけが出てくる。「今朝の心電図にも心筋梗塞の波形が出ているけど、これだけでは何もいえません、肺がんもわずらっている事ですし・・」

このあたりから記憶があいまいに・・・ただただ涙ばかりが出てしまった

先生が今肺がんの事よりこの状態を脱する事が一番大事です。
っと言った事は覚えています。でもこの状態を脱しても、お父さんの癌は進行が早いのにそのままでいいのか?と質問したと思う。肺がんについては呼吸器科の先生と相談して決めましょうとなった。

私はただ、悔しくて悔しくて、午前中に病院に行った意味がまったくない!!医療ミスだった!!!怒りより悔しさが出てきて涙ばかりが出てきた。

母は先生に、持ち直したら呼吸器科の病棟に行きますか?あそこには本当にお世話になったので、先生は『個室になりますよ』っとちょっと暗い顔で言っていた