「夜明けのスキャット」や「手紙」で知られる由紀さおりさんは
姉・安田祥子さんとの童謡コンサート、世界的ビッグバンド
「ピンク・マルティーニ」とのコラボなど、さまざまな音楽に挑戦
してきた。
歌手生活の中で忘れられないのは童謡歌手から大人の歌手
に脱皮しようと模索していた時期……。
私が音楽を始めたのは姉が先に入っていた横浜の「ひばり
児童合唱団」で、最初は童謡歌手だったんです。
それから1969年に発売した「夜明けのスキャット」が150万枚の
ヒットを記録するまでの間、特に中3から高校時代が悩んだ
時期でしたね。
当時から、子役が大人の俳優になるのは難しいように、
童謡歌手が大人の歌い手になるのは無理という定説が
あったんですね。
その頃、児童合唱団がコロムビアからキングレコードに移籍
することになり、私も歌の勉強をさせてもらえるというので一緒
にキングに移り、歌手を目指すことになりました。
ところが、童謡歌手のイメージを払拭したいと思っていたのに、
歌ったのはトリオ・ロス・パンチョスの「ベサメ・ムーチョ」とか、
いわゆるムード歌謡です。
中3、高1ですよ。背伸びした大人の歌を歌わされ、違うなあ
と思いました。
当時は何でも歌わなきゃいけない時代でした。三橋美智也さん
や春日八郎さんの曲を作った小町昭さん、吉田矢健治さんが
いらして、キング時代の同期は「女心の唄」のバーブ佐竹さんや
「まつのき小唄」の二宮ゆき子さんでした。
でも、そのころよく見ていた番組は「ザ・ヒットパレード」です。
スマイリー小原さんが指揮してザ・ピーナッツ、梓みちよさん、
伊東ゆかりさん、中尾ミエさん、園まりさん、ジェリー藤尾さん、
渡辺トモコさん、坂本九さんらの歌が流れていました。
私が中学時代に最初に買ったドーナツ盤レコードは「チュー
チュー トレイン」のニール・セダカ「恋の片道切符」だし、
口ずさんでいたのはコニー・フランシス「カラーに口紅」。
そんなアメリカンポップスがあって、何か違うと思っていた
私に入ってきたのがフレンチポップスです。
管楽器だけのバンドではなく弦楽器も入っているポール・モーリア
の「恋はみずいろ」のようなヨーロッパのサウンド、フランス・
ギャルが歌ってヒットしていた「夢みるシャンソン人形」、
シルビ・バルタン、クロード・ルルーシュ監督の映画「男と女」
のダバダバダ、ダバダバダ……。すべてがキラキラキラと輝き、
私の中でワッと広がりました。
高1なのに「客前で歌え」と教えられ銀座のクラブへ
高校生になってからは日本の歌と異なるリズムを身に付け
るため、先生についてジャズを習いました。
でも、そういう歌を歌いたいなら「僕のところに来てもうまく
ならないよ。
うまくなるには客前で歌わないと。その気があるなら銀座の
クラブを紹介する」と先生に言われ、高1からクラブで歌う
ことになったんです。
それからは学校に内緒で帰ると家でお化粧をしてお店に
向かいました。そこでは1日に6時半と7時半の2回のステージ
をこなしました。
銀座からの帰り道に酔っぱらいに「おい、ねえちゃん!」
なんて声をかけられて。母に言ったら「あんたにスキがあるから」
と叱られたけど、それからは心配だから、迎えに来てくれるよう
になりました。
銀座のクラブでは鍛えられましたね。バンドのみなさんが
アドリブで自由に演奏するのに合わせなきゃいけないから、
すっごく勉強になりました。
「ピンク・マルティーニ」の世界ツアーに呼ばれた時は、その時
の経験が生きました。リーダーのトーマスさんがそういう人で
したから。 「夜明けのスキャット」がヒットしましたが、フレンチ
ポップスを歌いながら、大人の歌手に脱皮できるかもがいたこと
が今につながっています。
50周年の節目に観世能楽堂で一人芝居
2019年に50周年の節目を迎え、いろんな歌を歌ってきた集約
として新たなチャレンジができないかを考え、観世能楽堂で
一人芝居をやることができました。
有吉佐和子先生の「芝桜」が原作の「夢の花―蔦代」という
舞台です。
17歳で酌婦になり、旦那にひかれ、戦後再び芸者に戻る
女性の物語。演じるには三味線を弾き、踊りをやって、
着物も着こなさなきゃいけないとか、やることが多くて
夢中でした。
わかったのは100回の稽古よりも1回の本番ということ。
かつて「客前で歌わないと歌はうまくならない」と先生に
言われたことが理解できた気がしました。 ・・・
・・・
夫の転勤で東京に引っ越してきた時、一番驚いたのは、
人の多さだった。地元と比べてオシャレな美男美女も多い。
当時は街を歩くだけで楽しくなって、ついつい、きょろきょろ
とあたりを見回していた。
感動したのは街で見かける芸能人!この前は、人気イケメン
俳優が自宅近くを自転車で走っていた。夫は「下町に住んで
いるわけない」と言うけれど、絶対にあのイケメンはそうだ。
東京にはテレビで見たものがたくさんあった。 新宿、表参道、
六本木、代官山……思いつくところには全部行ってみたく
なって、夫の手を引いていろんな場所へ行った。
都会を歩く自分が嬉うれしくて、それだけで大満足。「スゲー!
スゲー!」と目を丸くすることばかり。
ただ、やっかいなことに、ここにいると、次第に街歩きだけじゃ
満足できなくなり、買い物がしたくなる。オシャレなお店があり
すぎるのだ。
何枚か素敵すてきなお洋服を買ってもらった。でも、不思議
なもので買えば買うほど、欲しいものは増えていく。
私「今年は寒いのでコートが必要です」
夫「いえ、昨年買ったものを今年も着る約束でした」
私「子どもの成長に合わせて動きやすいコートが必要に
なったのです!」
こんな調子で我が家ではシーズンごとに夫婦間で洋服交渉
が起きていた。
ところが、去年の冬、この交渉が初めて撤廃された。
なんの心境の変化か、夫が「毎月お小遣いをあげるから、
それで必要なものはそろえて」と言い始めたのである。
自分のお金、使い道考えるとワクワク 自由に使えるお金
ができた!
給料日の朝、夫はスマホを操作してお金を振り分ける。
家計の厳しさは前にも書いたとおり。家賃や食費、
保険料、光熱費、通信費に加え、娘のための貯金と月々
の借金返済、夫のお小遣い。
残った3万円で日々の生活で生じる雑費をまかないつつ、
「残りをお小遣いにしてもいい」というのが夫の提案。
とことん無駄を切り詰めれば、ママ友とのランチ代は
もちろん、洋服代や化粧品代、美容院代もなんとかなる
かもしれない!! というわけで、今まで以上に節約を意識
するようになった私だが、久しぶりの「自由に使えるお金が
ある環境」はやっぱり最高だった。
なにせ、独身時代は自由すぎる生活を謳歌おうかした
身である。新作コスメも洋服も「これ、欲しい!」って思えば
すぐ買っていたし、美容院にも月に1度は行っていた。
お金が欲しければ夜の街に働きに出ればいい。夫と同棲
どうせいし始めて、昼の仕事に就いてからも、「自分のお金
は自分のお金」。お金を理由に真剣に悩むことはなかった。
その幸せは結婚と同時に失われた。「働かなくていい!」と
喜んだのもつかの間、お金と自分の関係ががらりと変わった
現実に直面した。
私のお金は家族みんなのもの。300円の靴下を買うにも
躊躇ちゅうちょする生活を続けてきたのだ。
でも、今は無敵だ。独身の頃より少ないけど、家族公認の
「自分のお金」が手元にある。「何に使おうか」と考える時は
やっぱり楽しくて、あれを買おう!いや、これも欲しいな、
と考えた末、ある百貨店で見つけた高級バッグに狙いを
定めた。
お値段なんと12万円なり。1年近くお小遣いから貯金すれば
何とか手が届くはず……だ。
オシャレで都会的ではないけれど 自宅で居酒屋気分…
休日の夜食は楽しみの一つだ
「おはよう!」 休日の朝、私たち夫婦は娘にのしかかられて
目覚める。朝食をサッとすますと、掃除と買い出しは午前中
に終わらせ、昼食作りへ。
夫婦の定番はインスタント麺にたくさんの野菜、そして夫
お手製の「にんにくバター」をのせてできる野菜ラーメンだ。
夫は昼食中、思い出したかのように「午後からどっか出
かける?」と聞いてくる。 出かけたいなぁー……。今年は
我慢の春だったし、久々にショッピングも楽しみたい。
だけど、節約して貯ためたお小遣いはようやく6万円まで
いったところだ。「……疲れているだろうし、近所でいいよ!」。
先日もいたわるように見せかけて、やんわり断った。
午後からのお決まりは近所の公園。葉っぱを手にご満悦の
娘を「パパによこせ!」と追いかける夫。ゲラゲラ笑いながら
逃げる娘を動画で撮影する私。みんな、パジャマみたいな
格好だ。
休日の夜の楽しみは、娘を寝かしつけた後の夜食タイム。
冷ややっこにキムチをのせてごま油で食べたり、枝豆を
ニンニクとオリーブオイルで炒いためて食べたり、居酒屋
気分を味わう。
東京に来て約2年。未いまだにテレビで見ていたような、
オシャレで都会的なライフスタイルには全く近づけてないけど、
お金をけちったダサい日常の方が私たちには合っている
のかもしれない。
いつかお小遣いが貯まって、あの素敵なバッグを持つことが
できたらどんな気分だろう。
でも、もし20年貯め続ければ、娘の結婚資金になるかも?
そんなことを考えながら、私は今日もお小遣いを使わず
貯め続けている。
お金と自分の関係。結婚してやっぱり大きく変わった。
・・・