オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

『皇國二十四功』 加藤石動丸

2019-03-04 | 皇國二十四功

なぜ棄てた 妻と子を

石童丸の父 、加藤左衛門尉繁氏(かとうさえもんのじょうしげうじ)は

筑紫の国の領主でしたが、ある時 世をはかなんで家を捨てて出家し

京で法然上人の教えを受けたのち高野山に登り

苅萱道心(かるかやどうしん)と称して修業の生活に入りました。

 

国立国会図書館デジタルコレクション

大蘇芳年筆 明治十四年出版

 

【加藤石動丸】

昨日剃っても今同心 一昨日(おとつい)剃っても今同心と

素気なく言うて追い帰す 父は沙門の教戒(おしえ)を守り

子は親愛の道に順(したが)い こころ筑紫の海を経て

遥々(はるばる)尋ね紀伊國(きのくに)の高野(こうや)に染める村紅葉

身に散りかかる墨染(すみぞめ)や 父子(おやこ)の縁は浅葱(あさぎ)染の

頭巾も濡れて時雨天(しぐれぞら) その悲歎(かなしみ)に引きかえて

美名を挙げる石藤丸が 出世の時に遇うぞ芽出たき。

      轉々堂主人題


今道心(いまどうしん) : 今、道心を起こしたばかりの者という意味から

    出家して仏門に入った者で日の浅い者を呼ぶ呼称として伝わる。

同心:同じ考えを持つこと。また、気持や意見などが同じであること。 

墨染:墨染衣の略で僧衣のこと。 





『皇國二十四功』 吉備大臣

2019-02-28 | 皇國二十四功

軍師が生まれたのは奈良時代であり

吉備真備(きびのまきび)は日本最古の軍師であった

国立国会図書館デジタルコレクション

大蘇芳年筆 明治十四年出版

 

【吉備大臣(きびだいじん)】

遣唐使は推古天皇十五年(607年)に信を隋に通ぜしより以来

博学多才の者を選び唐土へやられたるやに 

霊亀二年716年)多治比乃真人(だじひのまひと)らをつかわさしとき

吉備公 未だ下道真備(しもつみちのまきび)と称され

安部仲麻呂と共に留学生として渡航し 十九年の勉励に

政法・教法・軍法及び雅楽・陰陽道を卒業して帰朝し 

再び天平勝宝三年(751年) 副使となって入唐せしに

唐人 野馬臺(やまたい)の詩を以って その戝力を試みしが

観音薩埵の霊言に因り 文字の上を行く蜘蛛(ささがに)の

いと安らかに読卒(よみおわ)り  吾国体を辱めせぬは

さすがに文武の博士なる哉。

轉々堂主人記


 野馬臺詩:やまとの国についての預言詩

観音薩埵(かんのんさった):「さった」は菩提薩埵の略で「菩薩」の意

 

 

 


『皇國二十四功』 常盤御前 ♪

2018-03-08 | 皇國二十四功

常盤御前(ときわごぜん)は源義経の母

九条院の女官から源義朝の妻となり

今若・乙若・牛若(義経)を生む

平治の乱(1159年)で義朝が敗れると

平清盛の追手を逃れて大和に隠れるが

母を人質にとられ六波羅へ子連れで出頭

平清盛の妾となった

 

 

大蘇芳年 画 御届明治十四年十二月

 

【常盤御前】

歳寒くして常盤木のしぼむ平治の戦乱より

あちらこちらに彾徨(さまよい)て

昨日は源氏の大将のいくつしみを受けたけど

今日はまた平清盛に愛される。

子供たちの命を助けるため伏見に出頭したのだから

懐に泣く牛若丸が復讐をはらすまでの苦労を思うと

敵の枕をあてるも涙をはらう閑はないであろう

                轉々堂主人誌

 

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『皇國二十四功』 當麻寺の中将媛

2018-03-04 | 皇國二十四功

今は昔、藤原鎌足の曽孫 藤原豊成(ふじわらのとよなり)に

「中将姫」と名づけられた少女がいた

この美しく聡明な姫は幼い時に実の母を亡くし

意地悪な継母に育てられる

 

 

 大蘇芳年 画 明治二十六年三月印刷 

 

【當麻寺(たいまでら)の中将媛】

蓮(はちす)の糸と共にいくつもの辛苦を重ねたのは

父横佩(よこはぎ)大臣豊成卿が筑紫へ左遷させられてから

継母に無慚の雪責を受けるが 吾身への悪事の報により

蝮蛇に生れ換ったことを 深く悲しみ世をはかなんで

大和の国二上ヶ嶽(ふじょうがだけ)の麓の當麻寺に出家し

髪をおろし真の佛を拝まんと 蓮の茎より糸を採り

曼陀羅を織った功徳によって 継母も生佛得脱し

虚空たなびく紫雲庵に 弥陀観音がおいでになり

行年二十九才にて西方浄土に旅立ったのは

宝亀六年(775年)三月なりき

柳亭種彦

 

 


『皇國二十四功』 弼宰相春衡

2018-02-25 | 皇國二十四功

弼宰相春衡(ひつのさいしょうはるひら)は

軽大臣(かるのおとど)の息子

 

「今昔百鬼拾遺」に曰く

軽大臣という人が遣唐使として唐に居た頃

唐人から口の利けなくなる毒薬を飲まされ

身を着飾り頭に燈台を乗せられ

燈台鬼(とうだいき)と名づけられ行方知れずとなった。

 

 

大蘇芳年 画 御届明治二十年九月

 

【弼宰相春衡】

灯台本暗しのたとえの如く 父ははるけき唐邦(からくに)へ

遣唐使の命を奉じて行たるままに帰らねば

彼地へ渡りてそこかしこと尋ね当れば思ひきや

物言ふ事もかなわを頂き 灯台の鬼と成て泣いる体を父と察し

ゆるしを乞て帰朝せしが かく残酷なる恥辱を受るは

開化の進まぬ花街の忘八(くつわ)が遊女を責るに似て

焼火箸より尚熱い大蝋燭の流れの身のつらさを託(かこつ)は

雲上人も娼妓も同じ務(つとめ)なりかし

柳亭種彦記

 

 忘八・・・遊女屋の主人の異称

雲上人・・・公卿