貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・漢の韓信

2022年09月05日 | 貧者の一灯






   







魚腸剣の秘策


公子光は自宅の地下室に鎧武者を隠して、
王に行幸を願い出た。自宅には酒宴の用意が
すでにされてあった。

「光のやつが余を宴に……?」

呉王僚は、言いながらそれに赴くか
どうか迷った。

僚と光との間は、決して良好とは言えない。
彼らはどちらも、自分自身を正統な世継ぎ
だと認識しているうえに、お互いにそのこと
を知っているのである。

いままでそれが問題化しなかったのは、両者
が存外謹み深く、表立って自分の意志を
表明することがなかったからに過ぎない。

「王族同士の諍いさかいがあることが楚に
知れたら、それを原因につけ込まれること
になろう。

ただでさえ、このたびの出兵が失敗に終わり
そうな状況だからな。行くしかあるまい」僚は
側近を相手にそのように話し、誘いを受けた。

しかし僚は警戒心をあらわにし、宮殿から
光の邸宅に至るまでの道に、自身の配下の
兵士を並べ尽くした。

また、光の家の門口や階段の両側にも
自身の兵を配し、万全の警備体制を布いた。

宴は、そのような物々しい雰囲気の中、
開催されることとなったのである。

兵士たちは皆長剣を携え、厳しい目つきで
光を見据えていた。誰もが、なにか起きると
すれば光本人が行動を起こすものと考えて
いたのである。

「楚地への出征の機会があるとすれば、ぜひ
この次は私に命じていただきたい。

現在、戦地で孤立している公子蓋余と公子属庸
のお二人を解放するとともに、領土を拡張して
みせましょう。

この私には、その秘策があるのです」

宴の場で、光は心にもないことを言って場を
盛り上げようとする。僚はその様子を鼻で
笑ったが、何も批判めいたことは口に
しなかった。

現在の楚地での戦況は呉に不利であり、それを
導いたのは僚の判断であったことは明らかで
あったからだ。

しらじらしい雰囲気が場に漂ったが、酒がその
雰囲気を緩和させた。僚は酔い、光も酔った。

しかし彼らは二人とも判断力を失ったわけではない。
「……酒に酔うと、どうも昔、戦場で受けた傷が
痛むのです。ちと、足が痛むので少しばかり中座
させていただきます」

光は酩酊気分を装った風でそう言うと、地下室
に向かった。

僚は、彼が足に膏薬でも塗るために中座した
ものと思ったようである。もう宴が催されてから
小一時間が過ぎようとしていた。

光が何かを企んでいたとしたら、もうすでに
実行に及んでいるはずだ、と踏んだのである。

「専諸……」地下室で呼びかけられた子仲は、
それを命令だと受け止め、無言で光に頷き返した。

彼の手には、焼魚が乗せられた皿がある。

皿を膳に据えた子仲は、上階に赴いて、
それを僚に奉ろうとした。

「おう、焼魚か……。美味そうだ」僚は舌鼓をうち、
食事に視線を注いだ。下を向いたのである。

専諸、すなわち子仲はその一瞬を逃さなかった。
魚の腹の中に隠された匕首に手を伸ばし、彼は
それで僚の喉元を突いた。

「ぐっ……」僚は苦悶の声をほんの僅かに
発したが、それ以上何もできない。
彼は頸動脈を切られ、絶命した。

「刺客だ! 刺客がいるぞ!」

各所に配置された警備の兵士たちが一斉に
子仲に向かって攻撃を始めた。子仲は手に
していた匕首でそれを受けようとしたが、反撃
は叶わなかった。

子仲は、警備兵たちの長剣に体中を串刺し
にされ、血まみれになりながら息絶えた。

宴の席に大混乱が起きたが、それを地下室
から出動した兵たちが鎮圧し、呉王僚の側の
者たちは、その場ですべて殺されるに至った。

そして光は宣言する。

「いま、このとき、この瞬間から、私が王だ。
これ以降、私のことは光ではなく……
闔閭こうりょと呼べ! 

余は、呉王闔閭なり!」


第二章:呉の興隆  兵法家 


呉王を称し、新たに闔閭を名乗った光が、
まず最初に行なったことは、亡き専諸、
つまり子仲の願いに報いることであった。

彼は楚地に残る子仲の母と息子に使者
を送り、呉に招き入れた。

そして封邑として堂邑どうゆう(現在の南京市
の一部)を息子に与え、彼を上卿じょうけいと
して遇した。

卿とは地方領主である大夫の中で首都の
宮殿に招かれ、国政の一部を担った者の
身分を示す。

上卿とはさらにその中でも重職を与えられた
者を指すが、この当時の子仲の息子は、
未だ幼少であった。よってこれは親である
子仲の功績によって与えられた名誉職である。

「王ともなれば、あらゆるものを人に授けること
ができる。だが、命を与えることだけはできない。

専諸を生き返らせることができないことだけが、
残念だ」それは真情であったに違いないだろう。

彼はしばらくの間下野していた伍子胥を
呼び寄せ、宮中の自分の隣の席に招き入れた。

余の側近となれ。それ以外に専諸を推挙して
くれた貴公に報いる方法を、余は知らぬ」

闔閭は、伍子胥に破格とも言える待遇を示した。
すなわち、宰相の地位である。

伍子胥は、これを受けた。

つまり、子仲は死してひとりの王と、ひとりの
宰相を生み出したのである。

「専諸はいい男でありましたが、死んでしまい
ました。私は、近いうちにまた王様にいい
男を紹介しようと思っています」

伍子胥は任官の際、そのようなことを口にした。
これに対し、闔閭は次のように返答する。

「貴公のことであるから、地位を得たらすぐに
楚に復讐したいとでも言い出すのかと思って
いたが」伍子胥は首を振った。

「その意志があることに偽りはございませんが、
私としては万全の準備をしてそれに臨みたい
と思うのです。

潰す時に徹底的に潰すため……」
「なるほど、貴公が単なる激情の男で
ないことがよくわかった。

ところでいい男とは、もうすでに目星がついて
おるのか」

「すでに。しかし、まだ正式に王様に推挙
できる段階ではございません。

ひどく、風変わりな男なのです」

「ほう……どんな男だ」
聞かれた伍子胥は、珍しく言葉に詰まった。

その男をひと言で表すことは、非常に
難しいことだったのだろう。

「言うなれば……彼は学者です。

しかし、いつも室内にこもって書を読み
あさっているような手合いの者では
ありません。

彼は活動的でありますが、あるときには
空ばかりを見つめていたり、またあるとき
には山ばかりを見つめています。

その一方で、彼は人の心を見定めている
のです」闔閭は理解に窮した。

いったい伍子胥がなにを言っているの
かが、わからなかったのである。 ……









CUに入ってから、酸素マスクのおかげで、
身体はだいぶ楽になった。

脳はもともと元気なので、いろいろ考えている。
生まれて初めての救急車、入院、そしてICU。
この状況を観察して、「取材」だと思うことにした。

いつか小説やエッセイに役立てるために。
せっかくの経験なんだから。

スマホで、通話は駄目だけど、メールなら
OKと言われたので、仕事関係者に連絡
をしまくる。

まずは翌週に東京でやるはずだった
イベントの関係者、そして出演予定だった
ラジオ、会う予定だった編集者たちに、
弾丸のように謝罪と状況説明のメール
をする。

ここで少しだけ悩んだのは、今、この状況
をSNSで公表するかどうかだった。

本来ならば、隠したかった。

退院したあとで、「実は入院してました。
今は元気」ぐらいでいい。騒ぎになりたくない。

ただ、複数の出版イベントの予定を控え
ていて、中止、登壇取りやめにせざるをえない。
「体調不良のため」としたら、いらん憶測を
呼ぶのは間違いない。

だからやむおえず、SNSで「救急車で運ばれ
て入院して、イベント出られません」と書いた。

ただ、「心不全」という病名は書かなかった。
個人的に連絡をくれた友人や、仕事関係者
には伝えたけれど、SNSでは伏せた。

色々煩わしいことになりそうで これには
理由がある。 まず、病名を公表することにより、
今は回復に向かっているのに、大袈裟にとる
人が必ずいて、「素人アドバイス」などが押し
寄せてくるのを避けるためだ。

そしてコロナ禍の中、「心不全」という病名を、
反ワクチンの人たちに利用されたら嫌だなと
いうのもあった。

「心不全の死者が多い! 
ワクチンと関連している!」
などと主張する人たちのつぶやきを
見たことがあったからだ。

私までそれに巻き込まれたくない。 

また「心不全」という病名は、自死した人の
家族が、自死だというのを隠すために使う
場合があるとどこかで読んだ覚えがある。

自死しようとしたのだと、勝手に思い込まれる
のは困るし、周りの人にも迷惑がかかる。

人は自分にとって都合がよく、「そうあって
欲しい」情報を信じがちだ。私に対して、
なんらかの同情心や嫌悪を抱いている人が、
「自殺未遂」だと解釈することは、間違いなく
あるだろう。

SNSに入院したことを書き、出版社や会う
予定があった友人などに連絡すると、
驚きはしたようだが、「お大事に」と、
優しい言葉をくれた。

常日頃、「私が死んでも誰も悲しまないん
じゃないか。でも私のことを嫌いな奴らが
喜ぶから、死ぬのは嫌だ」と考えていたが、
そうでもないかもと、少し思った。

そのご心配、お門違いです 

病名を公表せずにSNSに書いたけれど、
ひとつ困ったのは、「仕事のし過ぎ、過労
が原因」と勝手に思い込む人が多かった
ことだ。

今までが忙しすぎたし、50歳を過ぎたの
だから、身体を壊すほど仕事したくないな
とも考えていた。

確かに数年前までは、文芸誌に軒並み
書いていたし、本も多いときは一年に8冊
ほど刊行していた頃もあった。

その後、本が売れず、仕事は減っていき、
今にいたる。

それでも何社かとはつきあいがあるし、
生活はできていて不自由はなかった。

多忙な頃は、精神的にも肉体的にも
きつかったし、眠れなくなり精神科で
睡眠薬を処方され、今にいたる。

あんな状態を続けていたら、それこそ
早死する。

だから、今、50歳を過ぎてからの、そこそこ
時間に余裕がある生活は、多少の先行き
の不安はあっても快適だったのだ。

ICUに入り、だいぶ楽になったとはいえ、
ネガティブになったり不安を抱くと、鼓動
が早まる。 そ

れが、とてつもなく恐怖の感情を呼び覚ます。
また心臓の動きが悪くなり、今度こそ死ぬん
じゃないか、と。 ストレスを抱え込みたくない。

とはいえ、入院そのものが大きなストレス
ではあった。 …