第二章:呉の興隆 算すくなきは勝たず
※
「楚は内政の混乱が続き、以前の荘王の
時代のような勢いはないが、それでも江南
地域一帯に与える影響力は健在だ。
江南には我々呉や越などの国々があるが、
楚を上回る国力を持った国はひとつとしてない。
このため、いまの我々には直接楚を攻撃して
も打ち破る力はないとみた」
伍子胥は孫武を相手に、あえて順序立てて
説明を始めた。
何しろ相手は鬱屈しているとはいえ、学者
なのである。論拠が成立していないと反論
されるに違いなかった。
「うむ。私もそう思う。続けてくれ」
幸い孫武は同意を示してくれた。
伍子胥は話を続ける。 「そこで考えたのだが、
我々は楚の兵力をじわじわと分散させ、
王都である郢の守備力を削がなければならない。
楚には、陳や蔡、舒、黄、息、鐘吾などの
従属国が数多く存在するが、 これらの
国々はそれぞれ弱小であるから攻める
には易しい。
これらの国々をひとつひとつ潰していけば、
楚は国境付近に兵を集中させることになる。
当然、郢の守備は手薄になるはずだ」
「あたかも城の外濠を少しずつ埋めて
いくような戦略だ。
迂遠なようであるが、強大な敵を相手に
戦うには、綿密な計画が必要だ。
短兵急に王都を急襲し、 その勢いで国を
乗っ取ろうとしないことは気に入ったぞ。
子胥どのは私の書物をよく理解しているようだ」
「先ず勝つべからざるを為して、以て敵の
勝つべきを待つ(先為不可勝、以待敵之可勝)
、であろう?」
伍子胥は微笑を浮かべながら、 孫武の書物の
一節を暗誦した。その微笑は、やや苦笑いに
似たものであった。
「そうだ。まずは勝つ態勢を整え、敵が
弱点をさらけ出すことを待たねばならぬ。
周辺従属国を討ち取っていくことには賛成だ。
しかし、 あまりにも長引かせてはならない。
兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久(巧遅)
を賭ざるなり、ということだ。……これは、
王にも伝えたことだが」「一戦一戦を迅速に
戦えば、問題なかろう」
彼らは最初の目標を、舒に定めた。
※
舒には領主として蓋余がいる。もとの呉王である
僚の弟であり、交戦中に僚が国内で殺された
ことによって失脚し、楚に降伏したという経緯
がある。
このときの楚の対応もなかなかにしたたかだ。
降伏した蓋余と、その弟の属庸をそれぞれ
国境に近い舒と鐘吾の領主として封建し、
諸侯としたのである。
常に呉と対立状態が続いていたこの時期に、
あえてこのふたりを国境付近に配置したことには、
悪意の存在さえ感じさせる。
そしてその防衛に割かれた人員は極端に
少ない。
このとき申包胥は、奮揚や紅花を引き連れて
ようやく郢に移住したときだった。
事態を予測して行動を起こした彼であったが、
実情は彼の想像を上回る早さで展開していた。
舒はすでに陥落していたのである。
「早い! なんという早さよ」
報告を受けた包胥は舌を巻いた。
「蓋余はどうした」 使者に向かい、
包胥と奮揚は異口同音に尋ねる。
使者は、思い出すのも恐ろしいというような
表情を浮かべ、それに答えた。
「このたびの侵略には、呉王闔閭が自ら
出征しております。 しかしながら、その
編成は三万程度の兵に過ぎません。
しかし舒はそれよりも守備隊の人数が少なく、
激しい城攻めに遭いました。
蓋余さまはそこで降伏を申し出ましたが、
呉王はそれを許しませんでした。
蓋余さまは……火刑となったのです」
紅花はそれを聞き、思わず顔を覆った。
奮揚は、声も出せない。
「生きたまま焼かれたというのか……闔閭と
いう男は、よほど僚の一族をうらんでいるな。
急ぎ、王さまと太后さまにご報告をしなければ
ならない。
出征の許可を取り付けるのだ」包胥は立ち
上がってそう言ったが、奮揚はそれによい
反応を示さなかった。
「しかし……もう間に合わないかもしれない。
蓋余が残虐な方法で殺されたとなると、
次の呉軍の目標は鐘吾だ。僚のもうひとりの弟、
属庸が狙われる」
紅花も同じ反応を示した。
「舒と鐘吾はほど近い位置にあると聞いて
います。郢から鐘吾に向かうよりも近くて、
私たちがこれから向かったとしても間に合う
距離ではありません」
しかし包胥はこのとき強情を張った。
「そんなことはわかっている。だが、我々は
行かねばならぬ。見捨ててはならぬのだ。
それに紅花……私たちがこれから向かうと
お前は言ったが、私はお前を戦地に連れて
行こうなどとは考えていない!
お前の役目は、私に替わって太后さまを
守ることだ!」
めずらしく怒声を放った包胥の態度に、
紅花も奮揚も驚いた。
「お兄さま……すみません」 紅花は引き
下がらざるを得なかった。それは、彼女が
兄の唱える「道」を真の意味で理解して
いなかったことを痛感したからであった。…
入院5日目、熟睡して目覚めもすっきり。
入院してから、眠りが浅い日と、よく眠れる日が、
交互で訪れている。
この日は、夜の道路を全速力で走る夢を見た、
なぜか行先は、北陸方面だ。福井や石川に
行きたいのだろうか、私は。…
「病室移りますね」と、看護師さんに告げられた。
集団行動が大嫌いなので、複数人がいる部屋
でやっていける自信はなかったが、いつまで
続くかわからない入院生活、
個室の値段がいくらになるのかも怖いし、
ネタになると考えて従うことにした。
そして私は、同じフロアの4人部屋に移った。
今まではベッドごとの移動だったが、今度は
車椅子移動だ。
4人部屋で、窓際にひとり誰かがいる様子
だったが、カーテンで仕切られているから
姿は見えない。
テレビがあり、洋服をかける台と、椅子と
テーブルがある。椅子に鞄を置く。
今日は午後に夫が荷物を持ってきてくれる
はずだった。
窓際のベッドで、高層階なので、景色がいい。
京都は景観条例があるので、高い建物がなく、
街を一望できて、空が広い。
ネタにせな、やってられへん
個室からの引っ越しを終えて、私がまずした
ことは、「心不全で入院してるんですけど、
そもそも更年期の不調だと思い込み放置した
結果なんです。
それって、以前、連載していた『ヘイケイ日記』
ともつながるテーマなので、入院記を連載させ
てもらえませんか?
本になるほどの分量はないかもしれないので、
WEB連載だけでも」と、幻冬舎の担当編集者
にメールすることだった。
こんなん、ネタにせな、やってられへん……と、
入院して早い段階から、考えていた。
せっかくの初救急車、初入院、初ICU、
この体験を、SNSではなく、ちゃんとお金が
もらえる媒体で書きたいと。
月曜日になれば営業すると決め、どこに声を
かけるか考えて、最初に浮かんだのが、この
幻冬舎plusだった。
以前、「ヘイケイ日記」という、閉経を目前とした
女のあれこれ心身の変化などの連載をして、
本にもなっていた関係がある。
メールをすると、約2時間後に、「幻冬舎プラス
の編集長も興味を持っています。OKです」と
返信が来た。
さすがに話が早い。連載が決まり、ホッとした。
これで何かしら今後ストレスがあっても、ネタに!
と思えばきっと耐えられる。
「心不全」で亡くなった人をつい調べる
夫が荷物を持ってくるまではまだ時間が
あって、その間に私が何をしていたか
というと、「心不全」で亡くなった有名人
の検索だ。
「心不全」は、芸能人等の死因でよく聞くが、
今までたいして気にもしていなかった。
出てきた名前は、大杉漣、有吉佐和子、
坪内祐三、山口美江……みんな若い。
心不全ではないけど、同じく心臓の病で
急死したのは作家の林芙美子もだ。
なかでも、山口美江さんは、51歳、今の
私と同じだ。ひとり暮らしで、連絡が取れ
ないので親族が駆け付けると亡くなっていた。
「心不全」とされたけれど、詳しいことは
わからない、と記事にはある。
他人事ではなかった。
私は繁華街で具合が悪くなり、バス停にいた
人に救急車を呼んでもらったから助かった。
自分で救急車を呼べる状態ではなかった。
「119」が浮かばないのだ。スマホに緊急
呼び出し機能がついているけれど、それも
発想になかった。
もしも誰もいない場所で倒れてたら、
そのまま心臓が止まっていたかもしれない。
自宅にひとりでいるとき、スマホを手元に
置いているとは限らない。
鞄の中や、机の上に置きっぱなしという
ことは、よくある。
ワンルームマンションならともかく、広い家
に住んでいたら、具合悪くなって動けなく
なっても、手元に携帯電話やスマホがない
可能性のほうが高い。そうなると、助けを
呼ぶ手段はない。
山口美江さんがテレビに現れたとき、美人
で、知的で、バイリンガルで、バラエティ
番組に出るユーモアもあって、すごい女性
だと子どもの頃、感心していた。
若くで自宅で亡くなり、「孤独死」と報道され、
かつてが華やかな存在だったからこそ、
重い気分になったのを覚えている。
確か、その前にテレビに出ていたとき、
激やせが話題になっていたから、何らか
の不調はあったのだろう。
命と引き換えにする仕事
林芙美子は、働き過ぎて心臓を悪くしていた。
貧しい育ちから這い上がった林芙美子は、
他の作家に取られたくないと、仕事を引き
受けまくって、その勝気さと成り上がりゆえ
なのか、ときどきの品の無い振舞で嫌われ
てもいたという。
彼女は負けたくなかったのだと思う。
自分を馬鹿にする、文壇や、世間に。
林芙美子について書かれたものを読むと、
私は他人事ではいられない。
馬鹿にされたくない、自分を侮辱、嘲笑
してきたヤツらを見返してやりたい。
そんな気持ちは、私の中にもずっとあって、
数年前までは凄まじい仕事量を抱えていた。
でも、その結果、眠れなくなり、心を病んだ。
そのうち頑張って書いても書いても売れず、
仕事は減った。けれど、楽にもなった。
もしも私が林芙美子のように売れっ子になり、
あのペースで書き続けていたら、それこそ
もっと早く倒れていたか、精神的に病んで
書けなくなっていたか、どちらかだ。
仕事は欲しいけれど、命と引き換えまで
にはしたくない。……