母の背中に負われて 防空壕に逃げ込む場面や 焼夷弾が次々に降ってくる様は
満3歳でしたから 異様な恐怖感として おぼろに覚えています
家の裏庭に2発 シュッシュッと発火しそうになっているのを
母は消し止めたと話していました
背中で見ていた光景は 自分なりに母の話を何回も聞いたので
鮮明な場面として断片的に残っています
父の生まれた家には伯母家族が住んでいて 子どもが5人居るので
一部屋を空けて貰うのも無理でした
馬小屋の横の物置を片付けて 転がり込んだそうです
暗い家に帰ったと言う印象がありますが 従兄弟に同級生もいるし
1歳上の姉ちゃんもいたし 遊び相手ができたことをうれしく思っていました
当時 村の子どもは どの家にも5人くらいいましたから
すぐに後ろからくっ付いて 同じように走り回っていました
田圃は段々畑のように段差があって 板梯子がかかっています
農家の手伝いに母が行っているので 私も付いていって
板梯子を上ったり下りたり バランスを取りながら歩くのが好きでした
大分の方言で最初に覚えたのは「おじい~」(怖いという意味)という言葉で
みんなに笑われていたのを覚えています
おじいことがいっぱいの大分の生活が始まりました
でも祖母と母が強く守ってくれていますから 楽しさいっぱいでした
おヘソの右側に大きな腫れ物ができて 今も五百円玉くらいの跡がありますが
ドクダミ草を揉んで お腹に貼り付けてもらっていました
触られるのが痛いので 「もう痛くない!痛くない!」と
泣いて逃げ回っていたのも そのころです
栄養失調でおデキがよく出来る子どもでしたが 走るのが速く
木登りも得意で 活発な女の子に成長していきました
お父さんの存在を知らなかったある日突然 知らないメガネをかけた人が
国防色の帽子に服装で 平和な3人の世界に現れました
残務整理があり 復員できたのは昭和22年で 私は5歳になっていました
実家の跡取りが帰ってきたから 伯母の家族は隣の畑に家を建て引越しました
その日から祖母と母と私の平和な生活が 壊れ始めたと受け止めました
初めて抱き上げる我が子ですから 強く抱きしめてくれるけれど
頬っぺたに当たる髭の痛さが 父そのものの痛さだと思っていたのを覚えています
膝に抱き上げて座らせてくれることが 母から引き離されてしまいそうで
怖くて逃げ出したくって 泣きべそをかいて必死で 我慢していました
子どもに接するのが初めてのこともあり 急ぎすぎたのでしょうね きっと
7歳の時に妹が生まれて 父の攻撃から逃れられると ほっとしたものです
ず~っとこの気持ちのまま 打ち解けることができずに
50歳近くまできてしまい 父と話すのも苦手な私だったのです
平成3年に父が亡くなった後に 10年日記を発見し
そこには 4人の孝行娘を 嬉しそうに自慢している優しい父がいました
「父さんに 心を閉ざしたままの私を 孝行娘だと喜んでくれるのですか~?
申し訳ありませんでした」
と 心から詫びました
お詫びの印に 今までのことや これからのことなどを
お話しますから聞いてくださいね
実はお喋り大好き人間の私だったのです
明日に続く
阿蘇望橋です
PS
置手紙のことづて欄が不具合中ですので、
コメントの設定を開始したいと思います。
皆様のお声を楽しみにお待ちしています(*^_^*)
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