長い間 母の介護と 現役時代の出会いを聞いていただきましたから
これから私の73年のあれこれを ゆっくりと語っていきたいと思います
すべてが人間賛歌に通じる過程ですから~♪
父は明治42年に大分県で生まれ 2人の姉と妹3人の中の長男として生まれました
その時の家族の喜びようはたいへんなものだったと聞きます
古い柱時計はその時のお祝いだったそうで 今も実家で 健在に時を刻んでいます
父が10歳の時に祖父がスペイン風邪で47歳で亡くなり 乳飲み子だった下の妹は
養女に その上の妹は親類にもらってもらい 42歳の母親を助けて苦労をしたと聞きました
勉強が良く出来るから上の学校に行かせてやりたかったと 祖母は何回も言ってました
たしかにそうだと思います
82歳で亡くなるまで 常にいろんな勉強を 暇を見つけてはしている父でした
貧しい中で大きくなったから「もったいない!使えるものは工夫して使わせてもらおう」と
新聞のチラシの裏の白いのを メモ帳にしていました
習字の練習には 新聞紙が裏表真っ黒になるまで使っていました
物を生かして使うという教えだけれど どうしても好きになれない煙たい父親でしたから
私は批判的な眼で眺めていました
父は大阪の叔父を頼って 商業高校を出て 電話局に勤めていました
母は愛媛県の松山市の小さな島で育ち 縁あってお見合いで結婚しました
昭和13年のことです
私の上に二人ほど流産や早産で亡くなり 元気な子どもは授からないのかもしれないと
両親は不安だったそうです
昭和16年の12月に太平洋戦争が始まりました
電話局に勤めていたので 呉の方の暁部隊という配属になったそうです
日本は八紘一宇という植民地政策を打ち出し
広く領土を近隣諸国に求めた戦争を始めたのでした
その中の一字を取って 名前を付けようと決めたと聞きました
昭和17年頃に生まれた人に 多くこの字の名前を見かけます
いやな戦争をずっと背負っているようで 好きになれない名前なのですが
連れ合いは出会った頃に 良い名前だといってくれたので
かなり救われた気になったのを思い出します
紘と恒の2文字を名前の候補に上げてくれていたそうです
ヒロコかツネコか どちらかになるところでした
広く 強く いつまでも変わらない運命の子を授かりたいと言う
親心の表れだったのです
子どもを亡くした経験から 丈夫な子どもをと願う父親の
切なる願いの名前だと今なら分かるのですが・・・
昭和20年の3月に大空襲に遭い 大分の父の故郷へ疎開しました
母と祖母と3人の暮らしが竹田で始まりました
続きはまた明日に~♪
胡蝶蘭です
PS
置手紙のことづてが不具合中ですので、
コメントの設定を開始したいと思います。
皆様のお声を楽しみにお待ちしています(*^_^*)
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