オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

古今名婦伝 「八百屋於七」

2018-07-12 | 豊国錦絵

お七は江戸前期、江戸本郷にいた八百屋の娘

寛文8年(1668)天和3年(1683)

慶応2年(1866)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

八百屋於七(やおやおしち)

駒込追分片町の菜蔬舗(やおや)太郎兵衛の女(むすめ)なり

當時五人娘の一の筆と評判高き美少女であった

天和元年祝融氏(しゅくゆうし)の怒りは、此邉(このあたり)焼亡させ

八百屋は指谷の圓乗寺門前に仮宅した。

寺の小姓藤堂佐兵衛と云う美少年、密に二世(にせ)を契ったが

旧地(もとち)の普請がととのうと、父とともに於七も追分に帰り

佐兵衛も中絶たるを愁い悲しみ恋慕の色著明(いちじる)しい。

この辺りの遊棍(わるもの)吉三郎という者が、虚に乗じ偸盗(ぬすみわざ)せんと

佐兵衛に会いたくば放火(ひをはなち)て家を焼けとすすめると

於七は思慮にも及ばず大罪を犯して

憐れむべし燈(ともしび)をとる蛾(むし)となり果て

吉三郎も天罰遁れず同刑に処せられた。

佐兵衛は悲歎(ひたん)に堪えず出家して西運(さいうん)と號(なの)り

常に灵場(れいじょう)に詣で、於七の後世を願い

老年に及び所々に金銅(からかね)の地蔵を造立す西運の為に

於七は夢枕に立ち成仏したことを告げた。

         (柳亭種彦記)

崑山集に                  

『火櫻の 莟(つぼみ)て丁子がしら哉』


国立国会図書館デジタルコレクションよりの豊国錦絵

「古今名婦伝」全34話の紹介完了しました。 名婦ロスとなってしまうのかな?





古今名婦伝 「丹前風呂勝山」

2018-07-07 | 豊国錦絵

勝山(かつやま)は江戸時代初期(承応・明暦の頃)に吉原で人気のあった太夫

生没年未詳

文久3年(1863)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

丹前風呂勝山(たんぜんぶろかつやま)

初めは神田丹後殿屋敷前にあった津國風呂市郎兵衛(つのくにぶろ いちろべい)の

抱えにて、艶色比類なく性質(うまれつき)活達不羈(ふき)にして全盛つづく者はない

物詣などする時は腰巻・羽織に木造(きづくり)の両刀を横たえ

玉縁の編み笠に面(おもて)を掩(おお)う其の躰(てい)益々花麗(はなやか)なり

當時(そのころ)の俳優(やくしゃ)、其の姿を模して扮(いでた)つに

見物大いに感賞する。

丹後殿前を略して丹前と称(よび)、此の風俗を丹前風と云う

のち故ありて勝山は、北郭(よしわら)山本芳潤の家の遊女となり

弥(いよいよ)美名を高くして客の絶え間なし。

能書(のうじょ)にして歌道にも心を寄せ、一種の髷を結出し

勝山と今は傳う名誉の傾城(けいせい)なり

                   (柳亭種彦記)

汶村の句に             

『晴天に むかって開く 牡丹かな』




古今名婦伝 「寶槌樓黛」

2018-07-05 | 豊国錦絵

黛(まゆずみ)は江戸時代後期(嘉永・安政の頃)の花魁

生没年未詳

文久2年(1862)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

寶槌樓黛(ほうついろうまゆずみ)

実名かねと稱(いへ)り、二歳の時雙親(ふたおや)に別れ

八歳の頃、色廓(いろざと)に賣(うら)れたが

幼齢(おさなき)時よりその性温和で生得情深ければ

傍輩・母(やりて)も憎むことはない。

唯、顔さえ知らない親を慕う嘆きの胸に迫り是のみ癪の種であったが

去る安政2年十月二日の夜の大地震の節、家屋潰された窮(まず)しき人々が

悲田廬(おすくいごや)に聚(あつ)まって居るその数 

千もと筭(かぞ)えるときき、然計(さばかり)多き人の中に 

若し我親の行方を知る人も有って 再會(めぐりあう)為にもならんと

一途の孝心に首飾(しゅしょく)を典じて黄金(こがね)を調え 

行平鍋様の物千百六十を施した。是に依って弥(いよいよ)名をあげ 

公(おおやけ)より賞銀を賜り、竒特(きどく)の孝と褒美あり

高僧碩儒(せきじゅ)も一面識を請うこと數(しばしば)あったと云う。

                       (柳亭種彦記)


『父母の しきりに恋し 雉子の声』




古今名婦伝 「祇園梶子」

2018-07-03 | 豊国錦絵

祇園梶子(ぎおんかじこ)は江戸時代中期(享保の頃)の歌人

生没年未詳 本名は梶 梶女とも

京都祇園社の茶店の女主人であったため「祇園梶子」の名で呼ばれた

文久2年(1862)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

祇園梶子

今よりは百五六十年の徃昔(むかしむかし)洛東(みやこのひがし)

祇園林において茶店を出(いで)し、梶子という性質都雅(やさし)き女あり

幼年(いとけなき)より歌をよく作(よみ)

遠近(あちこち)の騷客に賞翫(もてはや)された

一世の秀吟を少なからず集めて一巻とし「梶の葉」と號(なず)けた

就中(なかんづく)逸(すぐれ)ていると、広く世の人々に知れわたったのは

夜の霰を詠んだ作品

「雪ならば 梢にとめて あすや見ん よるのあられの 音のみして」

この結句さる人刊行したる本には「音のみぞして」と錯(あやま)りあり

かくては手尓遠波(てにをは) 調(ととの)いがたし

              (柳亭梅彦記)

        崑山集に                 

『かじの葉に かけ七夕の せんどう歌』





古今名婦伝 「新町の夕霧」

2018-07-02 | 豊国錦絵

夕霧太夫(ゆうぎりたゆう)は江戸時代前期の浪花の人気遊女

承応3年(1654)? 延宝6年(1678)

死後、夕霧を題材とした浄瑠璃や歌舞伎などが作られ後世にその名を残す

文久1年(1861)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

新町の夕霧

浪花新町扇屋の遊女なり

心優しく書に妙を得たり。惜しいかな早世する。

今も寺町浄國寺にこの妓の墓があり

花岳芳春信女という。

この妓の着た打掛は今なお存在し

夕霧の文も九軒町の揚屋「吉田屋」にあり

さらに版行して好事家の玩(もてあそび)となる

              (柳亭梅彦記)

かの夕霧の墓にて伊丹の俳人・上島鬼貫(おにつら)が

『この塚は 柳なくても 哀れなり』